一橋大学過去問

 

 

1987

I  次の文章は,イギリスの歴史家G.バフクラフの著書『転換期の歴史』の一節である。これを読んで,下記の問いに答えよ。
「西ヨーロッパは,1000年以上にわたる発展の中で,三度大きな危機を通りぬけてきた。三回とも,ヨーロッパは革命的大混乱をかいくぐったが,その混乱は既存の政治秩序をうち砕いただけでなく,人びとの世界観,神・自然・同胞に対する態度を変えた。そして三度とも,ヨーロッパは弱体化するどころか強化されて立ち現われ,新しい抱負とエネルギーを身につけて新しい課題に立ち向った。まず第一の危機は1073年教皇グレゴリウス7世の就任にはじまり,半世紀もつづいたそれは醗酵醸成の時代であって,その雄大さにおいてこれと並びうるのは,ヨーロッパ史の他の二つの危機の時代だけである。その一つは,ルターが95九条のテーゼをヴィッテンベルクの教会の扉にうちつけたとき,すなわち1517年にはじまって,1555年までつづいた。そしてもう一つは,1788年ルイ16世の三部会召集につづく革命の数十年を含む時代で,1815年までつづいた。保守主義者や伝統主義者には,この三つの事件につづく動乱は,あらゆる社会規範の解体を意味し,ヨーロッパ文明のさし迫った凋落を予告するように思われた。しかし,しばしばそうであるように,同時代人のペシミズムは正しくはなかった。古い秩序への攻撃,既存の統制や禁制の弱体化,習慣と伝統の古びた外殻の破砕などは,新しい世界をつくり出し,それまで潜伏し抑えられていた力や衝動が活動する場をつくった。(前川賞次郎,兼岩正夫訳。一部改訳)

 下線の部分で述べられている出来事は,通常「叙任権闘争」とよばれ,教会と国家の関係に根本的な転換をもたらすものであった。この争乱の概要を記し,また,それがいかなる意味で,ヨーロッパ史上,宗教改革,フランス大革命に匹敵するような大変革であったと言いうるのかを説明せよ。(400字以内)

II  現在の南アフリカでは先住黒人の他,オランダ系・イギリス系の白人やインド系住民からなる多人種社会の特徴がみられるうえ,人口の多数を占める黒人住民の選挙潅や移動の自由を否定する人種差別・隔離(アパルトヘイト)政策が維持されてきた。このような多人種社会が形成された経過と人種差別政策が維持されてきた歴史的原因を説明しなさい。(400字以内)

III 次の問A,Bに答えなさい。
A 中国の北魏王朝のもとで,一時,国教となり,仏身を排撃するほどの影響力をもつにいたった宗教につき,次の問いに答えよ。(合計200字以内)
(1) この宗教の思想的基盤となった古代思想につき,その宇宙観の特徴を簡潔に記せ。
(2) この宗教の形成過程において,後漢末の農民反乱に影響を与えた民間信仰の組織者とその運動の特徴を述べよ。
(3) この宗教の形成過程において流行した「清談」の社会経済的背景につき,土地制度を中心に述べよ。

B アーリヤ人の進入後の古代インドについて,下記の単語は必ず用いて,説明せよ。なお,これらの単語には,下線を付けること。(200字以内)
リグ-ヴェーダ 小王国 ガンジス河流域への進出 宗教改革運動 部族集団 ヴァルナ制度

1988

I  次の文章を読んで,下記の問いに答えよ。
13-14世紀において,ヨーロッパ諸都市を結節点として形成された広域的商業圏は「中世の世界経済」として知られている。イギリスの経済学者マーシャル(Alfred Marshall)は,それらの都市が経済的な自由や独立を享受して繁栄をとげた点に着目し,そこに経済的な国民主義の始まりを見出して,つぎのように述べている。
「今日,経済的国民主義と呼ばれているものは,実際には,ブリュージュやアントウェルペン(アントワープ),あるいはヴェネチア(ベニス),フィレンツェ(フローレンス)ないしミラノの精神が一国全体にひろまったものである。それは,最初に,オランダに浸透した。その国は,いたるところに及ぶ水路網によって密接に結びつけられた諸都市からなっていた。それらの都市はお互いに妬み合っていたけれども,貿易という共通の目的のために,全体としては協調的に行動した。こうした状態のもとで,大規模な国民的産業にとっての機が熟さないうちに,国民的貿易が創造されたのである。……(中略)……イギリス人はオラシダに激しい戦いを挑んだ。その戦いから得たものはわずかであった。しかし,オランダの弟子としてイギリス人がその国から学んだものははかりしれない。」(マーシャル『産業と商業』より訳出)
引用文中の下線を付した二つの部分の関連に注意して,マーシャルが重視していると考えられる具体的な歴史経過を略述せよ。(400字以内)

II  アメリカ合衆国とロシアの近代化において1860年代の奴隷制と農奴制の廃止は,重要な画期であった。それぞれについて廃止までの経過とその意義について述べなさい。その際,アメリカでは奴隷制が国内の戦争を経て廃止されたのに対して,ロシアでは農奴制が大きな政治的混乱もなく廃止された理由についても言及しなさい。(400字以内)

III 16世紀のインドと17世紀の中国に樹立された二つの帝国には,ある共通する性格があった。そのことを念頭におきつつ,両帝国の支配機構,土地制度,思想・宗教政策の特徴について述べ,さらにそれぞれの帝国を解体に導いた要因を簡単に記せ。(400字以内)

1989

I  次の文章を読んで下記の問い(ア),(イ)に答えよ。
ところで教皇は,ギリシア人と,世襲的なローマ皇帝であるコンスタンティノープルの皇帝とを,彼の意のままに強制することができなかったので,こんな策略を考え出しました。つまり,この皇帝から帝国と称号を奪い,そのころ勇敢で大いに名声をあげていたドイツ人にこれを授与し,それによってドイツ人がローマ帝国の権力を掌握し,これを知行として治めるようにしよう,というわけです。そしてまた事実そうなりました。コンスタンティノープルの皇帝からローマ帝国は奪い去られ,その名前と称号は,私どもドイツ人に帰属せしめられたのです。ドイツ人はこのことによって教皇の下僕となり,いまや教皇がドイツ人の上に建てた第二のローマ帝国が成立するに至りました。なぜなら,あの第一のローマ帝国は,前述のごとく,つとに滅亡していたからです。(ルター「キリスト教会の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与う」成瀬治訳)

(ア) ここでルターが述べている第二のローマ帝国成立についての歴史的事実を述べ,これに関係する西ヨーロッパにおける中世の政治理念について説明せよ。(300字)

(イ) ルターが「教皇の下僕」という言葉で表現した事情は具体的に何を指していたか。(100字)

II  第一次世界大戦前と大戦後とを比較し,日本をとりまく国際状況がどのように変ったかを述べよ。(400字)

III 次の文章を読んで下記の問い(ア),(イ),(ウ)に答えよ。
清政府は全く能無しだ,
八ケ国軍北京を占領。
占領されてもまだ足りず,
売国条約結ぶとは。
十万両※の賠償を払い,
そのうえ各国軍は北京に居残る。
中国の庶民はこれを知り,
怒りに胸もはりさけんばかりだ。
(伊東昭雄氏の訳による)
※この数字は正確ではないが,当時民間ではこのように伝えられていたという。

(ア) 上の文はある政治的事件に際して,中国の民衆の間に伝えられた歌の一節である。この事件の原因となった民衆運動の組織と信仰はいかなる性格のものであり,それはどのような情勢に対応して発生したのか。(200字以内)

(イ) 出兵した八ケ国軍の主力を形成したのはどこの国の軍隊か,また,それはどのような国際情勢に起因しているか。(100字以内)

(ウ) この民衆運動が拡大しつつある頃に終息したアフリカにおける宗教的反乱について記せ。(100字以内)

1990

I  次の文章を読んで,下記の問いに答えよ。
聖フランチェスコを理解する鍵は,個人としてだけでなく,類としての人間がもつべき謙遜の徳に対する信念である。聖フランチェスコは人間が被造物に対して専制君主として振舞うことを拒否し,神のすべての被造物の民主々義を築こうとした。……いままさに進行しつつある地球の環境の崩壊は,西欧の中世世界に始まる精力的な科学と技術の発展の産物であり,それに対して聖フランチェスコは彼独特の仕方で反抗したのであった。科学と技術の成長は,キリスト教の教義に深く根差している自然に対する態度を無視しては歴史的に理解できないものである。(リン・ホワイト・ジュニア『機械と神』)

(ア) この文章は技術史家リン・ホワイト・ジュニアのものである。著者はキリスト教が科学と技術ならびに自然との関係にどのような結果をもたらしたと考えているのか,説明せよ。(200字以内)
(イ) 聖フランチェスコは既存の教会や社会のあり方に対してどのような態度をとったのか。例文の主旨にこだわらずに答えよ。(200字以内)

II  17世紀から19世紀のヨーロッパにおいて砂糖と茶の消費習慣が広がったこととヨーロッパ諸国の対外関係とはどのように結びついていたか,史実にそくして具体的に述べよ。(400字以内)

III 清の支配する領域は18世紀中頃までに大きく広がり,このうち,モンゴルをはじめとする一部の地域は藩部として特色ある統治のもとにおかれた。
(ア) モンゴルのほかに,藩部と称されたのは今日のどの地域にあたるか。また,モンゴル及びこれらの地域が清に征服されていった経緯を記せ。(160字以内)
(イ) 清のモンゴル支配の特徴を述べよ。(80字以内)
(ウ) 清の滅亡からモンゴル人民共和国成立にいたるまでの,外モンゴルのたどった歴史をまとめよ。(160字以内)

1991

I  次の文章を読んで,下記の問いに答えよ。
中世のキリスト教的ヨーロッパ世界は,およそ500年の間に三度にわたるアジア系非キリスト教諸民族の侵入を経験した。9-10世紀にかけてのマジャールの間断ない侵入,13世紀なかばにおける突風のようなモンゴルの侵入,および14世紀後半からはじまったオスマン・トルコの怒濤の進出がそれである。こうした「異教的異民族」の侵入を受けて,そのたびにヨーロッパの政治地図は大なり小なり塗り替えられるとともに,それは折々のヨーロッパ内部の政治体制にも大きな影響を与えた。中世ヨーロッパ世界が経験したアジア系民族の最初の侵入であるマジャール族のそれに関連して,以下の問いに答えよ。

(ア) 9世紀なかば,ドン川・ドニエプル川問の生活圏を追われて西方に移動を始めたこのアジア系遊牧民族が,10世紀中に,西スラブ世界を南北に両断するような形で定住し,みずからの国を建てるに至った経過を略述せよ。その際,9世紀末まで西スラブ諸族に広く覇権を及ばしていた大国とその運命についても言及せよ。(200字以内)

(イ) ヨーロッパ諸国のなかで,マジャール族の脅威をもつとも深刻に蒙ったのは東フランク王国であったが,919年,はじめてザクセン族出身の貴族として王位についたハインリッヒ1世(ヘンリー1世)とその子オットー1世は,いくつかの重要な戦いに勝利し,この外敵の侵入を終らせることによって,王としての不動の地位を固めたのみならず,キリスト教世界の防衛者として西欧世界全体における最高位にっくに至った。その経過を具体的に記せ(200字以内)。

II  ヨーロッパ共同体(EC)が発展する上で,第二次世界大戦後にフラシスとドイツ連邦共和国がそれまでの敵対関係を克服していったことが決定的影響を及ぼした。両国の関係が対立から協調へと変化していった過程とその原因を,次の用語をすべて使って,説明せよ(400字以内)。
アルザス・ロレーヌ ルール占領 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)

III 下記の問いに答えよ。
(ア) 1894年に朝鮮全羅道古阜郡でおこった農民一揆は,単なる一揆に終らず,朝鮮王朝の土台をゆさぶる広がりをみせた。そのためこの一揆は別に甲午農民戦争(東学党の乱)といわれ,その鎮圧をめぐって日清戦争を惹起し,東アジア世界に大きな波紋をひきおこしたが,以下の字句を使って戦争の原因展開,挫折の過程を述べよ。なお字句の重複使用は可,また字句の下には下線を付せ。(200字以内)
東学 全州和約 日清戦争

(イ) 1930年代後半から日本は植民地朝鮮に皇民化政策という民族抹殺政策を実施したが,その政策の柱となる具体策を三つあげ,政策の意図がどこにあったのか,述べよ。(200字以内)

1992

I  西ローマ皇帝アウグストウルスがゲルマン人傭兵隊長オドアケルに廃位されて以後,八世紀半ばに至るまで,旧ローマ帝国領だった地中海地域には民族の移動を含む大きな政治的変化が生じた。これらの変化を,次の三つの人名を用いて説明せよ。(400字以内)
ユスティニアヌス帝 ムハンマド(マホメット) カール(チャールズ)・マルテル

II  東欧諸国が大国の政治支配から脱して真の独立国家を実現するには,長い時間を要した。東欧諸国のうちポーランドまたはチェコスロヴァキアを選び,その国が19世紀以降,形式的ではあれ,国家的独立を達成してからワルシャワ条約機構解体にいたるまでの歴史過程を,国際政治とのかかわりで大きく三期に区分して述べよ。(400字以内)

III 下記の問いに答えよ。
(ア) 「古代」,「中世」,「近代」という時代区分はヨーロッパ史をモデルに設定されたもので,非ヨーロッパ世界の歴史に対して,それをそのまま適用することはできない。しかし同時に,非ヨーロッパ世界の多くが,その前後の時代と異なる「中世」的な時代をへたこともまた歴史的な事実である。そこで,イスラム世界を例に,以下の二つの字句を説明するなかで,「中世」という時代の政治体制,思想状況の特徴を述べよ。なお,その際,字句は重複使用してもよく,また,字句の下には下線を付せ。(200字以内)
マムルーク スーフィー信仰

(イ) 1904年2月,ロシヤとの戦争を決意した日本は宣戦布告に先だって,韓国領土を占領するとともに,次々に韓国に対し「議定書」,「協約」,「条約」を強要し,日本の朝鮮支配は一挙に完成にむかって加速された。朝鮮民衆は激しく抵抗したが,日本は直接これらの抵抗をうちくだき,ついに1910年8月韓国を併合した。次の用語をつかって日露戦争勃発から韓国併合までの過程をのべよ。(200字以内)
日韓議定書 第二次日韓協約 抗日義兵闘争

1993

I  教皇権が絶頂に達したのは,第4回十字軍をおこした教皇の時代といわれる。この教皇は東方だけでなく,ヨーロッパの内部にも十字軍を送っている。いわゆる異端討伐の十字軍である。これは,宗教と政治の双方においてともに重大な歴史的結果を生み出した。この十字軍の名称とそれを最初に主唱した教皇名を明らかにしつつ,その過程と結果を下記の語を用いて説明せよ(400字)。
カタリ派 ドミニコ 修道会 ルイ9世

II  次の文章を読んで,下の問いに答えなさい。
…しかし,100年後のこんにち,黒人はいまだに自由ではない。100年後のこんにち,黒人は人種隔離という手錠と人種差別という鉄鎖に痛ましくも繋がれている。100年後のこんにち,黒人は広大な物質的繁栄のただ中に浮かぶ貧困という孤島で暮らしている。100年後のこんにち,黒人はいまだにアメリカ社会の片隅で暗港とした日々を送っており,自分の国にいるのに流浪の身のように感じている。
我々は,今日,この恥ずべき状況を白日の下にさらけ出すためにここに集まった。ある意味で我々は,小切手を換金するためにこの首都に来たのだ。わが共和国の設計者たちが,憲法と独立宣言を格調高く書いた時点で,彼らは,全てのアメリカ人に振り出される約束手形にサインしたのだ。この手形は,全ての人に,そう,白人だけでなく黒人にも,生命,自由,幸福の追求という譲渡できない権利を保障することを約束したものである。…(Manin L.King,Jr."I have a dream" Speechより)

 アメリカ合衆国の歴史の中で黒人はどのような立場にあったか,この演説内容を史実に即して説明しなさい。(400字)

III 下記の問いに答えよ。
(ア) 現在,中央アジアは民族・宗教紛争に揺れ動いている。ところで,9世紀から12世紀にかけて,西アジア東方,南アジア北方を含む内陸アジアにおいて,今日の政治情勢と深く関係する一つの注目すべき現象が展開した。それはどのような現象なのか,当時の政治史を追いつつ解説せよ。(200字)

(イ) 清帝国の周辺にはいくつかの朝貢国・藩属国が存在し,外圧にたいする緩衝地帯の役割をはたしていた。19世紀後半には,"西からの衝撃"によってこれら周辺諸国がつぎつぎに清帝国の統制を離れていった。そのような変化を示す具体的事例について,下記の語を用いて説明せよ。(200字)
黒旗軍 ユエ条約 李鴻章

1994

I  次の史料は,神聖ローマ帝国内の都市ゴスラーの1219年の都市法第2条に記されているものである。この史料を読んで,下記の2問に答えよ。
もしあるよそ者がこの都市に居住のためにやって来て,そこで一年と一日滞在する間,その者の隷属身分について訴えられ,立証され,自供させられることがなければ,他の市民たちと共通の自由を享受すべきである。そして誰であれその者を自分の隷属民とみなしてはならない。

問1 ここで宣言されているヨーロッパ中世都市の「自由」の内容と性格について具体的に言己せ。(200字)

問2 ヨーロッパ中世都市の市民は,この「自由」を維持するためにどのような方策をとったか,具体例を挙げて説明せよ。(200宇)

II  歴史的に「ネーデルラント」と呼ばれた地目域は,14世紀から19世紀前半にかけて,どのような歴史的経過をたどってきたであろうか。「ネーデルラント」を構成する各地域の宗教的特色や政治権力の移り変わりに留意しながら,この点について説明しなさい。その際,下記の語をすべて文中に用い,それらを最初に使用したところでは下線を引きなさい。(400字)
七月革命 百年戦争 ウィーン会議 ユトレヒト同盟 ウェストファリア条約

III アジアの二つの大都市に関する下記の問い(ア)(イ)に答えなさい。その際,それぞれの都市の名を解答中に明記すること。

(ア) つぎの文は,1862年に中国のある都市を訪れた高杉晋作の書いたものである。これを読んで,1842年から1927年に至るまでのこの都市の歴史を述べよ。なお,○○はその都市の名を述べた箇所である。(200字)
五月六日,午前漸(ようや)く○○港に到る。箇々此処はしない支那第一の繁津港(はんしん)なり。欧羅波(ヨーロッパ)諸邦の商船軍艦数千隻停泊す。檣花林森(しょうかりんしん)として津口を埋めんど欲す。陸上は則ち諸邦の商館(2)粉壁(ふんペき)千尺殆ど城閣の如し。其の広大厳烈なること筆紙を以て尽すべからざるなり。……五月七日,払暁(ふつぎょう),小銃の声陸上轟(とどろ)く。皆云はく,是れ(3)長毛賊と支那人と戦ふ音なるべし。……五月二十日,つゑつら○○の形勢を観(み)るに,支那人は尽く外国人の(4)便役(べんえき)と為れり。英,仏の人街市を歩行すれば,清人皆傍(かたわら)に避けて道を譲る。実に○○の地は支那に属すると雖(いえど)も,英仏の属地と謂ぶも,又可なり(高杉習作『遊清五録』,一部字句を修正した)。
(注)(1)船のマストが林立するさま。
(2)白い壁
(3)具体的には准軍を指す。
(4)使用人の意味

(イ) ガンジス河下流域は,ムガル時代から肥沃な土地を利用した農作物,そして,豊富で質の高い労働力を活かした高級な織物の産地として栄えていた。しかし,その頃は,この都市はまだガンジスの河口近くの一つの小村にすぎなかった。この村が,その後,急速にアジア有数の大都市に発展していったのは,ここがイギリス植民地支配のアジアにおける拠点となったことに起因する。
この都市を舞台として,一体,どのような事態が生じたのか。そして,それが,この都市にどのような特徴をもたらし,また,この都市がどのような運動や歴史的な出来事の場となったのかを答えなさい。その際,17世紀末,18世紀中頃,19世紀前半,19世紀後半,20世紀初頭の各時期に注目すること。(200字)

1995

I  ドイツを舞台とする宗教戦争としてはじまった三十年戦争はドイツの政治的利害と領土的野心をもつフランスとスウェーデンなどの介入をまねき,多数のヨーロッパ諸国が関与する戦争となった。また,その講和会議はヨーロッパ最初の国際会議とされる。以上のような点に留意しながら,三十年戦争の結果と,それが後のドイツに及ぼした影響について述べなさい。(400字)

II  つぎの文章を読んで設問に答えなさい。
「すでに20世紀の技術の発展は,われわれが今日第二あるいはむしろ第三の産業革命に直面していることを示している。しかしこんないい方をすると,この革命が新しい種類のものであり,計画的な科学研究が個々の職人的な発明の才にますます取って代わりつつある革命だという事実が,あいまいになるかも知れない。そのうえ,あの産業革命は,おもに動力の産出と伝達に関与したもので人間をつらい筋肉労働から原理上解放するものだったが,20世紀の革命は,おもに労働者の熟練を機械ないしは電子装置でおきかえることにあり,これは人間を単調な事務的ないし機械番人的な仕事の重荷から解放すべきものである。」(J.D.バナール『歴史における科学』より)
引用文のなかでバナールは20世紀の「産業革命」を「むしろ第三の」それであると評価しているが,それでは第二の「産業革命」とはなんであろうか。いくつかの産業をとりあげてその特徴を具体的に説明するとともに,「第三の産業革命」との関連を明らかにしなさい。解答にあたっては以下の事項に必ず言及し,下線を引いて明示すること。(400字)
内燃機関 ファラデー,人造繊維,電話機

III 次の文章を読み,以下の3つの問いに答えなさい。
今日東南アジアと総称される地域は,豊かな自然や資源に恵まれ,しかも東西交通上の要衝の位置を占めた。ここには様々な人々が,ある時は大規模な集団をなしまたある時は小人数で,流入し続けた。新集団の登場は,しばしば新たな国家や政治権力の形成を促したし,また,社会の変質をもたらした。こうして,有史以来,この地域は実に多様な人々の移動・移住と国家の興亡の舞台となり,高度な外来文化を受容しつつも,同時に各地に独自の社会・文化を育ててきたのである。

問1 ほぼ16世紀に始まる西ヨーロッパ諸国の東南アジア進出は,この地域における経済の仕組みにどの様な影響を与えたかを述べなさい。その際,貿易の担い手,貿易品目,生産形態などの変化に留意すること。(240字)

問2 西ヨーロッパ諸国の進出以外に,東南アジアを舞台としてどの様な人々の移動・移住があり,それがこの地域にどの様な影響を与えたかを,具体例を1つあげて,述べなさい。(100宇)

問3 東南アジアの人々が,高度な外来文化を受容しつつ築いた独自の文化遺跡の具体例を1っあげて,その時代,地域特徴を述べなさい。(60字)

1996

I  中世から近代にいたる西ヨーロッパの人口を正確にとらえることは困難であり,どうしても推計に頼らざるをえないが,歴史家による推計値はかならずしも一定していない。また,人口変動は当然ながら国や地域によって相異なった傾向を示す。とはいえ,長期的に見ると,西ヨーロッパ全体で明らかに次のような三度の大きな人口変動の波を確認することができる。
(1)14世紀前半を頂点とする人口増加とその後の減少
(2)15-16世紀の人口成長と17世紀の人口停滞
(3)18世紀後半以降の飛躍的人口
成長これら三つの大きな人口変動をひきおこした要因は多様でありうるが,人口増加を支えた経済的要因としてとくに注目しなければならないのは,農業における食糧増産である。上記の三時期のうち(1)と(3)とでは,食糧増産に結びつく農業の制度的ならびに技術的変化にどのような基本的相違があったか,述べなさい。(400字以内)

II  次の史料を読んで下の問いに答えなさい。
国の内外を問わず,われわれは決して警戒心を緩めてはなりません。しかし私は,このように言うとき,反共の名の下に行われるいカ)なる行き過ぎや不正にも賛成するものではありません。不幸にして,われわれの中には,不安やヒステリーや恐怖から,利己的な利益を得ようとして,アメリカ国民を前に争点を混乱させ,覆い隠し,あいまいにしようと望む人々もいるのです。これら,混乱から利益を上げようとする人々は,今や対外政策の分野において,また国内問題についても活動しております。(アドレー・ステイーヴンソン民主党大統領候補の選挙演説,1952年9月)

 この演説が行われた世界史的背景を,アメリカ合衆国の国際環境・対外関係に即して,いくつか事例をあげて説明しなさい。(400字以内)

III 下記の問い(ア),(イ)に答えなさい。
(ア) 清とロシアとの間では国境を定める条約が幾度か結ばれ,そうしたなかで,両国の国境は次第にロシアに有利なかたちに改定されていった。清とロシアとの間に結ばれた条約のそれぞれの名前,その条約が結ばれた年,その内容を簡潔に述べ,両国の国境問題の歴史をまとめなさい。その際,下記の語句を必ず使用し(重複しても良い),その語句に下線を付すこと。(280宇)
黒竜江 沿海州 ムラヴィヨフ 外興安嶺

(イ) 日清戦争後,中国東北地方の利権をめぐって,ロシアと日本との間には対抗的な関係が形作られていった。そのなかで,鉄道をめぐる問題が一つの焦点となってくる。この鉄道について簡潔に説明しなさい。(120字)

1997

I  キリスト教は,4世紀末にローマ帝国の国教となることで,その後のヨーロッパの歴史に多大な影響を及ぼした。しかし,その現実は決して単純なものではなかった。教会そのものが完成された組織とは言い難く,その分裂の事態は帝国支配のはらむ政治問題でもあったからである。その間の事情を4〜5世紀のローマ帝国の政治・社会状況に即して,以下の用語を用いながら述べなさい。その際,ローマ緬国と東方属州地域との政治的関係に触れること。なお,用語を最初に用いた箇所に下線を付しなさい。(400字以内)
テオドシウス帝 五本山 単性論 カルケドン公会議 

II  次の文章は,ドイツの作家ハインリヒ・マンが,1923年8月11日に行った講演の一部です。これを読んで,下記の問いに答えなさい。
私たちは祝うべきであります。しかし時は危機的です。私たちは憲法を祝うべきでありま外ところが,あれから憲法がどうなってしまったのか,私たちは知らないのです。そして今後,憲法がどうなるのだろうか,ということも分からないのです。1919年という年は,遠い昔になりました。(中略)憲法の精神は,そうこうするうちに誤認され,否認され,歪曲され,憲法からほとんど追い出されてしまいました。戦争に熱狂するナショナリズムが,かつてと同じように,またもや荒れ狂っており,もうすでに,ふたたび権力の座に達しようとしています。(中略)反動の理由は何でしょうか。皆さん全員が第1の理由としてお挙げになるであろうものを,私も挙げようと思います。隣人たちによる,外的な圧迫です。(中略)加えて,第2の主な理由として,窮乏があります。(中略)この3日間の国会をその場で体験した者は,幽霊屋敷にいたのです。こんなものは,かつて一度も見られたためしがありません。(中略)首相が登場すると,「生ける屍!」「破産者!」という怒号が投げつけられます。(中略)首相が演説を始めるとき,ドルは高値をつけていました。演説を終えるころ,ドルはさらに高くなっています。

問1 ここで言われている「憲法」について,その基本的特徴をいくつか述べなさい。(100字以内)

問2 1919年から1923年までのドイツの政治的・経済的状況について,この文章で触れられている点を中心に,具体的に説明しなさい。(300字以内)

III 次の文章を読んで,下記の問いに答えなさい。
1911年10月,武昌で新軍が蜂起した後,中国各省は相次いで清朝からの独立を宣言した。そうした状況のなかで,1912年1月,中華民国が成立し,革命の指導者であった人物Aが南京で臨時大総統の地位についた。しかし,この年2月に清朝の宣統帝溥儀が退位した後,醐寺大総統の地位は人物Bに譲られた。

問1 人物Aが誰であるかを答え,この人物の主導により1905年に組織された政法団体,この団体の掲げた基本綱領について説明しなさい。(200字以内)

問2  人物Bが推であるかを答え,この人物を中心に繰りひろげられた1915-1916年の中国内政の動き,また,この人物の率いた政府が1915年に直面した外交上の問題について説明しなさい。(200宇以内)

1998

I  次のグラフは,イギリス(イングランドおよびウェールズ)とドイツの人口の歴史的変化の推計値を表したものである。両国の人口変動を比較して,下記の問いに答えなさい。

問1 両国の人口変動で最大の違いは何か,またこの違いが生じたのは,両国の政治・社会状況のいかなる違いによるものか,説明しなさい。(200字以内)

問2 16世紀には両国とも人口が増加しているが,その経済的原因について述べなさい。(200字以内)

II  次の文章は,フランスの評論家ダニエル・アレヴィ(1872-1962)によるものです。ここで語られていることをふまえて,1870年から19世紀末に至るまでのフランスの政治的状況を,以下の用語を使って説明しなさい。なお,用語を最初に使った箇所には下線を付すこと。(400字以内)
「1871年6月一フランス人は何を感じていたのだろうか。彼らの国は国境からサン=ドニやヴァンセンヌに至るまでドイツ人に占領されていて,傷つけられ辱められた首都には血と煙の臭いがまだ漂っていた。また,リヨン,マルセイユ,トゥールーズ,ボルドー,リモージュ,ペリグーは依然として武装しており,おそらくは新たな一触即発の可能性を抱えていたのである。悲しみ,沈黙,茫然自失の状態がいたる所で支配していた。力によって獲得されたこの秩序を,いかにして定着させ,安定したものにするか。すべてが不確定で移ろいやすく,それが人々の恐怖を生みだしていた。そして不安と疲労感には悔恨の情が混じり合っていた。」
ナポレオン三世 ティエール アルザス・ロレーヌ割譲 労働運動 ドレフュス事件

III 下記の問い(ア)(イ)に答えなさい。

(ア) 17世紀前半,女真族が建てた後金は明軍を破って中国東北地方を支配し,国号を清と改めた。この清が1644年に北京に都を移してから,さまざまな対抗勢力をおさえて,中国本部の全域に対する支配を確立するまでには,およそ40年を要した。1644年以降における清の中国支配の確立の過程について,簡潔に説明しなさい。(200字以内)

(イ) 17世紀以来続いてきた朝鮮と日本,朝鮮と清との外交関係は,19世紀後半に大きく変化し心17世紀に成立した朝鮮と日本,朝鮮と清との外交関係がどのようなものであり,それらが19世紀後半にどのように変化したのかを,簡潔に説明しなさい。その際,下記の語句を必ず使用し(重複してもよい),その語句に下線を付すこと。(200字以内)
藩属国 朝鮮国王 下関条約

1999

I  8世紀後半から11世紀にかけて,ノルマン人の活動はヨーロッパ全体に大きな影響を及ぼしたが,とりわけイングランド初期の歴史には密接な関わりを持っている。9世紀初めから11世紀までのイングランドの王朝の変遷を,次の語句を用いて説明するとともに,それが11世紀以降に及ぼした政治的影響について述べなさい。(400字以内)
七王国(ヘプターキー) ロロ ヘースティングズの戦い

II  次の文章は,ドイツの法学者オットー・フォン・ギールケが,1889年4月5日に行った講演の一部である。これを読んで,下の問いに答えなさい。
我々に必要な私法は,個人の不可侵の領域を十分に尊重するけれどもそこに共同体の思想が息づいているような私法です。端的に言えば,公法には自然法的自由の気風が息吹かねばならないし,私法には社会主義の油を一滴しみ通らせねばならないのです。

 この講演にみられるようなドイツ民法典への社会的要請について,フランス民法典と比較しつつ,1870年から1900年までの政治的・社会経済的状況を説明しなさい。(400字以内)

III 次の文章は,ある朝鮮人革命家がアメリカのジャーナリストに語った話をもとに書かれたものである。これを読んで,下の問いに答えなさい。

 全朝鮮人は右派左派共々に,中国におけるこの(革命の)高まりを己れ自身の国を解放する第一歩と考えて喜んだ。戦闘参加を志願して真先に広東へ馳せ参じた人の中にさまざまな種類の朝鮮人革命家たちがいた。
(中略)朝鮮人は中国人にまじってあらゆる分野で活発に働いた。あるものは顧問として,あるものは黄埔軍官学校や中山大学の教官として,あるものは革命軍の幕僚として。他のものは軍隊に入って戦った。
(中略)今となってはあの北伐に向かう革命家たちすべてが感じていた,浮き立つ心と熱狂を思い出すことさえ難しい。…華北へ,朝鮮へ,私たちの心はおどった。「故国で,満州で,二千万朝鮮人が全アジアの自由のため武器をとって帝国主義と戦おうと待っている」と私たちは中国人に確信をもって語った。
(ニム・ウェールズ『アリランの歌』,1941年,松平いを子訳)。

問1 中国のこの革命はどのようなかたちで収束したか,次の語句を使って説明しなさい。(300字以内)
武漢 南京 上海

問2 当時広東には朝鮮人以外にもアジア地域の革命家・独立運動家が集まっていた。民族革命のための組織を広東で結成した,アジアのある地域のこの時期の革命運動について述べなさい。(100字以内)

2000

I  ハプスブルク家は1438年から神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲したが,その絶頂をむかえた16世紀にスペイン系とオーストリア系にわかれた。後者はいわゆる「ドナウ帝国」として東ヨーロッパヘその支配領域を拡大していくが,その契機はモハーチの戦い(1526年)の後にチェコとハンガリーの王位を継承したことにあった。以上の点をふまえ,その後の領域拡大と支配強化の経緯について次の語句を用いて説明しなさい。なお使用した語句には下線を引いて明示すること。(400字以内)
ウィーン包囲 三十年戦争 カルロヴィツ条約 ポーランド分割

II  次の文章は,アメリカ合衆国のジミー・カーター大統領が1977年5月22日におこなった演説の一部です。これを読んで,下記の問1,問2に答えなさい。

 わが国の未来が揺るぎないことを確信しているゆえに,現在われわれは共産主義に対して過度の恐怖を抱いていない。かつてはその恐れのために,独裁者であっても,われわれと同じ恐れを抱いている者とは手を結ばざるをえなかったのである。あまりにも長い年月,われわれはみずから敵対者の不完全で誤った原則や戦術を取り入れようと努め,ときには彼らの価値観を受け入れて自分自身の価値観を放棄した。われわれは火と戦うのに火をもってし,火は水をもって消す方が良いことに気がつかなかった。
このような方策は失敗に終わった。知性と道義心に欠けたその方策がもたらした最悪のものがヴェトナム戦争であった。しかし失敗を通じてわれわれは今や自分自身の原則と価値観に立ち帰る道を見いだし,失った自信を取り戻したのである。
(有賀 貞 訳)

問1 この演説の背景となったアメリカ合衆国のヴェトナム戦争介入の歴史(1954〜75年)について,その原因と結果を具体的に述べなさい。(200字以内)

問2 ヴェトナム戦争介入がアメリカ合衆国の社会と対外関係に与えた影響を具体的に述べなさい。(200字以内)

III 下記の問題A,Bに答えなさい。
 次の文章を読んで,問1,問2に答えなさい。
15世紀末に始まるヨーロッパ諸国のアジアヘの進出は,主役とその形態を変化させながら,今日に及んでいる。初期の段階について考えると,彼らのアジア進出の目的は,当時のヨーロッパにおいて珍重されたアジアの物産を入手することにあった。この時期,彼らはアジアの物産を買い,それをヨーロッパ市場で売りさばいて利益をあげたばかりではなく,アジア内の貿易にも参加して,大きな利益を得ていた

問1 下線部分をよく読んで,16世紀から18世紀中頃にかけて,ヨーロッパ諸国はアジアの物産を買い付けるための貨幣をどのように得ていたのかを,金銀の産地や経由地を明示しつつ,説明しなさい。(65字以内)

問2 18世紀後半になると,ヨーロッパのある国を軸にして,アジアにおける交易に新たな形態が生じた。その新たな形態とはいかなるものであったのかを説明しなさい。(135字以内)

B 次の文章を読んで,問3に答えなさい。
ヨーロッパ諸国のアジア進出は各地で戦争をひきおこすことにもなった。19世紀前半にイギリスが当時の中国,清とのあいだにひきおこした戦争では,清にとっての不平等条約の先駆けとなる条約が結ばれ,ある場所がイギリスに割譲され,植民地とされることになった。

問3 割譲された地名をあげ,その植民地としての発端から現在までの歴史を,関連する戦争名・終結条約名,中国や日本との関係にも言及しながら記述しなさい。(200字以内)

2001

I  10世紀後半から11世紀にかけて,地中海世界は大きな歴史の転換期を迎えていた。キリスト教世界は拡大し,ローマ皇帝位をめぐる政治交渉も見られた。「ヨーロッパ世界の形成」という観点から当時の事情について述べ,その政治的・宗教的背景について説明しなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(400字以内)
ビザンツ帝国 オットー1世 ウラジミール1世 ファーティマ朝

II  17世紀から18世紀におけるヨーロッパは絶対主義あるいは絶対王政の時代と呼ばれる。とりわけルイ14世が統治したフランスは典型的な絶対主義国家とされているが,このような政治体制がどの程度「絶対的」であったのかに注意しながら,その特徴を述べなさい。(400字以内)

III 下記の問題A,Bに答えなさい。

 今日,南アジアと呼ばれる広大な地域には,系統を異にするさまざまな人々が居住していた。この地域において,インド世界として特有の社会・宗教・文化体系の生成が始まったのは,たかだか最近3500年ほどのことである。こうして出現したインド古代の社会・宗教・文化体系とはどのようなものであり,それらはどのような過程を経て形成されたのかを説明しなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(200字以内)
インダス文明 ヴェーダ ブラーフマン* ヴァルナ ダルマ マウリヤ朝
(注) *バラモンとも呼ばれる。

 4世紀後半,朝鮮半島には高句麗・百済・新羅が並び立つ形勢が生まれ,7世紀には三国の抗争は,新羅が半島中南部を統一することによって終結した。4世紀から7世紀までの朝鮮半島における情勢の推移について,中国王朝との関係を含めて,説明しなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(200字以内)
楽浪郡 加羅諸国 煬 帝

2002

I  次の文章を読んで,下記の問題に答えなさい。
ウルバヌス2世が十字軍の必要性を訴えて聴衆の熱狂的な支持をうけたのは,クレルモン公会議でのことである。この演説は閉会式で行われたといわれるから,もともとこの会議の主題は十字軍ではなかった。参加者もそれを予想してはいなかった。しかし,この会議には多数の高位聖職者が集まり,会場は熱気に満ち溢れていた。多数の聖職者たちの行列を見るためにあふれ返るほど多くの群集も集まってし,たこれほどの熱気と多数の人々をここにもたらしたのは,クレルモン公会議が重要なものと認識されていたからである。この会議は,彼の2代前のローマ教皇によって開始されていた,ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との熾烈な戦いの一環として開催されたものだった。ウルバヌス2世は,ローマ教皇としての自己の権威を広め確立するためにフランスでこの公会議を開催し,教会改革を推進することを目指した。公会議はそのためにいくつかのことを決議した。したがって,十字軍が提唱されたのも,聖地の解放を目指すとともに,ローマ教皇がキリスト教世界の指導者であることを示すためだった,と考えることもできるだろう。第1回十字軍の問にもなお教会改革をめぐる争いが続けられていた,ということを忘れてはいけない。
問題 ウルバヌス2世の前からはじめられ1122年に一応の妥協をみた「熾烈な戦い」の名称を記し,その過程について説明しなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(400字以内)
クリュニー修道院 破門 ハインリヒ5世

II  1848年は,フランスやオーストリア,ドイツにおいて革命が勃発し,イギリスでもチャーチィズム運動が高揚するなど,ヨーロッパ各国が大きな変動に見舞われた年であった。フランス二月革命を例に取り,こうした変革を求める運動を生み出した社会的・政治的原因を説明したうえで,革命の成果と限界を論じなさい。(400字以内)

III 問題A,Bに答えなさい。
A 1937年7月,中国のある都市の近郊で中国軍と日本軍の間で衝突が発生し,その後8年間にわたって続く全面戦争のきっかけとなった。衝突が発生した場所は中華民国の領土内にあったが,当時5000名以上の日本軍がこの都市及びその周辺地域に駐屯していた。この地域における外国軍の駐兵権は,どのような取り決め(条約)に由来するものであったのか,また,駐兵権に関する項目以外にこの条約ではどのようなことが定められたか,その主な内容を二つ述べなさい。(200字以内)
B 日本と中国の間に全面戦争がはじまると,日本の朝鮮に対する植民地支配はいっそう苛酷なものとなった。以下に掲げる史料は,1937年10月に制定された文書で,戦時期の支配政策を特徴づけるものの一つである。この史料を読み,下記の問いに答えなさい。
【史料】
一,我等ハ皇国臣民ナリ 忠誠以テ君国ニ報ゼン
ニ,我等皇国臣民ハ 五二信愛協力シ 以テ団結ヲ固クセン
三,我等皇国臣民ハ 忍苦鍛錬力ラ 養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン

問い
日本の朝鮮植民地支配政策は,「韓国併合」以来,どのように変化してきたのかを簡潔に述べたうえで,日中全面戦争の開始以降には,どのような支配政策が展開されたのか,それはどのような特徴をもつものであったのかを説明しなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(200字以内)
三・一独立運動 創氏改名 強制連行

2003

I  15世紀イタリア社会の動向は,オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出と深く関係していた。トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き,援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし,この時期多数のギリシャ人が到来して,この地の文化活動にも影響を与えたからである。オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流と,それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

II  次の文章は,明治四年(1871年)に日本をたち,世界各国の視察・調査をおこなった使節団がアメリカ合衆国の首都ワシントンで見聞したことを記したものである。これを読んで,下の設問に答えなさい。

売奴ノ存廃ハ,南部ノ棉花耕作二関係シ,棉花ノ利益ハ,米英両大国、数千万ノ生活ニ緊切スレハ,西洋人ノ利ニ熱中スル,永ク失フナカラント,売奴ノ束縛ヲ堅鎖シ,黒奴ハ元来奴隷ノ役二供スル,一種ノ賤人ナレハ,従来ノ交際ニテ十分ナリト謂二至レリ,是ヲ隊テ廃奴ノ論党ハ,益其志ヲ粋励シ,終ニ千八百六十年,大統領選挙ノトキニ至リ,其推服スル所ノ林根氏ヲ挙ルヲ得タリ,…(中略)…然トモ南部終ニ敗レ,六十五年ニ協議シテ,憲法ヲ増加スルニ至リ,黒奴始メテ人間ニ出タレトモ,交際モナク、丁字モナキ愚民ナレハ,…(中略)…但中ニハ早ク自主セル黒人モアリ,現二下院二撰挙サレタル人傑モアリ,……(久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』より)

問1 上記の文章にある廃奴ノ論党の正式名称は何かをまず明示したうえで,その政党が目指した政治は,それまでの他の政党と比べてどのような特徴を持っていたのか,述べなさい。(100字以内)

問2 こうした奴隷制度や奴隷貿易の廃止は,19世紀前半にイギリス,フランスをはじめとして世界的な規模で進行した。近代世界の成立とともに本格化した奴隷貿易は,18世紀にはいると激増し,ヨーロッパの植民地経営には欠かせないものとなったが,なぜこの時期にそのような奴隷に依存した体制が崩れていったのか。奴隷貿易の盛衰の背景にある政治的・経済的な要因と,国際的な要因を,カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として述べなさい。その際、次の語句を用い,使用した語句には下線を引いて明示すること。(300宇以内)

砂糖 トゥサン=ルーヴェルチュール クリオーリョ インディオ

III つぎの文中に述べられている19世紀後半に試みられた「二世代の改革」とは,具体的に何を指しているのか。[  ]内の空欄に入るべき適当な言葉(5字以内)を考え,この二つの改革の相違点を説明しなさい。(200字以内)

 19世紀の中頃から20世紀の初めまでの二世代ほどの間に、中国の三千年来の古文化に西洋は止むことのない進撃を加えて,次々に拠点を占領して行った。技術の領域が征服されると,経済や,自然科学や,芸術や,ついには宇宙(天下)に関する古い観念についてまで,次々に譲歩せざるをえなかった。退却につぐ退却を重ねている間に,いつの間にか防御線を守りぬく希望さえ完全に放棄された。その過程でこの二世代の改革の努力は容赦なく粉砕された。…(中略)…彼らの悲劇は,中国の進歩派の努力が,たちまちのうちに時代おくれになっていくその変化の速さの中にあった。1890年代に[  ]を主張することは,1910年に共和主義者となること,あるいは1930年に共産主義者であることを告白するより,大きな勇気を必要としたのである。(バラーシュ『中国文明と官僚制』,村松祐次訳に基づいて一部文章を改めた)

B 現代の中東では,多くの戦争と紛争が起きている。その起源は,何百年もの宗教・民族・文明の対立などではなく,19世紀末から20世紀初頭にかけての時代状況にあった。そこで,この時代状況とはどのようなものであったのかを,当時の中東で生じた事件を一つ取り上げる中で,説明しなさい。(200字以内)

2004

I  宗教改革は,ルターにより神学上の議論として始められたが,その影響は広範囲に及び,近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした。ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較し,その政治的帰結について述べなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(400字以内)
アウグスブルクの和議 首長法

II  次の文章は,1725年1月に亡くなったロシアの皇帝ピョートル1世の業績を称えた詩である。これを読んで,下の設問に答えなさい。

 彼は亡くなった。だが彼は我々を貧しく不幸なまま残さなかった。彼のもたらした巨大な力と栄誉は我々とともにある。彼が我がロシアを形づくったように,ロシアは存続するだろう。彼が良き人びとにロシアを愛すべきものにしたように,ロシアは愛されるであろう。彼が敵にロシアを恐れるものにしたように,ロシアは恐れられるだろう。彼は世界中にロシアの名を高からしめ,そしてロシアの栄光は終わることはないだろう。彼は我々に精神の,民政の,そして軍事の改革を残した。たとえ彼の亡骸が我々に残されたとしても,彼の精神は生きつづける。

問1 ピョートルの改革は「西欧化」と特徴づけられるが,当時のヨーロッパの政治と経済の基本的動向について述べなさい。(100字以内)
問2 文中下線部にある「精神の,民政の,そして軍事の改革」とはどういう改革を指すのか。できるだけ具体的に述べなさい。(300字以内)

III 問題A,Bに答えなさい。
A 広大なイスラーム世界は,10世紀におけるアッバース朝の衰退以降,イスラーム諸王朝が分立する時代に入る。しかし,ヨーロッパ史で大航海時代といわれる16世紀には,三つの強大な王朝が鼎立する時代を迎えた。この三つの王朝の崩壊過程から,イスラーム世界の近代は生まれる。その一つは,イスタンブルを首都とするオスマン朝であるが,あとの二つの王朝は何か。その名前を述べ,それぞれの王朝の成立経緯(いつ,誰によって建設され,どの地域を,どのような理念で統治したのか,など)を簡潔に述べなさい。(200字以内)

B 次の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。
中国はプロレタリア文化大革命の終結後,1978年末からは「改革と開放」政策へと路線の大転換をうちだした。国内では,プロレタリア文化大革命時代には批判されて発言を封じられた知識人たちも多くが復権し,学校教育の混乱も修復され,1980年代をとおして,民主化への動きが作られた。ゴルバチョフが訪中して中ソ関係正常化がはかられることになった年には,民主化要求が高まったが,天安門事件へと展開し,政府の武力鎮圧による流血の惨事に終わった。その年の民主化要求運動においては,北京の学生が中心となって広がっていったこともあり,同様にして広まった70年前の[  ]が強く意識されることになった。1980年代の思想界で影響力をもった知識人のひとり,李沢厚は,1986年に当時の中国の課題を思索するなかで,歴史をふりかえり,[  ]をめぐって以下のような認識を示していた。

 啓蒙的な新文化運動は,始まると間もなく救国の反帝政治運動に遭遇し,両者はすぐに一つの流れに合流していったのであった。(中略)
[  ]時期の啓蒙と救国が矛盾することなく進み,互いに促進しあった局面は,長くは続かなかった。救国という歴史的局面と苛烈な現実闘争のなかで,啓蒙という思想的主題は,またもや,救国の政治的主題に圧倒されてしまったのである。
(砂山幸雄訳,李沢厚「啓蒙と救国の二重変奏」,1989年,より)

このような「啓蒙と救国」の関係づけは,当初から議論をまきおこし,上述の民主化要求運動では[  ]期に唱えられたスローガン「民主と科学」が叫ばれることにもなったが,天安門事件がおこると,李沢厚らは政府によってふたたび発言を制限された。

問1 空欄[  ]の中に適切な語句を入れて,文を完成させなさい。空欄には,すべて同じ語句が入ります。答は解答欄の1行分を使用しなさい。
問2 李沢厚の文章において「啓蒙と救国」として言及されている内容について,それぞれの運動の時期と様態,中心人物・刊行物などにもふれ,具体的に述べなさい。(175字以内)

2005

I  中世後期のヨーロッパ大陸諸国において,君主によって設けられ,招集される議会が生まれた。フランスの三部会,ドイツの等族議会が良く知られているが,その他にスペインのコルテス,ポーランドのセイムなどがあり,諸身分や団体の代表が出席した。これらは「身分制議会」と呼ばれるが,その歴史的な経緯と主な機能,そしてその政治的役割について,特に近代の議会との違いに留意しながら具体的に述べなさい。(400字以内)

II  第二次世界大戦後に「冷たい戦争(冷戦)」という米ソ両体制の対立する時代が形成された背景には,大国による核開発,核保有が大きな役割を果たしている。第二次世界大戦後の冷戦勃発から,1989年のベルリンの壁の崩壊に至るまでの時期を対象に,各国の核保有,各国間の核軍縮の経緯を押さえた上で,この冷戦期の国際政治に核兵器が果たした歴史的役割について述べなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

キューバ危機 中距離核兵器全廃条約 封じ込め政策 ワルシャワ条約機構

III  次の文章Aは,インドの民族主義運動指導者の『自叙伝』から抜粋した19世紀末アフリカ南部における経験の記述,Bは同時期に清末変法運動で活躍した中国人の海外における経験の記述とその解説である。これらを読み,また,表1〜3も参照して,下記の問いに答えなさい。

A 
「『あなたは,本当にホテルに泊まれると思ったのですか?』と彼(ヨハネスバーグで事業を行っている知人)は言った。私は尋ねた。『どうして,いけないのですか?』彼は言った。『ここに二,三日おられれば,お分かりになるでしょう。私どもがこんな国に来て生活しているのは,ただ金もうけのためです。侮辱をこらえるぐらい平気です。ですから,ここにいられるのです。』こう言ってから,彼は,インド人が南アフリカでなめている困苦,辛さの数々を物語ってくれた。
彼ら(南アフリカにいるインド人)の中には,労働者の境遇から身を起こして,土地や家屋の所有者になりあがる者が多数あった。彼らに続いて,インドから商人がやって来て,商業を営みながら定住した。……これには,白人の商人があわてた。
(南アフリカにおけるインド人の権利を守るという目的を達成するため)私たちは常設的な大衆組織を持とう,ということを決定した。こうして,……インド人会議が誕生した。この会議には,南アフリカ生まれのインド人や会社事務員の階層は会員として参加してきたが,不熟練賃金労働者,年季契約農業労働者は,まだ枠外に留まっていた。……彼らには,基金を寄附したり,入会したりするなどして,会に所属する余裕のあろうはずがなかった。
なおなし遂げていないことが一つあった。それは,インド人移民を,祖国に対する義務に気づかせることであった。」
(ロウ山芳郎訳に基づく。)

B 
「この三つの業種(靴・タバコ・ほうきの製造業)は以前はとても盛んで,出資者も同胞で,これらで財をなした同胞の商人も少なくなかった。だがのちに労働組合がそれをひどく妬み,あれこれ法律を作っては圧迫した。たとえばルソン産の葉巻タバコは政府の認可がないと販売できず,わが同胞労働者の製造したタバコを政府は認可しない,というのがその例である。こうしたことはもともと国際ルールに大いにもとるところだ。……強権というほかない。」

 この文章は梁啓超が清朝からの弾圧にあって亡命中,1903年にカナダ・アメリカの諸都市を回って記した紀行文『新大陸游記』から,サンフランシスコでの「中国人の営業自由の制約」について紹介した部分の抜粋である。同じく亡命した康有為が東南アジアで同胞を結集し,支援を要請するために保皇会を組織しており,梁啓超のこの旅は,保皇会分会創設のためでもあった。また,ほとんど同時期に,早くから亡命生活を送った[ ア ]も,中国が列強からの侵略の危機にさらされているのは,「中国が自立できないためであり,中国が自立できないと,世界平和は保てない」として,在外同胞の支援を求めて回った。1905年に[ ア ]は東京において中国同盟会を結成し,東南アジアでの分会結成を目指した。

表1 インド人移民数推計
 

 

年 平 均
  インドからの出国 インドへの帰国
1834−1840 36000 27000
1841−1850 49000 36000
1851−1860 98000 68000
1861−1870 177000 137000
1871−1880 274000 219000
1881−1890 301000 241000
1891−1900 429000 280000
1901−1910 329000 244000
1911−1920 457000 374000
1921−1930 606000 507000
1931−1937 397000 407000

表2 中国人の東南アジアへの移民数推計
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