大阪大学過去問(論述問題)

 

1997年以前は問題のテーマのみ(小論文として出題),一部,論述問題のみに改題

 

1997年以前

1992
8〜16世紀なかばまでの西欧世界とイスラーム世界の政治的,経済的,文化的関係の変化。(600字程度)

1993
・4〜6世紀の中国における政治・社会状況を4世紀に生じた民族移動との関連させて述べよ。(600字程度)

・17・18世紀のインド,アメリカ,ヨーロッパにおけるフランスとイギリスの対立関係とその結果について述べよ。(600字程度)

1994
・古代アテネの発展と過程をと歴史背景を,具体的史実を上げながら記述し,この政治や文化が後世に与えた影響についても述べよ。(500字程度)

・中国東部の北(華北)と南(華中・華南)について

1.気候・穀物生産の形態の南北の相違
2.7〜14世紀の経済的中心地の移動について説明せよ。
3.南と北とは政治的分裂を何度か経験するがつねに政治的統合を回復する。その理由について6世紀以降とりわけ9世紀から13世紀における南北の結びつきの進展という観点から,具体的に説明せよ。
(合計500字程度)

1995
・中国における儒教の発展について。(300字程度)

・イスラーム世界におけるウマイヤ朝からアッバース朝への交代について。(250字程度)
・中世の西ヨーロッパ世界の展開と地中海商業との関わり。(250字程度)

1996
15世紀末〜17世紀についていわゆる大航海時代について,(300字程度)

問1 大西洋をはさむヒトの移動について,開発・労働力・貿易などと関連づけて説明しなさい。(350字程度)
問2 東アジア・東南アジア海域でのモノとカネの動きについて,中国社会の変動と関連づけながら説明しなさい。(250字程度)

1997

(I)
問1 イスラム教徒が支配するムガル帝国では,どのような宗教政策が帝国の繁栄と衰退につながったかを90字以内で説明しなさい。

問2 イスラム世界ではペルシア(イラン)人の民族・宗教意識が目立つ。それが政治的に発揮されたケースをひとつあげ,いつごろだれに対抗してどのような行動をとったかを40字以内で説明しなさい。

問3 中国はどのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し,または外交関係をむすんで帝国を維持しようとしたか。唐から宋にかけての時代と清代を中心に300字程度で述べなさい。

(II)
問1

(a) 11世紀頃になり,農業生産力が高まって,人口が増大すると,西ヨーロッパ世界は外に向かって拡大し始めた。十字軍はこのような拡大運動の一つの例であるが,他の例としてはどのようなものが考えられるか。二つの例をあげなさい。

(b) 十字軍が西欧の社会構造に及ぼした影響について120字程度で述べなさい。

問2 ナポレオン戦争以後,一九世紀前半のイギリスでは,民衆の政治運動が活発化し,議会外の運動は史上最大の規模に達した。中産階級を中心とする多くの運動は,自由主義的な諸改革を実現し,他方,労働者階級も独自の運動を起こした。これらの運動や改革について,オコンネル,人民憲章,コブデンの主語を必ず用いて,300字程度で述べなさい。

1998

(I)
問1 11・12世紀のセルジューク朝では,世襲所領の拡大が認められたが,どのような性格の所領であったのか,50字程度で説明しなさい。

問2
(1) 10世紀以降に中国を支配した異民族王朝を,それ以前の五胡十六国時代の異民族王朝や南北朝時代の北方系諸王朝と区別して征服王朝と呼ぶことがある。征服王朝は,それ以前の異民族王朝とどのような点で異なるのか,50字以内で説明しなさい。

(2) 13世紀以降に成立した二つの征服王朝を取り上げ,中国文化に対する姿勢の相違について100字程度で説明しなさい。

問3 18世紀末から19世紀前半のインドでは,産業構造や貿易構造が大きく変動した。変動の内容とその背景を,18世紀後半以降のヨーロッパ・東アジアとも関連させて,200字程度で説明しなさい。

(II)
問1 中欧の一都市に関する以下の三つの文を読んで傍線部についての設問に答えなさい。

A 1968年,この都市を首都とする社会主義連邦共和国では自由化と民主化を求める運動が高まり,体制の改革が進められたが,ソ連は軍事介入によってこれを阻止した。

B 15世紀にこの都市の大学の神学教授であった人物は,イギリスの神学者の思想を引き継いで教会改革を訴えたが,当時開かれていた公会議(宗教会議)で有罪とされ,処刑された。

C 17世紀にこの都市を中心に起こった反乱は,(イ)長期にわたる戦争の幕開けとなった。

設問 傍線部(イ)の戦争について,その名称を書き,さらにその背景,原因,参戦した諸勢力,戦争の結末や影響を300字程度で述べなさい。

1999

(I) 紀元前500年頃のインドでは,新しい宗教が二つ登場する。新宗教の名称とそれらを担った身分について,40字程度で述べなさい。

(II) イランのサファヴィー朝は,宗教・土地領有などを原因として外国と敵対すると同時に,その首都に多くの外国使節や商人を集めて繁栄した。当時のサファヴィー朝の敵対国と友好国とを具体的に掲げ,その国際関係について200字程度で述べなさい。

(III) 1902年から1922年に至る日英関係の推移を,東アジアにおける諸列強の角逐と関連させながら,200字程度で述べなさい。

(IV) ノルマン人の移動とそれが生み出した結果について,300字程度で述べなさい。

(V) 世界恐慌に直面したアメリカが実施したニューディールの立法・事業のなかで,以下の三者は代表的なものである。この三者のうち,恐慌克服の方法がもっとも類似している二者を選び出し,その番号を記しなさい。さらに,この両者に共通する方法について80字程度で説明しなさい。
(1)農業調整法(AAA)
(2)テネシー川流域開発公社(TVA)
(2)全国産業復興法(NIRA)

2000

(I) 
問1 パミール以東に広がる,いわゆる東トルキスタンは,西・南アジア世界と東・北アジア世界とを連結する交通の要衝であった。以下に掲げる(1)〜(3)の各時期において,どんな国家・勢力がこの地域を支配したか,この地の宗教や民族の変遷にも触れながら,160字程度で説明しなさい。
【(1)7〜8世紀前半 (2)11〜12世紀前半 (3)18世紀後半〜20世紀初頭】

問2 東南アジア海上交易の心臓部であったマラッカ海峡は,以下に掲げる(1)〜(3)の各時期にどんな国家・勢力に支配されたか。各時期の最重要な港市がどこだったかにも注意しながら,200字程度で説明しなさい。
【(1)7〜14世紀 (2)15〜16世紀 (3)19世紀〜20世紀前半】

問3 中国の国家・社会も,古くからユーラシアの東西をむすぶ貿易により,やがては全地球規模の貿易により,大きな影響を受ける場合があった。一例として,16〜19世紀前半の中国にかかわる銀の流れがどんなもので,そこから中国はどんな影響を受けたかを,80字程度で説明しなさい。

(II) エジプトからシリアにかけての地は,ヨーロッパとアフリカ,アジアの結節点に位置し,古来より多くの国際紛争の舞台となってきた。この地域についてつぎの問いに答えなさい。

問1 13世紀後半この地における,イスラム王朝と,アジアおよびヨーロッパの各勢力との紛争について,100字程度で説明しなさい。

問2 18世紀末にフランス軍がエジプトを占領した。その目的の一つは,イギリスの世界戦略に打撃を与えることにあった,と考えられている。なぜ打撃になるのか,50字程度で説明しなさい。

問3 スエズ運河の建設に尽力したレセップスがアカデミー・フランセーズ会員に迎えられた1885年,恒例の新会員歓迎演説を担当した文明批評家ルナンは,「運河建設で紛争の種がまた一つふえた」と述べた。運河をめぐる国際紛争の例として,1881〜82年と,1956年の二つの時期について,それぞれ80字程度で説明しなさい。

(III) 19世紀末〜20世紀前半にかけてのヨーロッパの思想や文化について,つぎの問いに答えなさい。

問 この時期の思想や文化の傾向を,つぎの2つの語を用いて40字程度で説明しなさい。なお,これらを使用した箇所には必ず傍線を引くこと。
非合理主義 理性的人間観

2001

(I) 中国と周辺地域との相互作用の歴史について述べた次の文を読み,それに関連したあとの問いに答えなさい。

 3世紀ごろから分裂・多様化していた中国は,北方・西方の遊牧民からの強い影響を受けつつ,隋唐時代になると再統一を実現し,きわめて普遍性の高い文明を作り上げて,周辺に大きな影響を与えた。唐の滅亡後になると,中華の座を奪おうとする強力な国家がつぎつぎと北方に現れたり,中国以外の漢字文化圏諸国でも独自文化や民族意識が発達するなど,中華世界はふたたび多様化した。それに対し宋朝でも,漢民族独自の文化や経済活動が大いに発展した。

問1 また唐よりのちの時代にも,中国東北方面から,中国内地全域にとどまらずその周辺にまで支配領域を拡大させた王朝を創始する勢力が再び現れた。この王朝における漢人への統治政策について説明しなさい(50字程度)。

問2 隋から唐の前半にかけての法制,官吏登用制度,土地制度,税制,軍制,宗教と,それが当時の日本にどのように受容されたか,またはされなかったかについて説明しなさい(200字程度)。

問3 唐以前と宋以後の中国の社会や文化には,「唐宋変革」と呼ばれるほどの大きな相違が認められる。たとえば宋代に儒学の主流が大きく変化し,のちの王朝ではそれをさらに批判する新しい儒学思想がおこった。宋以降の儒学の変化について説明しなさい(150字程度)。

(II) 古代より西洋の民主制(デモクラシー)は,成員間の平等を促進する一方で,多くの矛盾を内包していた。この点に留意して,次の問1・問2に答えなさい。

問1 ペロポネソス戦争のころまでには,アテネでは民主制が確立する。現在の西欧諸国で一般的な民主制と比較して,アテネの民主制の特徴を述べなさい(80字程度)。

問2 アメリカ合衆国第7代大統領に当選した,西部出身のジャクソンは,アメリカ社会の平等化に貢献したと言われているが,当時の社会はいろいろな問題点もかかえていた。ジャクソン登場後の,19世紀前半におけるアメリカの民主制の特徴を述べなさい(120字程度)。

(III) スペインのゴヤ(1746〜1828年)は近代絵画の祖といわれ,19世紀ヨーロッパ絵画に大きな影響を与えた。たとえば,ナポレオンによるスペイン支配の一断面を描いた図A(『1818年5月3日』省略)などの晩年のゴヤ作品は,フランスのドラクロワ(1798〜1863年)に影響を与え,1830年フランス七月革命に題材をとった図B(『民衆を導く自由の女神』省略)などに代表される,新しい傾向の絵画を生んだ。

問 この新傾向絵画の特徴の一つは,豊かな色彩表現にある。図Aと図Bの作品を参考にして,この新傾向絵画の,色彩表現以外の特徴について説明しなさい(80字程度)。

(IV) 次の1コマ諷刺マンガは,1989年12月12日にアメリカ合衆国の『ヘラルド・トリビューン』紙に掲載されたもので,当時の東ヨーロッパ情勢を踏まえながら,アメリカ合衆国の社会状況が批判されている。踏まえられている東ヨーロッパ情勢を説明し,さらに,批判されている社会状況についても説明しなさい(200字程度)。

 

2002

(I)
問1 唐代随一の貿易港だったハーンフーには,対外海上交易を管理する機関が置かれた。この機関が設置されていた時代,中国の海上交易に対する政策は,どのように推移したか。当時の海上交易の状況と併せて述べよ(200字程度)。

問2 中国とイスラム圏とを結ぶ海上交易ルートは,中国南辺からマラッカ海峡を経てインド洋に入ったのち,インド付近で二つに分かれる。一つは,ペルシア湾からイラクに達するペルシア湾ルートであり,一つは,紅海からスエズ地域にいたる紅海ルートである。これらのルートの盛衰について,イスラム世界の政治状況と併せて述べよ(100字程度)。

問3 イスラム世界において「イスラム帝国」の時代から,ムスリム諸国家の分立の時代となった。しかしこの分立の時代に,イスラム世界は,アフガニスタンからインドおよび東トルキスタンヘと拡大してゆく。この東方への拡大について述べよ(160字程度)。

(II) 5世紀初めから15世紀末までのイベリア半島における諸国家の興亡を,簡潔に説明せよ。ただし,重要な出来事については可能な限り年代を示すこと(250字程度)。

(III) 大西洋をはさんで,18世紀末のヨーロッパとアメリカは大きな変動の時代を迎えた。イギリスのアメリカ植民地は独立戦争を戦い,大西洋の両側で展開された一連の革命の始まりとなった。他方,イギリスでは,人類の生活を一変させることになる産業革命が進行していた。この両地域に関する以下の問いに答えよ。

問 産業革命では,紡績や織布における技術革新,蒸気機関の改良や鉄鋼業における新たな発明など,産業技術上の革命が進展したが,同時に社会構造上の大きな変動も起った。この社会構造上の変動について,人口移動や社会階層に焦点を当てて述べよ(120字程度)。

2003

(I) 中国歴代王朝の中で,明初に洪武帝がおこなった諸政策には,いかなる特色が見出されるか。具体的な制度・政策にふれつつ述べなさい(150字程度)。

(II) 17世紀以降,現在に至る台湾の政治史を叙述しなさい(150字程度)。

(III) 東南アジア大陸部(インドシナ半島)五か国の現在の領土はおおむね,18世紀の動乱後,19世紀初頭までに成立した政治地図を原型としている。この政治地図はどのようなものだったか,当時の三つの主要な王朝と現在の五つの国名すべてをあげながら説明しなさい(120字程度)。

(IV) シシリー(シチリア)島の歴史に関する次の質問に答えなさい。
問 10世紀から12世紀におけるこの地の歴史について,述べなさい(150字程度)。

(V) 1970年代の石油危機が先進工業諸国にもたらした影響と,それらの国々の対応について述べなさい(250字程度)。

2004

(I) モンゴル草原からハンガリーまで連続する中央ユーラシアの乾燥地帯が,近代以前の人類史上に果たした大きな役割について,論述しなさい。ただしその際,重要な家畜と商品の名をキーワードとして使用し,かつ司馬遷『史記』とヘロドトス『歴史』に見える二つの政治勢力にも論及しなさい(250字程度)。

(II) 中国王朝史において,唐と宋の間に見られた政治制度・文化の変革(唐宋変革)について述べなさい(200字程度)。

(III) 帝国主義の時代に限らず,古代以来,交易・植民活動はヨーロッパ世界の拡大と発展を支える原動力であった。古代ギリシア人やオランダ人は,これらの活動に大きな役割を果たしてきたが,これと関連する次の問に答えなさい。

問 17世紀前半のオランダの世界的な発展について述べなさい(200字程度)。ただし次の五つの言葉を必ず用いること(アムステルダム,バタヴィア,ポルトガル,アンボイナ,ニューネーデルランド)。

(IV) 第一次世界大戦につながるヨーロッパの国際関係について述べなさい(250字程度)。

2005

(I) 紀元前1千年紀の遊牧騎馬民族の登場から近代ヨーロッパ勢力による世界制覇の時代まで,ユーラシア世界史は購買力豊かな南の農耕民族と武力に優れる北の遊牧騎馬民族との対立・協調関係の中で推移してきた。実際には協調の時代も長いのであるが,どうしても目立つのは対立の歴史である。ところで,その対立の象徴とも言うべき巨大な建造物がユーラシア東部に残っている。その歴史について知るところを述べるとともに,それが無用の長物であった時代とその理由についても言及しなさい(200字程度)。

(II) 1895年〜1931年の東アジアにおける列強の進出について,東清鉄道および南満州鉄道の敷設権獲得や利権移転に関連させて述べなさい(250字程度)。

(III) 前近代世界において,宗教は支配体制を支える重要な柱であった。君主による宗教的立場の選択と宗教政策には,個人の信仰を超えた政治的背景が存在した。このことに関して次の問いに答えなさい。

問1 こうした視点から,フランク王クローヴィス一世の行動とその背景について説明しなさい。年代も可能な限り付記しなさい(150字程度)。

問2 同じくこうした視点から,フランス王アンリ四世の行動とその背景について説明しなさい。年代も可能な限り付記しなさい(150字程度)。

(IV) 最近注目されている世界史の見方の一つに,「海から見た歴史」がある。紀元1000年以降の世界史において,対外貿易を通じて経済的に繁栄した都市の名を二つあげて,その二つに共通する繁栄の諸要因を説明しなさい(200字程度)。

2006

(I) 地図1(省略)は,12世紀後半のアジア東部の国々を図示したものである。

問1 当時中国東北部・華北の地域を統治していた国について,(1)国名,主要な民族名,建国者名,(2)国内統治の方法,(3)南宋との国際関係,(4)南宋から流入する物品,以上の項目を必ず含めて説明しなさい(120字程度)。

問2 西夏について,(1)主要な民族名,建国者名,(2)北宋との国際関係,(3)北宋から流入する物品,以上の項目を必ず含めて説明しなさい(100字程度)。

問3 ベトナム・カンボジア・ラオス・タイの地域は,19世紀になると外国の侵略に直面する。この地域に19世紀に存在した国々のうち,どの国が,どこの国の何と呼ばれる植民地になったか,また独立を維持したのはどの国であったかについて述べなさい(60字程度)。

(II) 11世紀〜13世紀の地中海とその周辺部における西方キリスト教世界の拡大について述べなさい(200字程度)

(III) 20世紀後半の現代史は,米ソ両国が対立した「冷戦(冷たい戦争)」の構造で特徴づけられてきた。その冷戦構造に対抗して,1955年4月にインドネシアのバンドンで第1回アジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催された。2005年は,ちょうどその50周年であった。
では,このバンドン会議でかかげられた理念は,その後のアジア・アフリカ諸地域で,どのように実現されたのか。また,今日,課題として何が残されているのであろうか。経済面にも留意しながら説明しなさい(250字程度)。

2007

(I) ユーラシア大陸は,人間集団の移動とそれに伴う衝突・融合を繰り返しながら,その歴史を育んできた。なかでも,(1)4世紀〜7世紀,(1)9世紀〜11世紀,(3)13世紀,(4)16世紀以降の各時期には,いずれもユーラシア大陸の歴史動向に大きな影響を与える人間集団の移動が引き起こされている。これについて,以下の問いに答えなさい。

問1 現在,中国の首都は北京に置かれている。中国を統一した政権の都として北京の地が選ばれてゆくのは,(1)〜(4)のいずれの時期から始まるか,その番号を解答欄(ア)に記入しなさい。つぎに,これと同時期に西アジアで起こった大きな政治的変化について,解答欄(イ)を用いて述べなさい(50字程度)。

問2 鮮卑族と契丹族は,(1)〜(4)のいずれの時期に大きく活躍したか,その番号を鮮卑族は解答欄(ア)に,契丹族は解答欄(イ)にそれぞれ記入しなさい。また,その二つの時期にあらたに中国を統一した王朝をくらべると,政治面だけでなく,軍事面でも,大きくその性格が変化している。軍事面ではこの間どのような変化が見られたのか,解答欄(ウ)を用いて述べなさい(100字程度)。

(II) ペルシア戦争以降も,ペルシアの存在は,ギリシア内部の国家間関係に影響を与え続けた。これについて,アケメネス朝ペルシアの王朝までを視野に入れて論じなさい(150字程度)。

(III) あとの問いに答えなさい。

問1 フランスのインドシナ植民地支配に終止符を打ったジュネーブ休戦協定がベトナムの南北分断につながった経緯を説明しなさい(80字程度)。

問2 インドシナからの撤退と同じころ,フランスにとって大きな問題だったのがアルジェリアである。アルジェリア問題がフランス国内にもたらした影響を説明しなさい(120字程度)。

問3 朱印船のおもな渡航先は東南アジア各地と台湾で,とくにベトナム,シャム(タイ),ルソン(フィリピン)などが上位を占めた。なぜ伝統的に最大の貿易相手だった中国大陸ではなく東南アジア・台湾に渡航したのか,またベトナム,シャム,ルソン三地域は当時どのような情勢だったかの二つの問題を説明しなさい(180字程度)。

2008

(I) 次の文章を読んで,以下の問いに答えなさい。
 近代以前の世界には,さまざまな思想にもとづく多くの「世界」観が存在した。イスラーム世界やキリスト教世界,中華世界の場合に見られるように,それは強い普遍性を主張することが多かった。これらの「世界」の周辺に位置した国家や民族は,その「世界」のなかに組み入れられる一方で,ときに自らの「世界」観を強く主張することもあった。現代でも多くの地域で,近代的な国際関係とこうした伝統的な「世界」観との重なり合いや対立が見られる。

問1 傍線部の例として,清朝時代に,理藩院が統括する地域で起こった,イスラームにもとづく「世界」観との衝突があげられる。その地域とはどこか。また理藩院が統括したその他の地域はいずれも,イスラームとは別のある宗教に対する信仰が支配的だった。その宗教の名前を解答欄に記入しなさい。

問2 イスラームでは,「世界」はイスラームの領域とイスラーム以外の領域とに区別される。イスラームの創始者ムハンマドの死後,オスマン帝国の滅亡に至るまで,イスラーム(宗派分裂後はスンナ派)における聖権と俗権を掌握する地位や制度はどのように変化していったか,述べなさい(150字程度)。

問3 近代以前の中国はどのような「世界」観をもち,諸外国とどのような外交関係を結ぶのが原則だったか,また清朝末期にそれはどのように変化したかについて,左の用語をすべて1回以上使用しながら説明しなさい(150字程度)。
朝貢 冊封 アヘン戦争 不平等条約 日清戦争 宗主権

(II) 「太陽の沈まぬ国」として16世紀に全盛期を迎えたスペインは,無敵艦隊の敗北以降,ヨーロッパ国際政治のなかで衰退していく。17世紀から19世紀末までの衰退の経緯を述べなさい(200字程度)。

(III) 現代の世界は,国境を越えて人・もの・カネ・情報が行きかうなかで世界の一体化が進み,地球的規模での相互依存社会が急速な勢いで姿をあらわしつつある。しかし,最近の歴史学の見方によれば,グローバル化と呼ばれるこのような現象は,程度や構造に差があるものの,現代にはじめて起こったわけではなく,世界史上いくつもの先例がある。グローバル化がどのように進んだかについて,(A)15世紀末〜17世紀と(B)19世紀〜20世紀初頭のどちらか一方の時期を選んで,左のことがらに留意しながら述べなさい(300字程度。解答の最初に(A)または(B)の記号を記入すること)。

・グローバル化を先導した主要な勢力と主要な進出先の変化。
・アジアの諸国家や交易ネットワークなど非ヨーロッパ世界の動き,それらとヨーロッパ勢力との関係。
・(Aの場合)グローバル化を先導した主要な商品・産物,(Bの場合)グローバル化を先導した技術や人の動き。

2009

 (I) 次の文章を読み,あとの問いに答えなさい。

 中国の歴史動向を捉えるにあたっては,二つの南北関係を考える必要がある。すなわち華北と華中・華南との南北関係だけでなく,そうした華北〜華南の地域と,その北方に位置する遊牧・狩猟民との南北関係をあわせ見なければならない。とりわけ10世紀以降,本拠地を保持したまま華北方面に勢力を及ぼしてゆく(1)遊牧・狩猟民が次第に台頭したことは,後者の南北関係にとって重要な画期となったが,他方でそれまで優勢であったトルコ系遊牧民は南方および(2)西方へ移動した。この移動は,その後の中央アジアや西アジアの政治・社会・文化に大きな影響を与えることになった。

問1 中国(華北〜華南)における経済的中心地の移動について,7世紀から14世紀にいたる期間を対象に,次の用語をすべて使用しながら説明しなさい(180字程度)。

大運河 江南 ムスリム商人 稲作 海運

問二 傍線部(1)の遊牧・狩猟民のひとつが建て,12世紀に華北のほぼ全域を直接支配した国家は何か。またその統治下の華北における宗教事情について説明しなさい(40字程度)。

問三 傍線部(2)の移動を契機として,移動先となった中央アジアの言語と宗教は大きく変化した。現在の中央アジアの言語・宗教状況につながるそれらの変化がどのようなものだったか説明しなさい(80字程度)。

(II) 1948年9月9日,前年ベルリン市長に選出されたエルンスト・ロイターは,旧国会議事堂前に参集した群衆を前に演説をおこなった。次に掲げる演説文の一節を読み,1947〜49年のヨーロッパを舞台とした国際政治の情勢を説明しなさい(300字程度)。

 ・・・・・・いまここにいる数十万のベルリン市民が立ち上がれば,全世界がベルリンに目を向けよう。そうすれば,将軍たちや政治家たちはもはや交渉の主導権を握れまい。そこには自由な民衆の意志がある。民衆は,ここベルリンに自由の砦が築かれ,ベルリンが自由の最前線になることを十分に心得ているのだ。・・・・・・世界の人々よ。アメリカの,イギリスの,フランスの,そしてイタリアの人々よ。この町を見たまえ。あなたがたはこの町とこの住民を見捨ててはいけない! 見捨てることはできないのである。

(III) 人類史上,政治・経済・環境などさまざまな要因の連鎖により,広い範囲に危機がおよんだ時代が何回もあった。これについて,以下の問いに答えなさい。

問1 ユーラシアの多くの地域が,14世紀に戦乱,伝染病などによる大きな混乱を経験した。その原因は,第一に北半球の気候の寒冷化による農業生産力の低下,第二にモンゴル帝国時代の交流の活発化がかえって危機の拡大を招いたことなどにあると考えられている。では,どの地域がどんな混乱に襲われたか,日本列島を含む三つ以上の地域の例をあげて説明しなさい。解答には以下の用語をすべて用いること(120字程度)。

倭 寇 紅巾の乱 黒死病

問2 1450年代から続いた景気拡大が1620年ごろストップしたヨーロッパは,その後17世紀末まで,一部の例外はあるものの,「17世紀の全般的危機」の中で混乱が続いた。好景気や人口増加の結果生じた環境破壊と,過剰な銀の流通による貨幣価値の混乱などを背景とするこの危機は全世界的なもので,王朝交替にともなう長期間の混乱や17世紀後半に始まる大帝国の衰退などアジア各地域の動きも,少しずつタイミングはずれているものの,この巨大な危機の一環をなすものだったという説が,最近登場して論争をよんだ。では,17世紀のヨーロッパとアジアの主要国・地域でどんな混乱や衰退がおこったか,細かい年代にはこだわらずに,代表的な例をあげて説明しなさい。解答には以下の用語をすべて用いること(250字程度)。

三十年戦争 ピューリタン革命 ユグノー 第二次ウィーン包囲 アウラングゼーブ 鄭氏(台湾)

2010

(I) 台湾は,二千万を超える人口,そして独自の憲法・軍隊・通貨・文化を持ち,直接選挙によって選ばれた総統が統治しているが,日本,アメリカ,中国など,多くの国は,台湾を主権国家として承認していない。現在の台湾の国際的地位に関係する19世紀以来の主な戦争や国際的な取り決めの流れを,時代順に述べなさい。なお,次の語句を必ず用い,それらの語句には全て傍線を引くこと(250字程度)

日清戦争 下関条約 第二次世界大戦 サンフランシスコ平和条約 国連代表権

(II) 現在,ヨーロッパと呼ばれている地域の周辺部で展開した歴史について,以下の問いに答えなさい。
問1 9〜10世紀以降ローマ=カトリック圏に侵入したノルマン人やマジャール人は,10世紀後半以降ローマ=カトリックを受け入れ,その重要な構成員となった。これによりローマ=カトリック圏は拡大した。以上の過程について,彼らによる国家形成にも触れながら説明しなさい。なお,次の語句を必ず用い,それらの語句には全て傍線を引くこと(250字程度)

ハンガリー ノルマンディー スカンディナヴィア イングランド

問2 ローマ=カトリック圏は,南でイスラーム圏の人々と接触,交流するようになった。その影響の一つとして,12〜13世紀にローマ=カトリック圏がイスラーム圏から受けた学問上の影響について説明しなさい。なお,次の語句を必ず用い,それらの語句には全て傍線を引くこと(100字程度)

アリストテレス イブン=シーナー ラテン語

問3 14世紀以降,バルカン半島にはオスマン帝国が進出したが,19世紀のギリシア独立戦争や20世紀のバルカン戦争が起こるまでは比較的安定した秩序が築かれていた。これに貢献したと考えられる,オスマン帝国が非ムスリムに認めた共同体の制度とは何か。

 (III) 日本語を万葉仮名(実は漢字)やローマ字(アルファベット)で書くこともできるように,文字(表音・表意)と言語は必ずしも一致しない。世界史上における文字の歴史について,いわゆる四大文明における文字の発生から現代までの流れを,おおまかに述べなさい。その際,現代世界で多くの人々が使用している,以下AEの五系統の文字の起源・伝播に重点を置き,AEの記号を用いて解答すること。なお,それぞれの文字の名称は必ずしも正確に答えなくてもよい(300字程度)

文字の写真は省略
A.ラテン文字の系統 B.レーニンの肖像画からキリル文字系統 C.アラビア文字の系統 D.ガンディーの肖像画からインドの文字 E.漢字の系統

2011

(I) 次のグラフ(省略)は,ブラジルの輸出向け一次産品である綿花とコーヒーの輸出額の変遷を示したものである。そうした一次産品の輸出動1向は,国内的な要因だけでなく,国際情勢にも大きな影響を受けることが多かった。グラフ中の1および2について次の問いに答えなさい。

1 1(1861〜70年)の輸出額の増加の背景には,アメリカ大陸の綿花生産の中心であった地域でおこった大規模な紛争があった。その紛争の原因となった経済的な利害対立について,次の用語を必ず用いて述べなさい(100字程度)
奴隷制保護貿易資本主義

2 2(1931〜35年)の輸出額の減少の原因となった北米に端を発する出来事は,欧米諸国の政治・外交にどのような影響を与えたか。次の用語を必ず用いて述べなさい(200字程度)
善隣外交ブロック経済全体主義

(II) 中華帝国には,それを支えた一連の「仕組み」があった。そのうちいくつかは,秦漢時代に採用されたり創始され,20世紀初頭に清朝が滅亡するまで存続した。そのような仕組みについて,中央が地方を支配する制度,対外関係の原則,正統とされた思想,歴史書の形式の4つの側面から説明しなさい。なお秦漢時代の間に変化があった場合にはそれにもふれること。また解答には以下の用語を必ず使用しなさい(250字程度)
封建制郡県制()奴国王儒家,司馬遷

(III) 平成22年度(2010)の大阪大学入学試験・世界史問題では,現代世界で広く使用されている5系統の文字の起源と伝播を問うた。その際,ロシア語で使用されるアルファベットを例示するためにレーニンの肖像付きのポスターを掲げたところ,その肖像をムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)と誤解した受験生が散見された。ムスタファ=ケマルは文字改革を断行したことで知られるが,ある言語を表記するために用いられる文字が根本的に変更されたり,あるいは異なる言語を表記するために応用されるという例は,世界史上に多々認められる。

1 ムスタファ=ケマルの出身母体である民族の本来の故郷と生業,そこからの民族大移動の流れを踏まえて,彼による文字改革以前の文字の名称とそれを使用するようになった歴史的経緯を,その文字の背景にある宗教を受容した時期にも注意しながら,大まかに述べなさい。その際,次の用語をすべて使用し,さらに彼の生まれた時代の王朝名と,彼による文字改革以前と以後の文字にまで言及しなさい(200字程度)
モンゴル高原, カラ=ハン朝, セルジューク朝, バグダード

2 被支配民族の宗教や慣習に寛容であったアケメネス朝ペルシアでは,さまざまな言語と文字が使用された。主要な言語・文字の使用状況について,次の用語をすべて使用して簡潔に述べなさい。ただしその際,どの言語がどの文字で表記されたかに留意すること(80字程度)
古代ペルシア語, 楔形文字, 共通語

3 ロシア語などで使用されるアルファベットはキリル文字とも呼ばれる。キリル文字はスラヴ語を表記するために考案されたが,キリル文字普及の宗教的背景について,次の用語をすべて使用して述べなさい(100字程度)
ビザンツ皇帝, ギリシア正教, ブルガール人(ブルガリア人),バルカン半島 

2012

(I) 次の文に関連する,以下の問いに答えなさい。 アフガニスタンは,南アジア・中央アジア・西アジアの接点に位置する地域として,周辺の諸国家・勢力を呼び込むとともに,四通八達の地としてシルクロード交易の要衝となってきた。1世紀後半に著された見聞録『エリュトゥラー海案内記』には,中国の生糸や絹織物をインド西海岸に送りだす中継交易拠点として,バクトリアの都であったバクトラ(現アフガニスタンのバルフあたり)の名が伝えられている。

1 『エリュトゥラー海案内記』が書かれたころ,バクトラを含むアフガニスタンの北部あたりにイラン系といわれる王朝が台頭した。彼らは西北インド一帯に進出し,ローマ・漢両帝国との東西交易を仲介して繁栄した。この王朝とは何か,その名を答えなさい。

2 アフガニスタンの地域は,(1)10世紀〜12世紀,(2)19世紀の両時期においてどんな国家の支配もしくは影響下に置かれたか。各時期とも必ずインドという語を用いて述べなさい(150字程度)

3 『エリュトゥラー海案内記』はエジプト在住のギリシア人商人により著されたといわれるが,当時エジプトでは東西交易の拠点としてアレクサンドリアが繁栄していた。この都市は,その建設以降7世紀までの間,どんな国家の支配もしくは影響下に置かれたか。宗教の変遷にも留意して述べなさい(180字程度)。 

(II) 次の文に関連する,以下の問いに答えなさい。
 13世紀初頭,チンギス・ハンのもとに統一された騎馬遊牧民を中核とするモンゴル帝国は,ユーラシアの東西に急速に拡大していった。この世紀の半ば過ぎまでに,東は(1)朝鮮半島・日本海沿岸から,西はイラン・イラク・アナトリア高原・ウクライナ・ロシアにいたる史上最大の領域を持つ大帝国が形成されていった。
1260年に即位した五代目の大ハーン,クビライは,モンゴル帝国とそれをめぐる世界に二つの大きな変化をもたらした。第一はクビライ以後,大元ウルス(元朝)の大ハーンのもとにチンギス・ハンの血統をついだ(2)各地のモンゴル諸政権が連合する形に帝国の性格が変わったことである。 
第二は,14世紀前半にかけて(3)ユーラシアと北アフリカにおいて陸と海とをつなぐ交通ネットワークが形成され,ヒト・モノ・カネ・情報がさかんに行きかうようになったことである。それには,クビライがユーラシア東方で北の遊牧世界と南の農耕世界を合わせた帝国を形成し,さらに南宋征服後,東南アジアからインド洋へと海上進出をはかっていったことが背景にあった。世界の一体化は,ヨーロッパ人の大航海時代以前,すでにこの規模にまで進んでいたのである。

問1 下線部(1)「朝鮮半島」へのモンゴルの本格的な侵攻は1231年に開始され,断続的に続いた。当時,朝鮮半島を支配していた王朝は,1259年にモンゴルへの抗戦から服属へと政策を転換し,その王家とモンゴル皇族は通婚関係を結ぶにいたった。その王朝名を答えなさい。
 また14世紀末にはモンゴルへの服属が解消されたが,その時期の朝鮮半島における政治変動について説明しなさい(70字程度)。
問2 下線部(2)「各地のモンゴル諸政権」のうち,フレグ・ウルス(イル・ハン国)と大元ウルスとの友好関係は際立っていた。それを背景としてフレグ・ウルスで編纂されたモンゴル帝国および世界各地域の歴史をペルシア語で記した書物(a),および大元ウルスでイスラーム天文学の影響を受けて作成された暦(b)の名称を答えなさい。なおこの暦は17世紀の日本で改良され,「貞享暦」として用いられた。
問3 クビライ以後,下線部(3)にある「陸と海とをつなぐ交通ネットワーク」が,どのように形成されたか,またネットワーク上ではどのような人々が交易に活躍したか,どんな通貨が用いられるようになったかについて,下記の四つの用語をすべて使って説明しなさい(150字程度)。
泉州 海運 大都 ジャムチ

(III) 世界の一体化は,モノ・カネや情報の移動と並んで,ヒトの移動(移民)が地球的規模で展開されるなかで進んできた。ヒトの移動に関する以下の問いに答えなさい。 

問1 大西洋奴隷貿易は,16世紀から19世紀にかけて,強制的なヒトの移動として類を見ない規模に達し,1000万人以上が移動したとも推定されている。そのような大西洋奴隷貿易が,環大西洋世界の各地域の歴史にどのような影響をおよぼしたか,下記の三つの用語をすべて使って説明しなさい(140字程度)。
プランテーション 産業革命 低開発

問2 19世紀後半から1920年代までの間に,ヨーロッパからはあわせて約5100万人が,北米をはじめ南米やオセアニア地域に向けて移住したといわれる。
 だが,それに劣らず,アジアからの移民が急増したのもこの時代である。なぜ,この時期にアジアからの移民が急増したのか,その移民たちはどこに向かい,現地の社会にいかなる影響を与えたのか,下記の四つの用語をすべて使って説明しなさい(180字程度)。
交通・運輸革命 華僑・印僑 白豪主義 1924年移民法

2013

次のグラフは,西欧・旧ソ連・日本・中国・アメリカ合衆国における経済規模(GDP)を,超長期的な傾向を把握するために,過去にさかのぼって推計したものを表している。以下の問い(I)(II)にそれぞれ答えなさい。

(I) A・Bは西暦1000年前後にいずれもグラフの傾きに変化がみられる。この時期における,世界各地の経済や制度に関する以下の問い(問1~問2)にそれぞれ答えなさい。

問1 この時期のAにおいて経済規模拡大の背景となった社会経済の動態について説明しなさい。解答には次の用語をすべて用いること(100字程度)。
商業 都市 貨幣経済 農業開発

問2 10世紀から12世紀にかけて,ユーラシア各地では,土地や農民の支配・経営に関して新たな状況が生まれていた。グラフに示されているBと日本,さらには同時期の西アジアでは,どのような勢力により,どのような土地や農民の支配・経営が展開したか述べなさい。解答には次の用語をすべて用いること(150字程度)。
軍人 イクター制 荘園 農奴

(II) 前掲のグラフでは,18世紀も同様に,各地における経済規模拡大の趨勢にひとつの画期がみられる。この時期およびそれ以降における,各地の政治・社会・経済的変動に関する以下の問い(問1~問3)にそれぞれ答えなさい。

問1 Bが急激な経済発展を示した18世紀以降,Bとの対抗のなかで,「イスラーム世界」では,既存の体制や思想を変革する動きが見られた。そのひとつが18世紀中頃にアラビア半島で生まれたワッハーブ運動である。これは19世紀以降に広がるイスラーム改革運動の原点となり,20世紀に東南アジアにまで影響を及ぼした。
 ワッハーブ運動は,どのような変革をめざした運動であったのか,そして,この運動が18~20世紀の間にアラビア半島にどのような国家をつくりあげたのかを説明しなさい。解答には次の用語をすべて用いること(150字程度)。
クルアーン ムハンマド サウード家

問2 次に抜粋した歴史的文書は,18世紀後半に経済発展と政治変動を経験した,グラフ中の一地域で書かれたものである。これを読み,以下の問い(1,2)に答えなさい。
 私たちは以下の真理を自明のことと考える。すなわち,すべての人間は平等につくられ,譲ることのできない諸権利を神から与えられている。そのなかには,生命,自由,幸福の追求の権利がある。そして,これらの権利を確保するために,人々の間に政府がつくられ,その公正な権力は被治者の合意によるものとする。また,どのような政府であれ,こうした目的を損なうものとなった場合には,その政府を改め,あるいは廃止して,新しい政府を樹立し,人々の安寧と幸福をもっともよく実現できる原理をその政府の基礎とし,そのように権力を組織しなおすことは,人民の権利である。
1.上の文書の名称を答えなさい。
2.この文書はどのような歴史的経緯の中から生まれてきたものであったか,また19世紀にいたるその後の世界の歴史に,どのような影響を与えたと考えられるか述べなさい。解答には次の用語をすべて用いること(250字程度)。
七年戦争 啓蒙思想 重商主義 革命

問3 Aは一時的停滞ののち,18世紀に経済規模を大きく拡大させている。それらの背景となる政治・社会・経済的動態について説明しなさい。解答には次の用語をすべて用いること(150字程度)。
人口 トウモロコシ 移住 開発

2014

(I) 以下の会話(省略)を読み,下の問いに答えなさい。

問1  18世紀のイギリスで始まった工業化(産業革命)について,そこでおこった燃料と動力,交通・輸送手段などの変化,鉄や衣服を作る新しい技術や生産形態,結果としておこった衣服の材質の変化などについて説明しなさい。ただし,人名や地名,特定の機械の名前などを書いてはいけません。「それまでの○○にかわって□□が使われた」などの大きな変化だけを書くこと(150字程度)。

問2 税制の変化に関連して,8世紀から18世紀までの中国の農民が負担した租税の制度の変化について,8世紀,16世紀,18世紀の3つの画期に注意しながら,説明しなさい。ただし,どんな種類の税を何で納めたかや,どのような人々に課税されたかに注意し,解答には以下の語句をすべて用いること(150字程度)。
土地税  人頭税  穀物  銭  銀  成人男子  世帯

(II) 下の絵(省略)は1615年から1618年にかけてインドで製作されたものである。ガラス製の砂時計の玉座に座り,光輪や天使に囲まれたムガル帝国第4代皇帝ジャハーンギール帝に謁見しようとする人々が描かれている。

問1 皇帝に最も近い位置にいる人物は,説教や奇跡をとおして南アジアでのイスラームの浸透に大きく貢献した人々を象徴的に描いている。この人々を何と呼ぶか答えなさい。

問2 謁見を求める人物のうち,一人は1600年に東インド会社が設立された国の王である。彼の国は,後にインド全土を支配した。この国王の名前を答えなさい。

問3 15世紀から17世紀にかけての,ヨーロッパ諸国と南アジアおよび東南アジア地域との関係について説明しなさい。解答には以下の語句をすべて用いること(100字程度)。
大航海時代  セイロン  マニラ  オランダ

問4 この絵が描かれた時代の前後のインドにおける宗教政策について述べなさい。解答には以下の語句をすべて用いること(130字程度)。
アクバル  融和  ラージプート  アウラングゼーブ

(III) 人類史上,世界的に最も大きな被害をもたらしたと思われる伝染病としては,14世紀の黒死病(ペスト)と1918年に始まったスペインかぜ(インフルエンザ)などがあげられる。黒死病は,ヨーロッパや北アフリカに広まったが,中国でも多数の死者を出しており,アジアから病原菌がもたらされたと考えられている。スペインかぜは,推計5千万人以上の死者を出し,日本も含む全世界的流行となった。

問1 このような世界的規模の流行を引き起こした要因の一つとして,地域間移動の頻度が増加したことが考えられるが,それぞれについて,最も重要と思われる点を述べなさい。その際,黒死病・スペインかぜに分けて説明すること(100字程度)。

問2 黒死病によって,ヨーロッパでは人口が激減し,社会的に大きな混乱や変動が起こった。その内容を短期的影響と,数世紀にわたる長期的結果に分けて述べなさい(200字程度)。



 

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