立命館大学過去問(中国テーマ史)

1.中国経済制度史

1 次の文章を読んで,下線部分[1]〜[6]に関するあとの問いに答えよ。[1999・経営]

 唐から宋にかけて中国社会は大きく変化した。変化は政治・経済・社会・文化あらゆる方面にわたるものであったが,なかでも商業の隆盛には目をみはるものがあった。まず都市の中の商業活動をさまざまに制限していた制度的枠組みの「市制」「坊制」が崩壊した。例えば,それまで集居させられていた市区の坑内から出て,人通りの多い大街にむけて店舗を構える者や,交通の便の良い運河の近くに移り住む者も現れて,都市景観は一変した。
 坐賈と呼ばれ,店舗を構えて営業する商人だけでなく,各地の特産物を全国の市場を相手に販売する商人が活躍し,全国的規模で物資の流通に貢献した。[1]彼らは大きな資本力をもつ遠距離商人で,米穀や専売品などを扱った。[2]都市の商人や手工業者は同業種ごとに組合を結成して互いに助け合い,営業の独占をめざした。
 また城郭で囲まれた都市域以外の農村部でも都市化が進行した。[3]全国的に定期市が発生し,農民も売り手として参加することになった。定期市から発達して常設店舗,商人街などを備えた商業聚落が形成され,[4]やがて小都市に発展するものもあった。
 海外貿易も盛んに行われた。[5]海港に海外貿易担当官庁を設置し,外国船の来航に対応させた。外国船がもたらした商品は税相当分を徴収したのち,一旦政府が買い上げ,一部を商人に払い下げ,高価なものは政府財源とする専売の方式をとった。
 貨幣経済は一層進行したが,取り引きの決済手段の基本は従来通り銅銭であった。高額の取り引きや輸送にははなはだ不便であったので,金銀による決済のほか,[6]色々の方法が案出され,大いに行われた

[1]この大きな資本力の遠距離商人を何というか。
[2]
(a)商人の同業者組合を何というか。
(b)手工業者の同業者組合を何というか。
[3]この定期市を何というか。
[4]
(a)農村に出現した中小商工業都市を何というか。
(b)北宋の年号を名前に持つ,江西省にある窯業都市は何か。
[5]
(a)この海外貿易担当官庁を何というか。
(b)この官庁が置かれた海港で,マルコ・ポーロ『世界の記述』の中でザイトンという名前で紹介された都市は何か。
[6]
(a)唐以来,遠方に送金するために使われた手形を何というか。
(b)四川の金融業者が発行していたものを宋朝政府が引き継いで発行した,世界最初の紙幣を何というか。

解答 
1.客省 2.(a)工 (b)作 3.草市 4.(a)鎮、市 (b)景徳鎮 5.(a)市舶司 (b)泉州 6.(a)飛銭 (b)交子


2 次の文章を読んで,[ A ]〜[ J ]にもっとも適切な語句を記入せよ。[2001・法]

 明朝は民衆の統治にあたり,その職業によって戸籍を数種類に分けた。もっとも数が多い[ A ]は州縣に属し,村落行政制度である[ B ]制の基礎をなすもので,税役の負担者であった。職人である[ C ]は工部に属し,官営工場で織物や陶磁器などの生産に従事した。兵士を出す[ D ]は[ E ]に属し,[ F ]の管轄下に置かれた。各戸はその職業を世襲し,戸籍間の移動は禁止されていた。明代兵制の基礎をなす[ F ]制は,太祖洪武帝によって設立された。[ D ]は戸毎に壮丁1人を正丁として出し,正丁112人を以って百戸所を編成し,10の百戸所で千戸所(1120人)を,5つの千戸所(5600人)で1衛を編成した。衛には指揮使などが置かれ,これらを統率した。これら衛のうち,首都にある衛が[ E ]や[ G ]に直属したのに対し,地方の衛は各省に置かれた[ H ]を通じて中央の最高軍事機関である[ G ]に属していた。そもそも[ D ]の由来はというと,太祖が起兵したときから付き従った部隊(従征),元末明初に太祖に平定された群雄の部隊や元朝の降軍(帰付),罪を犯し軍役を課された者(謫発)などであった。[ F ]の軍士は二分されて,一部が防衛にあたり(守城),一部が農業にあたった(屯田)。基本的には[ F ]の軍糧は屯田の収穫によって支えられていた。このように[ F ]制は自給自足を目指したのであり,太祖洪武帝は唐の府兵制に見られる[ I ]の理想を実現しようとしたのである。しかし,かつて唐の府兵制が[ J ]の崩壊とともに衰退したように,明中期以降,屯田の不振や[ D ]の逃亡が続き,[ F ]制も衰微し,明末には全く無力化してしまった。

解答 
A.民戸 B.里甲 C.匠戸 D.軍戸 E.兵部 F.衛所 G.五軍都督府 H.都指揮使司 I.兵農一致 J.均田制

2.文化史

1 次の中国文化史に関する文章を読んで[ A ]〜[ E ]に漢字で適当な語をいれ,あとの[1]〜[5]の問いに答えよ。[1999・法]

 仏教は,すでに漢代に伝えられていたが,そのころはまだごく一部の人たちの信仰を得ていたにすぎなかった。しかし,魏晋南北朝時代になると不安な世情を反映して,しだいに社会一般にも受け入れられていった。この間にあって,華北における仏教の布教にとりわけ功績のあったのが,後趙王から厚い信頼を受けた西域僧[ A ]である。[ A ]がいかに後趙王から尊敬され重んじられたかについて,『晋書』はつぎのように伝えている。「季龍位を僭し,都を■ギョウに遷すに及び,心を傾けて[ A ]に事(つか)え,勒より重んずる有り。書を下して[ A ]に衣(き)せるに綾錦を以てし,乗るに彫レンを以てせしむ。朝会の日,之を引きて殿に升るに,常侍以下悉く輿を挙ぐるを助け,太子諸公扶翼して上(のぼ)し,主者大和尚と唄うれば,衆生皆起(た)ち,以て其の尊を彰(あらわ)す」と。その結果「百姓[ A ]の故に因りて多く仏を奉じ,皆寺廟を営造し,相競いて出家す」ることとなったのである。もちろん当時の漢人官僚たちには,こうした傾向をこころよく思わない者たちも多く,著作郎だった王度は,人びとが寺に参詣することや出家することを禁止するよう上奏した。しかしそれは受け入れられることはなく,かえって正式に出家を許す結果となった。[ B ]にすこし後れて,やはり西域から来た[ B ]も前秦・後秦に迎えられ,多くの仏典を漢訳して,仏教の普及に大きな功労があった。一方,この頃になると中国僧のなかにも,[ C ]のように直接仏典を求めてインドにおもむく者もいた。その後,北魏の[ C ]のときの廃仏のように,弾圧を受けたこともあるが,唐代には国の保護を受けて栄え,禅宗・[ E ]などの宗派が盛んとなった。またインドに仏典を求めて旅し,これらを持ち帰った唐僧玄奘は,新たに仏典の漢訳も行い,その後の仏教に大きく寄与した。

[1][ C ]が著した旅行記を何というか。
[2]玄奘に後れること約半世紀,インドより仏典を持ち帰った唐僧は誰か。
[3][2]が帰国後に著した旅行記を何というか。
[4]今日の山西省に属する,南北朝時代に造営された仏教石窟寺院の所在地はどこか。
[5]唐代の中国では,仏教以外にも外来宗教の寺院が建てられ栄えていた。明末に発見された漢字・シリア文字の石碑で有名な外来宗教の名を漢字で記せ。

解答 
A.仏図澄 B.鳩摩羅什 C.法顕 D.太武帝 E.浄土宗 1.仏国記 2.義浄 3.南海寄帰内法伝 4.雲崗 5.景教


2
 次の文章を読んで,[ A ]・[ B ]に適当な語句を入れ,下線部[1]〜[4]につきあとの問いに答えよ。[2000・法]

 中国二大宗教とされる仏教と道教とであるが,[1]3世紀頃まではそれほど明確に区別される存在ではなかった。しかし道教徒が,老子がインドに入って浮屠になったという老子化胡説を唱道しはじめて,しだいに区別するようになり,5世紀頃に至って仏教に相対する一つの宗教集団として,道教が認識されるようになった。道教という名称がこの宗教の専称となるのもこの頃で,それまでは仏教でも儒教でも,人の道を示す教えはみな道教といわれていた。以来,仏教と道教との対立がはじまる。道教側からの攻撃によって仏教側が最初にうけた大打撃は,[2]5世紀中頃,北魏の[ A ]帝のときに行われた廃仏で,史書に「諸州に詔して,沙門を坑(あなうめ)にし,諸仏像を毀(こぼ)たしむ。」(『魏書』)とある。[3]こうした廃仏は,以後三度行われ,仏教側からは、北魏を合わせて三武一宗の法難と呼ばれ悪名が高い。ただ,これらの廃仏は,たんに皇帝権力を利用した道教側の勝利というのではなく,仏教における寺院や僧侶の増加という経済上の国家的理由があった。このことは道教においてさえもいえることで,ある廃仏のときには,史書に「初めて仏・道二教を断じて,経・像を悉く毀(こぼ)ち,沙門・道士を罷(や)め,並びに民に還(かえ)らしむ。」(『周書』)とあるように,仏教だけでなく,道教もその対象となった。いずれにせよ,道教と仏教との対立は長期にわたって続くのであるが,なかには,相手をも認めてこれを調和させようとする者もあらわれ,しだいに儒教も含めた三教の調和共存が唱えられるようになった。[4]金朝の治下でおこった[ B ]・太一教・真大教などの新しい道教は,こうした儒・仏・道三教調和の思想の上に立っている

[1]
(a)道教の源流の一つとされる後漢末におこった宗教結社で,黄巾の乱の主力となったのは何か。
(b)(a)の教祖となったのは誰か。
(c)(a)とともに道教の源流とされる,いま一つの宗教結社を何というか。
[2]新天師道の教祖として道教を大成し,北魏の廃仏を行わせたとされる人物は誰か。
[3]北魏のあとの時代に廃仏を行った三人の皇帝を時代順に記せ。
[4]同じ頃,南宋治下で盛んであった道教の一派を何というか。

解答 
A.太武 B.全真教
1. (a)太平道 (b)張角 (c)五斗米道 2.寇謙之 3.武帝 武宗 世宗 4.正一教


3
 次の文章を読んで,下線部〔1〕〜〔5〕についてあとの問いに答えよ。[2001・国際関係]

 『宋史』芸文志に,「宋の天下を有(たも)つこと,先後三百余年。其の治化の汚隆,風気の離合を考えるに,以て倫(ともがら)を三代に■クラべるに足らざると雖も,然れども其の時の君,道芸に汲汲とし,輔治の臣,経術を以て先務と爲さざるは莫(な)く,学士縉紳先生,道徳性命の学を談じて,口に絶えず。豈に彬彬(ひんぴん)乎ならずして周の文に進まん哉。宋の競わざるを,或いは以て文勝の弊と爲し,遂に咎(とが)を焉(これ)に帰す。此れ功利を以て言を爲す。未だ必ずしも知道の論にあらざる也。」とあるが,これは宋代にたいする評価をよくあらわしている。たしかに,〔1〕「競わざる」対外政策は文弱と譏(そし)られ,莫大な歳幣を必要とするなどの弊害もあった。しかし,君臣ともに道徳学術を重んじ,文治主義をとったことが,宋代の文化の発展をうながしたことも否めない。学問・思想において,先人を祖述するのみのそれまでの訓詁学から脱却し,直接経文から人間の本性や宇宙生成の理について考える,〔2〕新しい儒学が朱熹によって大成された
 文学では,〔3〕詩は華やかに開花した唐代の陰にかくれがちであるが,文章において,六朝以来の駢儷文を排し,自由達意を重んじた散文体が大成され,後世の文章の模範となった。また,これら儒学や文章上のあたらしい動きが史学の上にも作用し,〔4〕多くの史書が著されたことも特筆すべきである。美術では,絵画において,花鳥画や山水画が完成された時期である。また,中国絵画の特質である書画一致の精神をもっともよくあらわした墨画が完成されたのもこの時であるし,〔5〕文人画が確立したのもこの時代であって,中国絵画の完成期といえる。書道では,従来の王羲之系の書風のうちにも,個性を重んじる独自の書風があらわれた。このように宋代は,学問文学美術の上に新気運が醸成された時代であったが,その先駆が,すでに唐代にあったことも見逃せない。

〔1〕北宋政府が定期的に歳幣をおくった北辺の2国を記せ。
〔2〕
(a)朱熹によって宋学の始祖とされた周敦頤の著書を記せ。
(b)朱熹が,その著『資治通鑑綱目』の中で臣下の守るべき節操と本分を明らかにし,君臣関係を正そうとした思想的立場とは何か。漢字5文字で記せ。
(c)朱熹は漢代以来の儒教経典のほかに,新たにいくつかの儒教経典を根本経典として尊重した。この新たに加えられた儒教経典をまとめて何というか。
〔3〕宋代,楽曲の歌詞として成立した韻文の1つを何というか。
〔4〕
(a)欧陽脩の編著になる代表的歴史書2書の書名を記せ。
(b)中国において正史の叙述に用いられた歴史記述法は何か。
〔5〕文人画に相対する画風を何というか。

解答 
1.遼、西夏 2. (a)『太極図説』 (b)大義名分論  (c)四書 3.詞  4. (a)『新唐書』、『新五代史』 (b)紀伝体 5.院体画


4
 次の文書を読んで,下線部[1]〜[4]に関するあとの問いに答えよ。[2000・経済]

 明代では,元時代に低迷していた[1]学術が再び盛んとなり,また,庶民の地位の向上にしたがい庶民文芸が盛んとなって,ことに[2]白話体の長編小説が流行した。元時代に学術が低迷したのは,蒙古至上主義をとる元朝が中国伝統の文化を顧みなかったからであるが,明代の庶民文芸の隆盛には,元の時代が大きな意味をもっている。それは,元朝治下にあって不遇だった漢人が,庶民的な俗文学にその不満のはけ口を求めたためで,ことに[3]雑劇に漢人知識人たちが関与したことによって,庶民文芸は大いに洗練され,発展することとなったのである。また明も晩期になると,社会に役立つ実学主義がおこり,[4]実用の書が多く刊行された

[1]
(a)明朝において,官学とされた儒学は何学か。
(b)明の永楽時代には,『永楽大典』など国家的編纂事業が行われた。このとき『永楽大典』のほかに経書の注釈書が編纂されているが,それは何か。一つあげよ。
(c)明代,実践的な知行合一を説いたのは誰か。
[2]明代に完成した「四大奇書」といわれる長編小説のうち二つをあげよ。
[3]元時代に作られた戯曲のうち,
(a)唐の元■シンの小説『会真記』に取材したものは何か。
(b)王昭君の故事に取材したものは何か。
[4]
(a)医薬関係では『本草綱目』が刊行されているが,これを著したのは誰か。
(b)農業関係では『農政全書』が刊行されているが,これを著したのは誰か。
(c)宋応星が著した技術関係の書は何か。

解答  
1. (a) 朱子学 (b)『五経大全』 (c)王陽明
2.『三国志演義』『西遊記』
3.(a)『西廂記』 (b)『漢宮秋』
4.(a)李時珍 (b)徐光啓 (c)『天工開物』


5 次の文章を読んで,[ A ]・[ B ]にもっと適切な語句を記入し、下線部〔1〕〜〔5〕についてあとの問いに答えよ。[2001・産業社会]
 唐の歴史家・劉知幾の『史通』は,歴史記述のありかたを尚書家・春秋家・左伝家・国語家・史記家・漢書家の六家に分かち,それぞれの沿革を論じている。「尚割は宋代以降は『書経』と呼ばれ,尭・[ A ]・禹から[ B ]・殷・周三王朝を経て,春秋時代の〔1〕秦穆公に至る帝王・諸侯の発言を集めたものである。〔2〕『春秋』は『尚書』とともに五経の一つとされ,魯国の年代記の形式を取り、孔子が編纂したとされる。『左伝』すなわち『春秋左氏伝』は,孔子と同時代の左丘明の編纂とされ,『春秋』の「伝」すなわち注釈書の形式を採り,春秋時代の史実・言論を豊富に集めた編年体の歴史書である。『国語』は同じく左丘明の編纂とされ,西周時代から春秋時代の賢者の発言を国別に集めている『戦国策』も同様に〔3〕戦国時代の外交に関わる言論を国別に集めている。『史記』は、司馬遷が神話的帝王である黄帝から〔4〕かれの同時代までを記述した紀伝体の通史である。班固が著した『漢書』は、〔5〕前漢王朝の成立から滅亡までを記述し,この王朝一代を記述する紀伝体断代史のスタイルは,以後の正史に踏襲された。

〔1〕秦穆公の援助で,今日の山西省を中心とする国の君主に即位し、春秋五覇の一人に数えられる人物はだれか。
〔2〕秦始皇帝は,紀元前213年,「医薬・ト笹・種樹の書」を除く民間の書物の焼却を命じた。「五経」のうち,この焚書を免れた書物の名を記せ。
〔3〕戦国時代の外交政策には,秦に対抗すべく他の六国の同盟を推進する合従策と,これを切り崩す連衡策とがあった。紀元前328年に秦の大臣となり,連衡策を推進じた人物の名を記せ。
〔4〕
(a)秦末の混乱期に趙佗が建国し,紀元前111年に漢帝国に併合された国の名を記せ。
(b)漢帝国が今日のハノイ付近に設置した郡の名を記せ。
〔5〕
(a)前漢を滅ぼし、自ら低位に就いた人物の名を記せ。
(b)(a)の人物の失政に対して挙兵し、これを滅ぼした農民反乱の名を記せ。
(c)漢帝国を復興し、(b)の農民反乱を平定した人物の名を記せ。

解答 
A.舜 B.夏 1.晋の文公 2.易経 3.張儀 4.(a)南越 (b)交趾 5.(a)王■モウ (b)赤眉の乱 (c)劉秀

6 次の中国美術史に関わる文章を読んで,[ A ]〜[ G ]にもっとも適当な語句を記入し,下線部〔1〕〜〔3〕についてあとの問いに答えよ。[2001・法]

 陰影法による写実の追求が西洋の絵画であるとすれば,中国の絵画は線描法による写実の追求であった。唐の張彦遠が,「〔太古は〕書画同体にして未だ分かれず。……以て其の意を伝える無し,故に書(文字)有り。以て其の形をあら見わす無し,故に画(絵画)有り」(『歴代名画記』)と書画が同源であることを説き,また「国朝の[ A ]は古今独歩,前に[ B ]・陸(陸探微)を見ず,後に来る者無し。筆法を〔書家の〕張旭に授かる。此れまた書画の用筆同じきを知る也」と,書画の筆法が同じであると説いているのが,この中国絵画の特徴を実によくあらわしている。
 このように中国絵画の発達は,書法の発達と大いに関係がある。毛筆の存在は殷代まで遡り得るが,漢の頃までは金石に刻む字が正式であったため,書体もその刻字に近いものであった。この書体に毛筆の特徴を生かした書法が見られるようになるのは後漢の「八分書」からで,その後,東晋の[ C ]に至って大いに発展したとされる。
 この書法における線の革命は,絵画の線の上にも影響を与える。その変革が文献上にあらわれるのは,〔1〕盛唐の[ A ]の「蘭葉描」である。つまり,それまでの絵画の線が針金のようであったのに対し,蘭の葉を映したように太細のある線としたのである。 A は書家の張旭に筆法を学んだとあるように,その画の筆法は書法を応用したものであった。
 中国絵画のなかで,最も書に接近したのは「墨画」である。墨画は,絵画の大きな部分を占める色彩を全廃し,書と同じように墨だけで画いたものである。一方,その色彩を積極的に墨一色で表現しようとする世界に類を見ない絵画があらわれた。それが中国絵画を代表する「水墨画」である。なお,これとともに宋代には,画中に「題詩」を加えることが行われるようになり,ついに「詩書画三位一体」の芸術を作り上げたのである。
 このように,中国では書と画とは切り離せない関係にあったため,書で知られた人が絵画も上手であり,画で知られた人が能筆であることが多い。あの書聖[ C ]も,動物画や人物画に巧みであったというし,画家として有名な東晋の[ B ]も,書で知られていた。また唐代では,〔2〕初唐の画家で人物画を得意とした[ D ]も,従来の絵画に新風をもたらした[ A ]も,〔3〕みな書で名をなした人である。下って北宋時代,唐宋八大家の一人で書家として知られ,政治上では新法の[ E ]と対立した[ F ]は墨画にすぐれていたが,それは書法によって画かれたものであった。同じく北宋の文人画家で「五馬図」で有名な[ G ]も書の大家であった。

〔1〕盛唐の自然詩人で,画家としても知られ,後に南画の祖と仰がれたのはだれか。
〔2〕虞世南・_遂良とともに初唐三大家といわれるのはだれか。
〔3〕[ D ]が人物画の大成者とすれば,唐朝の皇室の出身で玄宗に仕え,従来の山水画を大成させたとされるのはだれか。

解答 
A.呉道玄 B.顧■ガイ之 C.王羲之 D.閻立本 E.王安石 F.蘇軾 G.李公麟 1.王維  2.欧陽詢 3.李思訓

7 次の文章を読んで,[ A ]〜[ G ]にもっとも適切な語句を記入し,下線部〔1〕〜〔3〕についてあとの問いに答えよ。[2001・経済]

 宋代の中国では科学技術がおおいに発達を遂げ,欧米の学者のなかには,宋代の生産技術の改良を産業革命とよぶ人もいる。その根拠のひとつが鉄の生産額で,宋代の鉄の年生産額は,7万5千トンから15万トンに達していたことが,〔1〕当時の官庁の記録から計算されている。この生産額がどのくらいけた外れの数字かというと,17世紀中ごろのイギリスの鉄生産額の2.5倍から5倍にあたり,18世紀でいえば,ヨーロッパ・ロシアをふくむ全ヨーロッパの生産額に相当するのである。ただこの膨大な鉄も農具や工業機械に使用されたのではなく,多くは鉄銭,銅の精錬,甲冑や刀剣などの武器の生産にまわされ,他の経済発展に大きな影響を与えなかった。
 中国では磁石の指極性は古くから知られていたが,航海への利用例は,南宋,朱■イクの『萍州可談(へいしゅうかだん)』という書物に見える。〔2〕朱■イクが地方官として赴任した1094年頃の広州の話として「(水先案内人は)夜は星によって,昼間は太陽によって進路を決める。薄暗い天気のときには,指南針を見る」と述べている。この器具は厳密には[ A ]ではないが,夜間や曇天でも,暗礁の多い海岸から離れて正確で安全な航路をとることを可能にした。
 黒色火薬は北宋時代の軍事技術書『武経総要』にその製法が記載されているが,その用途は敵の威嚇用にとどまった。実戦で殺傷用に使用されたのは,1221年南宋の_州城を攻めた[ B ]軍が鉄製の壺に火薬をつめ,点火して打ち出したのが最初である。その後,スブタイ率いるモンゴル軍が首都・_京を包囲した際,[ B ]軍は城内から鉄索で吊り下げた震天雷をモンゴル軍の頭上で爆発させた。
 北宋の慶暦年間に[ C ]が膠泥活字を発明したという記録があるが,〔3〕普及はしなかったらしい。むしろ宋代の庶民文化や出版文化の興隆に貢献したのは,そうした先端技術ではなく,隋唐以来の[ D ]の普及であった。印刷材料の得やすい地方には出版産業都市が生まれた。福建の麻沙鎮などがその例である。
 宋代に著しく発達した産業として陶磁器産業も忘れてはならない。宋代の磁器は宋磁と称され,簡美・清新な美しさで知られるが,なかでも河北省の定窯や磁州窯から産した[ E ]が有名であった。また宋代を代表する陶磁器といえば,われわれ日本人にもなじみの深い[ F ]で,その色は中国人の玉へのあこがれを表すものとされ,浙江省の越窯や龍泉窯産のものが有名であった。江西省の北東部にある窯業都市の[ G ]の隆盛も中国窯業史上特筆すべきものである。この町の陶磁器生産の発祥は漢代とも南北朝とも言われるが,中国陶磁の代名詞としてその名が世界に広まることになったのは,町の名に北宋の年号を戴いてからのことである。

〔1〕宋代に統計記録が残っている理由は,鉄の採掘・精錬が多くの場合,国家管理のもとに置かれていたからである。中国史上初めて鉄の国家専売が行われたのは,何世紀のことか。
〔2〕唐代,広州にはアラブ商人が来航したが,イスラム商人がアラビア海やインド洋で使用した木造帆船を何というか。
〔3〕世界最古の金属活字による印刷が実用化されたのは,朝鮮においてであった。その時期の王朝名を記せ。

解答 
A.羅針盤 B.金 C.畢昇 D.木版印刷術 E.白磁 F.青磁 G.景徳鎮
1.前2世紀 2.ダウ船 3.高麗


8 次の文章を読んで,[ A ]〜[ D ]に最も適切な語句を記入し,下線部[1]〜[5]についてあとの問いに答えよ。[2002・法]

 明では朱子学が官学となり盛んになったが,後半には王陽明を祖とする[1]陽明学が流行した。陽明学は,作聖つまり個人の人格の完成を目的とし,自分の悟りと工夫・実践を重んじた。ただし,関心の所在は自己の心の修養にあり,政治・社会への関心は希薄であった。明末,国家財政の破綻,[2]農民反乱の頻発,宦官の専横などにより社会が大きく混乱すると,学問も現実の社会・政治に役立つものでなければならないという自覚がうまれた。そうした自覚のもとに生まれたのが実学もしくは[ A ]の学という。この学派の問題関心は,社会・政治の現状分析と改善で,この学派の中には,聖賢の道や根本原理に関心を寄せるものや,天文暦算・農業水利・兵学火器など技術を重視するものがいた。
 当時,明王朝内では[3]宦官が勢力をふるい,宦官派官僚と反宦官派の官僚が対立していた。普通,反宦官派を,その拠点となった東林書院にちなんで東林党もしくは東林派という。この書院は,[4]正義派官僚として知られた[ B ]が官職を辞して江蘇省の[ C ]に帰り,1604年に再建したものである。かれは[ A ]の学を標榜し,著名な学者を招き,講学活動をつうじて宦官批判・政治批判を開始した。かれらの主張は多くの学者や官僚の支持を獲得し,東林党の声望は大いにたかまった。さらに,反東林派が宦官と手を結んだため,東林派はこれまで以上に宦官の政治介入を非難した。そこで熹宗天啓帝の信任を得て政治の実権を掌握した宦官の[ D ]は特務警察を動かして東林党人を迫害,追放し,ついに1625年には東林書院も閉鎖させた。しかし1627年に熹宗が崩ずると,専横をきわめた[ D ]も皇帝の後ろ盾を失い,まもなく失脚してしまう。東林党が弾圧を受けて壊滅したあとも,その主張は,あいついで結成された文学的政治結社の応社,応玄社,[5]復社へと受け継がれ,勢力を挽回して小東林と称せられた。

[1] 儒教の偽善性を批判する過激な言論のために迫害され,北京で獄死した陽明学左派の思想家は誰か。
[2] 
(a) 小作人と地主の間で地代をめぐって争われた闘争を何というか。
(b) 15世紀中葉,福建でおこった小作農の反乱の指導者は誰か。
[3] 雲南出身のイスラム教徒で永楽帝に仕えて南海遠征を敢行した宦官の名を記せ。
[4] [ B ]が反抗した万暦朝の内閣大学士は誰か。
[5] 復社に参加した一人で,『日知録』『天下郡国利病書』などの著書で知られ,清朝考証学の基礎を築いたとされる学者は誰か。

解答
A.経世致用 B.顧憲成 C.無錫 D.魏忠賢 [1]李贄 [2]a抗租運動 bトウ茂七の乱 [3]鄭和 [4]張居正 [5]顧炎武

inserted by FC2 system