5.テーマ史

1.中国テーマ史

[1] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 古代インドで(1)バラモン教に対する革新として生まれた仏教は,中央アジアを経由して紀元前後に中国に伝来し,次第に中国人の間に受容されていった。仏教の中国化の様相は,仏教美術の変遷に端的に見ることができる。中国の仏教遺跡として有名な三大石窟は,ともに仏教美術の宝庫であるとともに,中国での仏教の受容過程をたどることのできる貴重な生きた資料でもある。
 三大石窟の中で最も早く4世紀に開かれたのが(2)敦煌石窟で,仏教東伝の中国側の人口にあたる。以後,約千年にわたって造営が続けられたが,その後忘れ去られていた。今世紀の初めにその石窟の一室から大量の文書が発見されて,一躍世界の注目を集めるようになった。
 [ a ]石窟は,5世紀後半,北魏の都[ b ]の近郊に開かれたものである。北魏では太武帝の時に(3)大規模な仏教弾圧がなされたが,本石窟はその直後における仏教復興事業の1つとして始められたものである。その仏像はガンダーラ・グプタ様式の影響がみられ,東アジアの仏教美術の源流といわれる。
 (4)北魏が洛陽に遷都した時に,その南郊に開かれた[ c ]石窟は,以後,(5)8世紀中頃まで造営が続けられ,様式上の中国化が顕著に進んでいる。

問(1) インドで仏教と同時期に成立したもう1つの革新宗教の教祖は誰か。
(2) この地はしばしば諸民族の争奪の的となった。11〜13世紀にこの地を支配した国家は何か。
(3) 仏教弾圧の背景には道教教団側の強い働きかけがあった。その中心人物は誰か。
(4) 洛陽遷都は孝文帝の実施した重要な政策の一環である。この政策を何と呼ぶか。
(5) この時期,洛陽は一時反乱軍の手に陥った。この反乱の指導者は誰か。

[2] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 中国では,仏教は後漢の明帝の時代に伝えられたと正史に記録されている。インドや西域の僧侶は,いわゆるシルクロードを通って陸上から,あるいは海上から訪れ,仏典やその新しい解釈,また仏像を初めとする様々な文物をもたらした。霊験力で知られた仏図澄や,仏典漢訳で名高い鳩摩羅什などもそうした人物である。前者は(1)五胡の羯族の建てた後趙に,後者は[ a ]族の建てた後秦に仕えて,中国仏教史に名を留めている。
 一方,中国人僧侶たちも,仏教浸透とともに,教義の研究を深めた。彼らのなかには初期の翻訳仏典にあきたらず,新たな経典を求めてインド・西域に赴く者も現われた。東晋の法顕は陸路によって,北インドに入り,中インド,セイロン島をへて,海路によって帰国した。彼は多くの経典を集めるかたわら仏教遺跡を巡り,10数年にわたる[ b ]をしてまとめあげた。(2)唐代には,[ c ]・義浄があい前後してインドに赴き,帰国後,持ち婦った経典を漢訳した。彼らも,法顕と同じように旅行記を著わしている。これらの旅行記は仏教国の歴史・遺跡・風俗を記し,貴重な資料として今日まで読み継がれている。
 「夷狄」の宗教として幾度も(3)廃仏の憂き目に会いながらも,仏教は上記のような人物の努力によって,魏晋・南北朝時代をへて徐々に中国社会に定着した。そして隋唐時代には天台・華厳・浄上・禅など,中国の土壌に根ざした新しい仏教が生まれた。この新仏教は[ d ]とともに,(4)宋学の形成に寄与したといわれている。

問(1) 五胡十六国を統一した皇帝は誰か。王朝名と共に記せ。
(2) 唐代にはいくつかの外国の宗教が伝播した。ゾロアスター教(拝火教)もその1つである。当時の中国ではこの宗教を何と呼んだか。
(3) 比叡山天台宗の円仁は,聖地巡礼のために中国へ渡り,廃仏を実見した。この時の廃仏を断行した皇帝は誰か,王朝名と共に記せ。
(4) 二程(程コウ・程頤)が師事し,宋学の粗とされる北宋の儒者は誰か。

[3] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 唐代中頃に施行された両税法は原則として税を銭納させるもので,貨幣経済の発展に対応するものであった。宋代になると貨幣経済は一層発展し,銅銭が大量に鋳造されるが,銅資源が不足して11世紀後半をピークに鋳造量は次第に減少した。一方,会子などと呼ばれる紙幣が補助通貨として用いられるようになった。元代には[ a ]と呼ばれる紙幣が法定通貨とされたが,元末には,財政難を救うために乱発されて猛烈なインフレーションに陥った。明代になると,日本や[ b ]から大量の銀が流入して通貨として盛んに用いられるようになり,税法も両税法に代わって[ c ]が施行されることとなった。

問(1) 唐代中頃に財政難を救うために専売制度が始められる。専売にされた物資を1つあげよ。
(2) 清代になるとさらに税法に改革が加えられた。その税法は何と呼ばれるか。

[4] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 明代のはじめ,農村では里甲制がしかれ,[ a ]と甲首とが輪番で徭役にあたっていた。ところが,徭役の負担が不均等になったことなどによって,多くの農民は土地を捨てて逃亡し,あるいは(1)地主の小作人となった。そして,土地は少数の地主に集中してゆき,里甲制は次第に崩壊へとむかった。このような事態のもとで,租税である(2)両税と徭役の割付けをより簡便にし,銀で納入させる改革が各地でおこなわれ,[ b ]世紀の後半には,一条鞭法が全国に普及した。また,租税を確保するために,(3)土地の再測量もおこなわれた
 一方,農民は租税の納入や家計の補填のために副業を必要とし,農村では家内工業が盛んとなった。なかでも長江下流域ではこの傾向が著しく,松江・上海一帯の農村では[ c ]が盛んに織られた。農家の婦人たちは,自分で織った品物を市とか[ d ]と呼ばれた町にはこび,他の品物や現金と交換した。

問(1) 当時,小作人のことを一般に何と呼んだか。
(2) 両税法をはじめて実施した政治家は誰か。
(3) 万暦帝のもとで,全国的な土地の再測量を実施した政治家は誰か。

[5] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 中国では明の中期以降産業が飛躍的に発展する。農業では桑・綿花・茶・たばこなどの商品作物の栽培が各地に広がり,手工業においても,農民の副業として,綿織物業などが盛んになった。産業の発展にともない,商品の流通が活発となって,全国的な販売網が形成され,塩の販売権を獲得した[ a ]と新安(キ州)商人は,国内の商業界を二分する勢力となった。やがて各地の都市で,同業者や同郷人が互いの結束をはかるために,[ b ]を建設することが広まった。
 この結果,貨幣経済が地方まで浸透し,銀に対する需要が高まったが,明・清両朝は,銀の多くを外国に依存していたので,外国との貿易も盛んになった。明は初め朝貢貿易のみを許し,それ以外の貿易は禁止していた。沿岸の住民の中には,密貿易を行なうものが少なくなかったので,16世紀後半には禁令を緩和して,かれらが東南アジアなどに渡航することを認めた。西欧諸国の中ではいち早く,ポルトガルが中国近海に現われ,[ c ]に居住権を認められ,住民との間に貿易を行なった。
 清は17世紀後半に住民の海外渡航と,外国船の来航を解禁したが,やがて西欧諸国に対しては,貿易港を広州一港だけに制限した。この時期には(1)オランダ・イギリスが,積極的に中国貿易を行なったが,最終的にはイギリスが他国を退けて,優位を確立した。他方清は陸路を通しても,外国との間に通商を行なっている。ロシアとの間には1689年に[ d ]を結んで国交を開き,北京で貿易を行なうことを許したが,後には国境に場所を移した。なお清の朝貢国であった。(2)朝鮮は,定期的に北京に使節を派遣したが,これらの使節は,本来の使命以外に,(3)中国の商人との間に貿易を行なって,絹織物・絹糸などを購入した

問(1) オランダが,アジア貿易の根拠地としたジャワ島の都市はどこか。
(2)朝鮮において官学とされた思想は何か。
(3)17・18世紀の朝鮮の使節は,貿易のために主に銀を持って行ったが,朝鮮が銀を輸入したのはどこの国からか。

UP


2.欧米テーマ史

[1] 次の文章(a〜c)を読み,下線部(1)〜(9)についての後の問に答えよ。[京都・改題]

a 4世紀後半からヨーロッパでは諸民族の移動が相次いだ。まず,中央アジアの遊牧騎馬民族フン族の西進に刺激されて,(1)ゲルマン民族がヨーロッパ西部から南部にかけて大規模な移動を開始した。ついで6・7世紀には,カルパチア山脈北部からドニエプル川上・中流域にかけて住んでいたスラヴ人が各地に移動し始め,やがて(2)南スラヴ族,東スラヴ族,西スラヴ族に分化した。9世紀頃からは,スカンディナヴィア半島を原住地とするノルマン人が南方に移動を開始した。その一部はバルト海東部から南下し,(3)ドニエプル川流域まで進出してスラヴ人と接触した

b キリスト教会は325年のニケーア公会議で三位一体説を正統とし,教義の統一を図った。しかし,(4)8世紀前半東ローマ皇帝レオン3世の布告を契機として,東方教会とローマ教会とのあいだに論争が生じた。その後,両者の対立は深まり,11世紀までに両教会は分離し,西方のローマ・カトリック教会に対し,東方にはギリシア正教会が成立した。この間,両教会はそれぞれ東欧地域への布教を進めた。その結果(5)東スラヴ族は東方教会を通じてキリスト教を受け入れたのに対し,(6)西スラヴ族はローマ・カトリック教会の影響下でキリスト教化した

c 19世紀のヨーロッパにおける民族主義の高揚は,スラヴ人のあいだにも民族意識の覚醒をもたらした。(7)18世紀末に独立を失ったポーランド人,ハプスブルク帝国支配下のチェコ人・スロヴァキア人,オスマン帝国下のバルカンの諸民族は,それぞれ民族自立を求める運動を組織し始めた。他方で,スラヴ人のあいだでの同胞意識も生まれ,(8)1848年にはプラハで初のスラヴ人会議が開かれた。このスラヴ人の連携の主張は,(9)19世紀後半にはロシア指導下でのスラヴ諸民族の統一を唱えるパン=スラヴ主義に発展するが,他方でポーランド人などにはロシアの専制的支配への反発も強く,全スラヴ人の連帯は現実には困難であった。

問(1) 紀元後1世紀に,この民族の初期の社会について記述したローマの歴史家は誰か。
(2) 次のなかで,南スラヴ族に属する人びとを選び,記号で答えよ。
 a.スロヴァキア人 b.マジャール人 c.ポーランド人 d.クロアティア人 e.リトアニア人
(3) (ア)ドニエプル川の流域に9世紀に建国された国の名を記せ。
(イ)(ア)の国は,13世紀にモンゴル軍により滅ぼされ,この地域はサライを首都とするモンゴル人の国家の支配下におかれた。この国の名を記せ。
(4) この布告とは何か。
(5) ギリシア正教を受け入れた東スラヴ族のロシア人の支配者は,のちにビザンツ皇帝の後継者としてツァーリという称号を用いるようになる。15世紀後半にモンゴル人の支配から自立して東北ロシアを統一し,最初にこの称号を用いた君主は誰か。
(6) このうち,ボヘミアでは14世紀末から15世紀初頭にかけてチェコ人の教会改革運動が起こる。この運動の指導者の名を記せ。
(7) 1793年に2回目のポーランド分割を行なった国を挙げよ。
(8) 同じ頃,ハンガリーでも民族運動が高揚した。この民族運動を指導し,1849年にオーストリアからのハンガリーの独立を宣言した政治家は誰か。
(9) この主張は,ロシアのバルカン進出を正当化するために私用された。1878年にオスマン帝国より独立し,ロシアを中心とするパン=スラヴ主義の先頭に立ってオーストリアとの対立を深め,第一次世界大戦勃発のきっかけをつくったスラヴ系の国の名を記せ。

[2] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ゲルマン民族の大移動ののち,東ヨーロッパの広大な地域に拡散・定住したスラヴ民族は,東スラヴ・西スラヴ・南スラヴの3つに大きくわけられる。このうち,ドニエプル川流域に住みついた東スラヴ,すなわちのちのロシア人は,9世紀末,ノルマン人の支配の下に[ 1 ]を建てた。この国は,10世紀末に出た[ 2 ]の時代にロシアの地をほぼ統一したが,11世紀後半以降内紛のため急速に衰えた。ついで13世紀に東方からモンゴル人が侵入し,南ロシアにキプチャク=ハン国を建てると,東スラヴはその支配に服した。しかし15世紀には,ヴォルガ川を利用する商業の発達を背景にモスクワ大公国が勢力を強め,1480年大公[ 3 ]はモンゴル人から独立して,自らツァーと称した。
 つぎに,西スラヴは,ヴィスワ川からエルベ川までの地域にひろがったが,そのうちのポーランド人は,10世紀に王国を形成した。ポーランド王国は,その後(a)モンゴル人の侵入や,(b)ドイツ人の東方植民などの外圧に苦しんだが,14世紀末リトアニア大公国と連合して,(c)リトアニア=ポーランド王国となり,15世紀から16世紀にかけて全盛期を迎えた。また,同じ西スラヴのチェック人が10世紀に建てた国家は,(d)神聖ローマ帝国に属して12世紀にボヘミア(べ一メン)王国となり,14世紀初頭からはドイツ人の王によって統治された。15世紀前半にボヘミアで起こった[ 4 ]は,ドイツ人に対するチェック人の民族的抵抗でもあった。
 最後に,ドナウ川流域とバルカン半島に進出した南スラヴは,東ローマ帝国の支配を受けたが,そのうちの[ 5 ]人は12世紀に独立を達成し,14世紀前半にはバルカン北部を統一する大勢力となった。また,アジア系のブルガール人も南スラヴに同化し,7世紀と12世紀の二度にわたり王国を建てた。しかし南スラヴ諸族は,14世紀末にバルカンに侵入してきた[ 6 ]によって征服され,以後長くその支配下にとどまることになった。

問(a) 1241年モンゴル軍がポーランド・ドイツの連合軍を撃破した有名な戦闘は何と呼ばれるか。
(b) この東方植民に加わり,バルト海沿岸に広大な所領を形成した団体は何か。
(c) この国家を統治した王朝名を記せ。
(d) 神聖ローマ帝国におけるボヘミア王の地位を定めている14世紀中葉の文書は何か。

[3] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 バルカン半島は,歴史上,さまざまな民族が流入し,定住した結果,言語や宗教の異なる多様な民族がモザイク状に混住する地域となった。初めてバルカン半島全体を支配下においた国家は,古代ローマである。(1)紀元395年にローマ帝国が東西に二分されると,バルカン半島の北西部を除く地域は東ローマ帝国の領土となった。4世紀から5世紀にかけてフン族やゲルマン諸部族が流入し,移動したあと,6世紀頃からスラヴ民族の一部(南スラヴ族)がバルカン半島に南下し,定住した。7世紀末にはトルコ系のブルガール人がドナウ川流域に王国(第一次ブルガリア王国)を建てたが,しだいに支配下のスラヴ民族に同化していった。(2)ブルガリアは9世紀にビザンツ帝国を通じてキリスト教を受けいれ,9世紀末から10世紀初頭にかけて最盛期を迎えた。その後,一時ビザンツ帝国に併合されたが,(3)12世紀末に再び独立を回復した(第二次ブルガリア王国)。一方,(4)フランク王国の影響が強く及んだバルカン半島の北西部では,南スラヴ系のスロヴェニア人と[ a ]人がローマ・カトリックを受けいれた。これに対して,同じ南スラヴ系のセルビア人は,ブルガリアやビザンツ帝国の影響のもとに東方正教に改宗した。セルビア王国は14世紀前半,ステファン・ドゥシャンのもとで最盛期を迎えた。こうして中世のバルカン半島では,住民のスラヴ化が進む一方,宗教的にほ東西両教会によってキリスト教化が行われた。このような状況に大きな変化をもたらしたのは,14世紀後半に始まるオスマン帝国のバルカン進出である。(5)1389年にセルビアをはじめとするバルカン諸国の連合軍に勝利したオスマン帝国は,1396年にニコポリスでハンガリー王を中心とするキリスト教諸国の連合軍をも撃破し,16世紀前半までにバルカン半島のほぼ全域を征服した。オスマン帝国の支配は,(6)19世紀以降,バルカンの諸民族があいついで独立することによって終焉を迎えるが,(7)数世紀にわたってイスラム国家の支配が続いたことは近代以降のバルカン社会に大きな影響を及ぼした

問(1) このときの東西ローマの分割線は,現在のセルビアとボスニア・ヘルツェゴビナの境界線とほぼ重なっている。セルビアは1878年にオスマン帝国から独立し,同じ年にボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの統治下に入った。オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナにたいする行政権を認めた国際会議の名を記せ。
(2) 9世紀に南スラヴ族にキリスト教を布教し,のちのロシア文字の母体となった文字を考案したのは誰か。
(3) 1205年,ブルガリアは,当時コンスタンティノープルを支配していた国家と戦った。このときブルガリアが対戦した国の名を記せ。
(4) フランク王国は,8世紀末にアヴァール人を撃退し,今日のハンガリーの西部まで勢力を拡大した。このときのフランク国王は誰か。
(5) (ア)この戦いが行われた地名を記せ。(イ)(ア)の地域で,現在,住民の多数を占めるのは何人か。
(6) バルカン半島で,他の諸民族にさきがけて,19世紀前半にオスマン帝国からの独立を達成した国の名を記せ。
(7) (ア)オスマン帝国は,バルカン地方でキリスト教徒の少年を徴用して歩兵常備軍を編成した。この軍団は何と呼ばれるか。(イ)1992年に終焉を迎えた旧ユーゴスラヴィア連邦のなかでイスラム教徒の入口比が約4割を占めた地域はどこか。下記の(あ)〜(え)から選んで,記号で答えよ。
(あ)スロヴェニア (い)ヴォイヴォディナ (う)ボスニア・ヘルツェゴビナ (え)モンテネグロ

[4] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れよ。[京都・改題]

 中世以来のポーランド王国がプロシア,オーストリアそしてロシアの3国によって3次にわたって分割され,消滅したのは1795年であった。ウィーン会議は,ナポレオンが作った[ 1 ]を解消し,[ 2 ]がポーランド王国の国王をかねると定めて,3国によるポーランド人支配を復活した。
 ウィーン会議以後,ポーランド人による最初の大きな独立運動が起こったのは,[ 3 ]年であった。独立運動は,この年のフランスにおける[ 4 ]の成功に刺激されて発生し翌年まで続いたが,ロシアは大軍を派遣してこれを押しつぶした。1863年にも革命暴動が起こったが,やはり失敗に終わった。これに先立ちロシアはトルコヘの進出を目指した[ 5 ]の敗北から,[ 6 ]など,封建制度の改革に着手していたが,1863年のポーランド人の革命暴動に対しては厳しい弾圧の態度を示し,暴動鎮圧後はポーランドにおいてロシア化政策を進めた。
 1世紀以上にわたって祖国を失ったポーランド人が独立を回復したのは20世紀に入ってからであった。2つの世界大戦がポーランド人の運命に大きな影響を与えた。ヴェルサイユ条約は,第一次世界大戦を機に独立を得たポーランドとドイツとの国境を定めた。その折にポーランド領とされたいわゆる[ 7 ]は,ダンチヒ自由市の設置と共にドイツに強い不満を残した。また[ 8 ]の終結後に確定したソビエトとの国境も,複雑な民族問題を抱えていた。結局1939年,ポーランドは第二次世界大戦の開始と共にドイツおよびソビエト軍の侵攻を受けて,再び消滅した。
 第二次世界大戦後半に始まったポーランドの再建,新政府の組織は,ソビエト軍によるポーランド解放を背景に進められた。ドイツ敗北の直前,[ 9 ]において米英ソ首脳は大戦後のポーランド政府のあり方および国境問題を討議し,一応の合意に達したが,1947年初めにポーランドで実施された総選挙は,アメリカの不満を強めた。翌年アメリカが53億ドルの当初予算をもって開始した[ 10 ]に対抗して,ポーランドとソビエトとの間には通商協定が結ばれ,以後ポーランドは,経済的にも明瞭にソビエト圏に組み込まれていった。

[5] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 長年スペインとポルトガルの植民地支配のもとにあったラテン=アメリカでは,18世紀末から独立の気運が高まり,やがて各地に新しい国家が誕生した。フランス領であったハイチでは[ a ]に指導された黒人の独立運動が成功したが,スペイン領であったところでは,植民地生まれのスペイン人である[ b ]が運動の中心となった。アルゼンチンやチリで活躍したサン=マルチン,ベネズエラやコロンビアで活躍した[ c ]らはみなそうである。
 しかし独立は,ただちに民主的な社会の成長,あるいは自立した経済の発展をもたらすものではなかった。まず,国内では[ b ]の地主階級が政治や経済の実権を握り,独立以前と同じ大土地所有制が続いていたため,多数の貧しい農民の状況はほとんど変わらなかった。他方,海外からは,独立の動きを支援した二つの有力な国が,その大きな影響力を各国に及ぼすことになる。そのひとつイギリスでは,外相そして後に首相を務めたカニングが,自由主義的外交を展開して(1)諸国の独立を支援した。また,いわゆる北の巨人,アメリカ合衆国は,モンロー宣言でヨーロッパ諸国の西半球への干渉を拒否する一方,西半球に勢力を拡大していく姿勢を明確にしはじめたのである。やがてアメリカはメキシコ領であったテキサスを併合し,アメリカ=メキシコ戦争でさらに(2)広大な領土を割譲させた
 アメリカの膨張で国土が半分以下になったメキシコでは,社会が混乱した。その後,自由主義勢力が力を伸ばして内戦状態を収拾したものの,やがてここに経済権益をもつ(3)ヨーロッパ諸国が介入し,その一国は皇帝さえも擁立した。メキシコ人は介入に抵抗し,まもなくこの(4)ヨーロッパの勢力は撤退したが,こんどは抵抗のなかで重要な役割を演じたディアス将軍がクーデタで政権を握った。独裁者となったディアスの下では,鉱山業と鉄道を中心にアメリカやイギリスの資本が投下され,経済開発が進められた。
 一方,スペインの植民地支配が続いたキューバでは,1860年代に独立を求める反乱が生じ,いったんは鎮圧されたものの90年代にふたたび大きな反乱が起こった。キューバのプランテーションに投資し,また1889年に[ d ]を主催してラテン=アメリカ地域への経済進出を意図していたアメリカ合衆国は,この反乱を機にキューバに介入し,1898年のアメリカ−スペイン戦争をへて結局はキューバを事実上の保護国とした。さらにアメリカは,セオドア=ローズヴェルト大統領の下でモンロー主義を拡大解釈し,西半球諸国へのみずからの干渉を正当化する新しい方針を発表して,カリブ海一帯に進出し始めた。二つの大洋を結ぶためにコロンビアの一州を独立させ,[ e ]の建設に着手したことはその一環である。
 独裁の続いていたメキシコでは,1910年になって(5)革命が起こった。激しい政治変動の過程ではアメリカの干渉も受けたが,1917年には新しい憲法が制定された。これは土地が本来は国家に属すると定めて土地改革に根拠を与えるなど,民主主義的な色合いを強くもつものであった。このような変化は,その後,徐々にラテン=アメリカ諸国に広がっていくことになる。2001

問(1) イギリスがラテン=アメリカ諸国の独立を支援した背景を簡潔に記せ。
(2) このときアメリカが割譲させた地方名を記せ。
(3) 介入したヨーロッパの国の名を二つ記せ。
(4) 介入を打ち切らせることになったヨーロッパ内部の事情について簡潔に記せ。
(5) このなかで,土地改革を主張して農民反乱を指導した人物の名を記せ。

[6] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 メキシコは1521年にスペイン人の[ 1 ]に征服されその後,長い間スペインの支配に苦しめられた(a)1810年代からラテン・アメリカにおいて植民地からの解放独立運動の気運が高まった。そのなかでも,現在のコロンビアやベネズエラなどにおける独立運動の指導者[ 2 ]は有名である。メキシコでも,イダルゴの率いる独立運動が始まり,彼は敗れたが,運動は続き,その後独立は成功し,1824年に共和国となったり同じ頃,アルゼンチン,チリ,ペルーなどもスペインから独立し,またブラジルもポルトガルの支配を脱した。これらの独立に対し,[ 3 ]は干渉したが,彼の干渉はアメリカ合衆国大統領[ 4 ]の反対にあった。
 1840年代には,メキシコはテキサス地方の離反やアメリカ合衆国との戦争によって,その国土の大きな部分石を失った。その後54年から行われた自由主義改革運動が成功し,その指導者[ 5 ]が正式にメキシコ大統領に就任した。しかし,自由主義改革者たちとそれに反対する勢力との間に争いが生じ,メキシコ内乱となった。この内乱に乗じ,またメキシコ政府による外債利子支払停止の宣言に抗議して,(b)1861〜67年に外国の干渉軍がメキシコヘ侵入したが,干渉はくじかれた。その後,メキシコでは1870年代後半にディアスの独裁政権が成立し,この政権は大土地所有制を強化し,外国資本を尊大した。20世紀に入って,(c)この独裁政治に対し「土地と自由」をスローガンとした農民運動が激しく抵抗し,さらに1910年代初頭から自由主義者[ 6 ]がメキシコ革命を指導し,独裁政権を倒して大統領となり,1917年に民主的な憲法が制定された。

問(a) 植民地からの解放独立運動に刺激を与えた事件を2つあげよ。
(b) メキシコ干渉を強行した中心的人物は誰か。
(c) 独裁政治に抵抗した農民運動の指導者は誰か。

UP

3.その他

[1] 次の文章をよく読み,設問に答えよ。[高崎経済・改題]

 アジア世界,イスラム世界,ヨーロッパ世界は同じユーラシア大陸にありながらも,山脈,高原,砂漠などの自然の障壁に阻まれた結果,それぞれ独自の歴史を歩み,異なる文化圏を形成してきた。しかし,大航海時代以前にそれぞれの世界の間に交流が全くなかったわけではない。古くから「( 1 )の道」,「( 2 )の道」,「海の道」として知られるルートを通じて異なる文化圏同士の交流がみられた。「( 1 )の道」は,モンゴル高原,天山山麓,キルギス平原,南ロシアを結ぶ東西交通路である。スキタイ,匈奴などの遊牧騎馬民族が交流の媒介者となった。「( 2 )の道」は,中国西北部,トルキスタン,イラン高原北部,メソポタミア,地中海岸を結ぶ交通路であり,点在する( 2 )が中継地をなした。東西を結ぶ最短コースであったため,唐代まで(A)主要交通路であった。この道は「( 3 )の道」とも呼ばれた。「海の道」は,中国南部,インドシナ半島沿岸,インド洋沿岸,アラビア海,紅海を結ぶ海上交通路であった。唐代以後,活発に使われるようになった。以上の交通路により,アジア世界,イスラム世界,ヨーロッパ世界は交流を深め,工芸品や宗教など様々なものが行き来したのである。
 以上の交通路を通じた交流はよく知られているが,さらに東西文化の交流が進んだ事例として,アジア世界,イスラム世界,ヨーロッパ世界にまたがる大帝国の建設も重要である。特に,マケドニアとモンゴルの事例は興味深い。まず,マケドニアはギリシア北方の王国であったが,紀元前4世紀のフィリッポス2世(在位前359〜前336年)のときにギリシア世界の征服をめざし,( 4 )の戦い(前338年)で弱体化したギリシア諸都市を破り,スパルタを除く全ギリシア都市を集めて( 5 )を結成した。フィリッポス2世の子(B)アレクサンドロス(在位前336〜前323年)は,前333年のイッソスの戦いで( 6 )朝ペルシアのダレイオス3世を破り,シリア,エジプトを占領した。さらに,前331年のアルベラの戦いののちスサ,ペルセポリスを占領して,( 6 )朝ペルシアを滅ぼした。その後,彼はさらに東に進み,インド西北部のインダス川流域にまで達した。こうしてギリシアからエジプト,西アジアまで支配する大帝国が生まれたのである。アレクサンドロスは征服した各地に自らの名前をとった都市,( 7 )を約70ほど建設した。しかし,彼は遠征の帰途,バビロンで病死し,この帝国は崩壊した。その後,部下の武将たちが後継者と自称して対立したため,帝国はプトレマイオス朝エジプトなど大きく(C)3つの国に分裂した。
 このアレクサンドロスの遠征で多数のギリシア人が東方の各地域に移住し,ギリシア文化を伝えた。たとえば,ギリシア美術はガンダーラを経てインド,中国,日本にまで伝えられた。また,アレクサンドロスの死後に生まれた国々では,ギリシア系の人々が支配層を形成し,共通の文化を成立させた。それは( 8 )風の文化という意味で(D)ヘレニズム文化と呼ばれるが,(E)各地の伝統文化との融合もみられた。こうした時代は,前30年に(F)プトレマイオス朝エジプトがローマによって滅ぼされるまで続いた。
 次に,モンゴル人はアレクサンドロスの帝国以上の大帝国をユーラシア大陸に建設した。(G)チンギス汗(在位1206〜1227年)率いるモンゴルは13世紀初めから侵略を繰り返してモンゴル帝国を拡大していった。チンギス汗の死後,チンギス汗の第3子オゴタイ(在位1229〜1241年)はヨーロッパにまで軍を派遣し,1241年にはポーランドの( 9 )の戦いでドイツ諸侯連合軍を撃破し,ハンガリーにまで侵入した。こうして13世紀中頃にはモンゴル帝国は東は中国,西は西南アジア,ロシアにいたる大帝国になった。しかし,モンゴル帝国は民族的にも宗教的にも多様な地域を支配したため,統一的な帝国を維持することは困難であった。チンギス汗は領土を諸子に分封して汗国をつくり,自らはモンゴル本土を直轄地とし,諸汗国の宗主権を握った。その後,こうしてできた(H)4汗国は独立の傾向を強め,帝国の分裂は決定的になった。1260年に汗位についたフビライ(在位1260〜1294年)は,帝国の都をカラコルムから大都に移し,国号を中国風の元に改めた。元は厳しい身分制をとり,モンゴル人第一主義をとった。高官はモンゴル人で占められ,ついで彼らを補佐する(I)色目人が重用され,支配者階級を構成した。元は,1274年と1281年の2回にわたり日本を攻撃したが,失敗した。また,元は( 10 )に3度も遠征したが,同国のチャン・フンダオの指揮する軍隊に撃退され,この地域にも勢力を伸ばすことはできなかった。
 モンゴル帝国は,当初から東西の交通路を整備して( 11 )の制を設け,治安も確保した。そのため,ヨーロッパ人,イスラム人が相次いで中国を訪問した。ローマ教皇インノケンティウス4世の使節( 12 ),フランス王ルイ9世の使節( 13 )は,カラコルムを訪れた。フランチェスコ派修道士の( 14 )は大都に礼拝堂を建てカトリックの布教活動を行ったが,そこで病没した。また,ヴェネツィア生まれの商人( 15 )は元を訪問し,帰国後,見聞談( 16 )を残した。モロッコ出身のイスラム教徒,イブン・バットゥータも元を訪問した。こうした交流により,イスラム世界から医学,数学,(J)暦学などが元に伝わったのである。逆に,中国の様々な発明品,工芸品はイスラム世界に影響を与え,間接的にヨーロッパ世界へも伝わったのである。
こうして発展してきた東西文化の交流は,大航海時代を迎えてさらに拡大し,世界の一体化が進むことになった。

問1 空欄の1〜16に入る語句を解答欄に記入せよ。ただし同じ番号には同じものが入る。
問2 下線部(A)の交通路について。天山南路の要地で,1901年にスウェーデンの地理学者ヘディンが遺跡を発見した地名を記入せよ。
問3 下線部(B)のアレクサンドロスは少年期にギリシアの有名な哲学者を家庭教師にしていたが,その哲学者の名前を記入せよ。
問4 下線部(C)の国のうち,残りの2つの国の名前を王朝名をつけて記入せよ。
問5 下線部(D)の言葉を造語したドイツ人歴史家は誰か。その名前を記入せよ。
問6 下線部(E)について。ヘレニズム文化の影響下にあった各地域では,アッティカ方言を根幹に各地の方言がまざってできた共通語が使われたが,その共通語の名前を記入せよ。
問7 下線部(F)のプトレマイオス朝エジプトは通商,文化の中心として発展し,その首都におかれた研究所ムセイオンでは自然科学が発達した。以下の業績をあげた3人の学者の名前をそれぞれ記入せよ。
(ア) ギリシア人の幾何学者で,平面幾何学を大成した。
(イ) ギリシア人の天文学者で,地球の公転と自転,太陽中心説を主張した。
(ウ) ムセイオンの館長を務めた天文学者で,地球の子午線(全周)を測定した。
問8 下線部(G)のチンギス汗は部族会議のクリルタイにより授けられた称号であるが,彼の幼名を記入せよ。
問9 下線部(H)について。以下の各地域を支配した4汗国の名前をそれぞれ記入せよ。
(ア)南ロシア (イ)西南アジア (ウ)中央アジア (エ)西北モンゴル高原
問10 下線部(I)の色目人とはどこの人々か。以下の選択肢の中から1つ選び,その記号を解答欄に記入せよ。
(ア)漢人 (イ)ヨーロッパ人 (ウ)西域人 (エ)南人 (オ)高麗人
問11 下線部(J)について。イスラムの影響を受けて郭守敬がつくった暦の名前を解答欄に記入せよ。

[2] 世界史上に登場する宗教・宗派に関して述べた以下の文をよく読み,各設問に答えよ。[高崎経済・改題]

(a) 諸宗教を融合し3世紀前半ササン朝ペルシアに成立した救済宗教。ササン朝においては迫害されたが,国外に流布した。ローマ帝国,インドなどに伝えられたほか,(1)ウイグル人にも信奉され,唐代の中国でも広まった。

(b) 善悪二元論に基づくイランの伝統宗教。紀元前7世紀頃おこった宗教で「拝火教」とも呼ばれる。ササン朝では国教とされた。やがて国外にも広まり,(2)唐代の中国でも信者を拡大していった。

(c) キリスト教の一派で,父なる神,子なるイエス,聖霊の三者を等質・不可分とする三位一体説をとる。(3)4世紀末ローマ帝国の国教となった

(d) イエスの神性と人性は分離しているとするキリスト教の一派。(4)431年に異端とされ追放されたが,ペルシア,中国などにも広まっていった。

(e) シヴァ神,ヴィシュヌ神,ブラフマー神を三大神とするインドの宗教。各地の民間信仰の要素も取り入れられ,(5)グプタ朝期に広まる。生活習慣,カースト制に密着しながら発達していった。

(f) 16世紀初め,ナーナクが創始した。一神教的教義を持ち,偶像崇拝・苦行を禁止した。カースト制度も否定した。この宗教はインド・パンジャーブ地方を中心に広まり,(6)教団組織を拡大していった。

(g) 出家した僧侶が戒律を遵守し修行して,個人の解脱をめざす仏教の一派。経典はパーリ語で書かれている。保守化・形式化したため,批判派の勃興を招いたが,この宗教は(7)東南アジア諸地域に広まっていった

(h) 7世紀に始まったイスラム教の多数派。六信五行が教義の中心をなす。第4代カリフであるアリーとその子孫がムハンマドの正統な後継者であるとする少数派に対し,正統カリフと(8)ウマイヤ朝以降の歴代カリフを正統と認めた。

(i) ヴェーダを根本的な聖典とするインド古来の宗教。司祭者が祭式,教義を独占し,カースト制の維持に努めた。この宗教の祭式主義への自戒から(9)思弁を重視し解脱を説く新たな考え方も生まれてきた。

(j) (10)紀元前6世紀ごろ,おこった宗教。ヴェーダや司祭者の権威カースト制を否定し,厳しい戒律と苦行を重視する。輪廻転生を説き,主に商人の間で広まった。

問1.上の(a)〜(j)はそれぞれどの宗教・宗派について説明したものか。あてはまるものを下記の語群から選び,その記号を記入せよ。
〔語群〕
(ア)アルビジョワ派 (イ)ヒンドゥー教 (ウ)アリウス派 (エ)シク教 (オ)スンナ派 (カ)アタナシウス派 (キ)ユダヤ教 (ク)マニ教 (ケ)ゾロアスター教 (コ)上座部仏教 (サ)ネストリウス派 (シ)道教 (ス)シーア派 (セ)ラマ教 (ソ)バラモン教 (タ)ジャイナ教 (チ)大乗仏教

問2.下線部(1)〜(10)に関する以下の問いに答えよ。
(1) 下線部(1)について。ウイグル人は,8世紀半ば頃,反乱に苦しむ唐を支援したが,節度使の起こした,この反乱は何と呼ばれるか。その名称を答えよ。
(2) 下線部(2)について。この宗教は中国では何と呼ばれたか。その名称を答えよ。
(3) 下線部(3)について。この宗教を国教としたローマ皇帝の人名を答えよ。
(4) 下線部(4)について。この宗派を異端とした会議は何というか。その名称を答えよ。
(5) 下線部(5)について。グプタ朝は,5世紀頃パミール以西におこった遊牧民族の侵入を受け弱体化し,6世紀半ば頃,滅亡した。グプタ朝を苦しめたこの遊牧民は何というか。その名称を答えよ。
(6) 下線部(6)について。この宗教への圧迫を強めたムガル朝第6代皇帝は誰か。その人名を答えよ。
(7) 下線部(7)について。この宗派は,11世紀に成立したビルマ最初の統一王朝においても信仰を広めていった。この統一王朝の名称を答えよ。
(8) 下線部(8)について。ウマイヤ朝は,732年トゥール=ポワティエ間の戦いにおいてフランク王国軍に大敗した。このフランク軍を指揮していたのは誰か。その人名を答えよ。
(9) 下線部(9)について。これは通常何と呼ばれるか。その名称を答えよ。
(10) 下線部(10)について,この宗教の創設者は誰か。その人名を答えよ。

[3] 文字の変遷について記した次の文章を読み,下線部(1)〜(10)についてそれぞれの問いに答えよ。[北海道・改題]

 紀元前3000年ころ,エジプトではエジプト人が(1)神聖文字(ヒエログリフ)と呼ばれる象形文字を作り,メソポタミアではシュメール人が(2)楔形文字を作った。紀元前1500〜1200年ころ,メソポタミア西方のセム系諸民族が地中海東部沿岸地域に移動した。彼らのうち(3)フェニキア人は地中海の海上貿易に進出し,(4)アラム人は東方の内陸貿易に活躍した。
 フェニキア人が神聖文字もしくは楔形文字をもとにして作ったフェニキア文字は世界の文化史上に大きな影響を与えた。フェニキア文字はギリシア人に伝えられてギリシア文字が作られ,次いでギリシア文字からローマ人がラテン文字(ローマ字)を作り,それはヨーロッパの最も主要な文字となった。
 アラム人はフェニキア文字を改良してアラム文字を作った。アラム文字はアラム人の商業活動とともに東方に広く伝播した。アラム文字は(5)ペルシアを経て中央アジアに伝わり,これをもとに(6)ソグド人はソグド文字を作った。ソグド文字はソグド人の商業活動とともに東方に広まり,その結果,ソグド文字から(7)突厥は突厥文字を作り,また(8)ウイグルはウイグル文字を作った。契丹はウイグル文字と中国の漢字をもとに契丹文字を作った,
 チンギス=ハンが創設したモンゴル帝国ではウイグル文字が使われていたが,元朝ではチベット文字をもとにパスパ文字が作られた。しかしそれは広く用いられず,ウイグル文字を改良したモンゴル(蒙古)文字も作られ,使用された。チベット系の(9)タングート族やツングース系の(10)女真族は中国の漢字をもとに彼らの文字を作ったが,女真族の後裔である満州族はモンゴル(蒙古)文字から満州文字を作った。

問1.神聖文字はプトレマイオス朝でも使われ,いわゆるロゼッタ=ストーンに刻まれている。この神聖文字を解読したのは誰か。その人名を記せ。
問2.楔形文字はアケメネス朝ペルシア帝国でも使われ,ベヒストゥーン碑文に刻まれている。この楔形文字を解読したのは誰か,その人名を記せ。
問3.フェニキア人は地中海沿岸に多くの植民市を建設した。そのうち最も有名な植民市はどこか。その都市名を記せ。
問4.アラム人の活動の中心都市はどこか。その都市名を記せ。
問5.ペルシアに建国されたパルティアとササン朝の首都はチグリス川の東岸にあった。その首都名を記せ。
問6.ソグド人の活動の中心都市はどこか。その都市名を記せ。
問7.突厥はササン朝と結んで中央アジアの遊牧民を滅ぼし,ササン朝と国境を接した。この中央アジアの遊牧民とは何か。その名称を記せ。
問8.ウイグル人はペルシア起源の宗教を信仰していた。その宗教名を記せ。
問9.タングート族が作った文字は何と呼ばれているか。その名称を記せ。
問10.女真族が建国した金は中国の宋を滅ぼしたが,宋は江南に都をうつして再建された。この両国の国境として定められた川は何か。その川の名称を記せ。

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