2.欧米テーマ史

1.政治・制度

[1] 次の選挙に関する各短文を読み,あとの設問に答えよ。[神戸学院・改題]

(1) 古代ギリシアのアテネでは(ア)平民が徐々に参政権を得て,直接民主政が行われるようになり,民会で公職者を直接選挙で,あるいは抽選で選出していた。しかし同じ古代のローマでは,個々の市民が直接このような選出行為に参加するのではなく,それぞれが属する部族で(イ)市民がその代表を選び,その代表が平民会で部族ごとに投票して決議していた。

問1 下線部(ア)の民主政の発展段階が時代順に並んでいるものを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.ソロンの改革→クレイステネスの改革→ドラコンの成文法→ペリクレス時代
B.ソロンの改革→ドラコンの成文法→クレイステネスの改革→ペリクレス時代
C.ドラコンの成文法→クレイステネスの改革→ソロンの改革→ペリクレス時代
D.ドラコンの成文法→ソロンの改革→クレイステネスの改革→ペリクレス時代

問2 下線部(イ)の市民はローマ市民権をもった市民のことであるが,ローマの支配領域内の全自由民にローマ市民権が与えられた時を,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.リキニウス・セクスティウス法施行時
B.ホルテンシウス法施行時
C.第1回三頭政治の時
D.カラカラ帝治下

(2) 中世ヨーロッパのフランス王国は,イギリス王ジョンと戦い,大陸内のイギリス領を奪回した[ 1 ]の時代まで,国王は主要諸侯の推挙によって選ばれるといういわば選挙王政であったが,その後,長子相続制となった。これと同じように神聖ローマ帝国では大空位時代後に,(ア)金印勅書で皇帝は選帝侯によって選出されるようになるが,15世紀からハプスブルク家が皇帝位をほぼ世襲するようになった。

問3 [ 1 ]に該当する人物を,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.シャルル7世   B.フィリップ2世
C.フィリップ4世  D.ルイ9世

問4 下線部(ア)について,誤っているものを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.この勅書はカール4世が帝国議会で発布した。
B.選帝侯は7人で,すべて世俗の大領邦君主であった。
C.ハプスブルク家は,この選帝侯ではなかった。
D.この勅書は皇帝と教皇に対する領邦君主の優位を法的に確立した。

(3) ヨーロッパ中世の諸封建国家でみられた(ア)身分制議会は,国王が各身分の代表者を召集する主として徴税に関する諮問機関であった。特に平民については自由都市の裕福な市民が選ばれていた。その後,国王の権力が強化される絶対主義の時代には,国王の協賛的機関であった身分制議会は国王にとって無意味となり,この議会は召集されなくなっていった。しかしイギリスの身分制議会は,(イ)シモン=ド=モンフォールの諮問議会,模範議会,上院,下院へと継承され,近代議会へと発展していった。

問5 下線部(ア)のフランスの全国三部会について誤っているものを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.教会への課税を巡ってフィリップ4世が初めて14世紀初めに三部会を召集した。
B.ルイ13世が三部会の召集を停止して以来,1789年までフランスでは三部会は召集されなかった。
C.1789年に召集された三部会も,以前の三部会と同様に陳情書を国王に提出した。
D.1789年に召集された三部会は絶対王政下で開催された三部会と同じ構成,同じ票決方法であった。

問6 下線部(イ)について,誤っているものを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.国王ジョンの専制に対してシモン=ド=モンフォールは反乱を起こし,身分別の諮問会議を国王に承認させた。
B.エドワード1世が,貴族・聖職者の他に騎士や市民の代表を召集した議会が模範議会である。
C.14世紀後半に身分制議会から貴族・聖職者が分離して上院を形成し,2院制が確立した。
D.15世紀初めに財政協賛先議権を得た下院は,その後すべての立法についても上院と同等となった。

(4) 市民革命の時代には各国では国民議会が形成されて近代的議会政治が展開されるが,その代表者の選出については財産や納税額を基準とした制限選挙制が多くみられた。しかしフランス革命では男子普通選挙による[ 1 ]の代表の選出も行われた。他方,いち早く市民革命を達成したイギリスでは,有権者は全人口の3パーセント程度であったとはいえ,議会の多数党が内閣を組織し,その党首が首相となる(ア)責任内閣制が18世紀前半に確立した。

問7 [ 1 ]に該当する議会名を,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.憲法制定国民議会  B.立法議会
C.国民公会      D.五百人議会

問8 下線部(ア)の成立時の正しい組み合わせを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.国王:アン女王 多数党:トーリー 首相:大ピット
B.国王:ジョージ1世 多数党:ホイッグ 首相:大ピット
C.国王:ジョージ1世 多数党:ホイッグ 首相:ウォルポール
D.国王:ジョージ2世 多数党:トーリー 首相:ウォルポール

(5) 近代市民社会が確立された19世紀ヨーロッパでは財産制限選挙に対する批判が強まった。イギリスでは19世紀には(ア)3回の選挙法改正が行われ有権者数が増加していった。またフランスでは選挙法改正運動を契機として二月革命が生じ,その結果成立した第2共和政では男子普通選挙が実施された。この二月革命が波及してドイツで三月革命が生じたが,この時,ドイツの各邦で(イ)フランクフルト国民議会の議員を選出する際,男子普通選挙が実施された。

問9 下線部(ア)について,誤っているものを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.チャーティスト運動は,普通選挙制を目的とした都市労働者を主体とする運動で,第1回選挙法改正に影響を与えた。
B.第1回選挙法改正はホイッグ党のグレー内閣の時に実施され,その結果,腐敗選挙区が廃止され,産業資本家が新有権者となった。
C.第2回選挙法改正は自由党が推進したが,保守党内閣の時に実施され,都市の熟練労働者が選挙権を得た。
D.第3回選挙法改正は自由党のグラッドストーン内閣が実施し,農村の上層労働者が選挙権を得た。

問10 下線部(イ)について,誤っているものを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.この議会の代議員は官吏,学者,ブルジョワジーが主であったが,意見の分裂が顕著であった。
B.この議会では大ドイツ主義の原則に基づく憲法が作成されたが,実施されなかった。
C.この議会はプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世に帝位を提供したが,拒否された。
D.この議会は,開催の約1年後に武力弾圧で解散させられた。

(6) 19世紀に各国で実施されつつあった男子普通選挙制は,20世紀になると男女平等の普通選挙制度へと発展していった。イギリスでは(ア)1918年の第4回と1928年の第5回の2度の選挙法改正によって男女平等の普通選挙制が達成された。(イ)他のヨーロッパ諸国も同様に男女平等普通選挙制が実施されたが,19世紀にいち早く男子普通選挙制が実施されたフランスでは1945年になってようやく婦人参政権が認められた。

問11 下線部(ア)について,誤っているものを,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.第4回選挙法改正ですべての成人男子に投票権が与えられた。
B.第4回選挙法改正で婦人参政権も認められたが,男女の選挙資格には年令差が設けられた。
C.第5回選挙法改正では,1人が2票以上投票できる複数投票制は廃止されなかった。
D.第5回選挙法改正によって有権者が増大し,その結果,イギリスで初めて労働党内閣が成立した。

問12 下線部(イ)について,ドイツでこの選挙制度が法的に確立した時を,次のA〜Dのうちから1つ選べ。
A.全権委任法発布時
B.ドイツ帝国憲法発布時
C.ドイツ民主共和国憲法とボン基本法発布時
D.ワイマール共和国憲法発布時

[2] つぎの文の空欄[ 1 ]〜[ 15 ]を埋めて,文を完成させよ。ただし,用いる語は下記の語群から選ぶものとし,解答すること。[法政・改題]

 紀元前27年,元老院は[ 1 ]に「アウグストゥス」(尊厳なる者)という称号を授与した。この時からローマにおいてはすべての権限が一人の人物の手に集中するようになり,これがローマ帝政の始まりとなった。彼自身は「プリンケプス」(第一人者)という呼称を好み,また有力者たちから構成される元老院と共同で統治するという姿勢を崩さなかった。だが彼の後継者たちは次第に元老院の制約を離れて行動するようになる。ローマの第一人者は広い世界を一人で統治する強力な支配者であった。
 3世紀の末,[ 2 ]の治世には効率的に広域支配をおこなうために,2人の正帝と2人の副帝がローマの全領土を4分割して支配するようになり,2人の正帝が退位するときに2人の副帝が新しい正帝になるというしくみがとられた。さらに,4世紀末の[ 3 ]がローマを東西に分けて2人の子にそれぞれの統治を委ねて以降,東ローマと西ローマは異なる運命を歩み始める。西ローマ帝国は北方から南下するゲルマン人の圧力に抗することができず,476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルが皇帝を廃し,ここに西ローマ帝国は消え去った。これに先立って皇帝は4世紀の前半から新たな役割を担うことになる。従来,皇帝はローマにおいては最高の神官として帝国の宗教生活の第一人者であったが,[ 4 ]がキリスト教信仰を自由化して以来,ローマ皇帝はキリスト教の世界の最高の守護者の役割を務めることになった。
 西暦800年のクリスマスの日,ローマ教皇レオ3世はフランクの王[ 5 ]にローマ皇帝の冠を与えた。ローマ帝国の西半部を統治する皇帝が復活したのであった。教皇は神の名をもって皇帝に権威を与え,皇帝は教皇の指導する教会全体の保護者をもって任じるという西ヨーロッパの新しい伝統が成立することになった。けれども西ローマ皇帝が西ヨーロッパ全体に君臨する時代は長くは続かなかった。偉大な皇帝の死後30年を経ないうちに,その帝国は3人の孫によって分割相続された。[ 6 ]はイタリアと皇帝の地位を,[ 7 ]はドイツ人の住む東フランクを,[ 8 ]は後にフランスとなる西フランクを獲得した。だが,イタリアでは9世紀末に,ドイツでは10世紀初めに,最後まで存続したフランスでもその家系は10世紀の末までに途絶えた。
 10世紀の西ヨーロッパは地域ごとに勢力をもつ諸侯が分立する状況にあり,また東方からアジア系のマジャール人の侵入を受けて混乱していたが,侵入者を撃退し,またドイツ人の世界に秩序を打ち立てたのがザクセン公のハインリヒであった。彼はかつての東フランクの領域の王となり,さらにその子[ 9 ]はイタリアにも進出して教皇を援護した。彼は教皇から962年にローマ皇帝として戴冠され,またも西ヨーロッパに帝国が復活した。この帝国は神聖ローマ帝国と呼ばれることになる。けれども,この帝国の領域はかつての東フランクとイタリアに限られ,しかも各地には大諸侯たちが割拠していた。とはいえ皇帝は神の代理人である教皇によって戴冠された世俗の最高権力者であった。
 東ローマ帝国は続いており,伝統からすればここの皇帝こそがキリスト教世界全体の保護者であった。だが,1054年ローマ教皇と東ローマの首都コンスタンティノープルの総主教の関係が断絶した結果,コンスタンティノープル総主教を指導者とする東方教会とローマ教皇を指導者とするローマ=カトリック教会とがヨーロッパ世界を二分するようになり,それぞれの保護者として二人の皇帝が君臨することになった。東ローマ帝国は次第にイスラム教徒の圧力を受けるようになる。コンスタンティノープルは1453年にオスマン軍の攻略によって陥落し,東ローマ帝国は消滅する。東方教会の守護者の地位はロシア人によって受け継がれる。モスクワ大公の[ 10 ]は最後の東ローマ皇帝の姪と結婚して皇帝の称号を用いるのである。
 西ヨーロッパにおいては皇帝の地位は有力な領邦君主のあいだを転々としていたが,15世紀になるとオーストリアの王の家系が独占する。この家系は13世紀から断続的に数人の皇帝を出す名門であったが,[ 11 ]の時代には父方から神聖ローマ帝国を,母方からスペインとその支配のもとにある広大な領土を受け継ぎ,イギリスとフランスなど若干の土地を除いて,西ヨーロッパ全域の支配者となった。けれども神聖ローマ帝国内部では,大きな勢力をもつ領邦が出現し,帝国の一体性はしだいに失われていった。
 1806年,この当時ヨーロッパ世界を広く征服しつつあった[ 12 ]はドイツ諸領邦を集合してライン同盟を結成した。このため神聖ローマ皇帝[ 13 ]は帝位を辞し,帝国は消滅した。[ 13 ]はオーストリア皇帝の称号を名乗るようになる。一方,とってかわるように[ 12 ]自身が1804年に皇帝の地位についた。戴冠式にはローマ教皇を呼び寄せ,中世以来の伝統にもとづく形式をとったが,ローマ=カトリック教会の世界に2人の皇帝が存在する事態そのものが古い伝統の動揺を示していた。その後1852年には,[ 12 ]の甥が帝位につき,再び西ヨーロッパに複数の皇帝が出現する。彼は普仏戦争のさなかに捕虜となって退位するが,翌年の1871年にはドイツ人世界のほとんどを一つにまとめて,プロイセンの国王[ 14 ]がドイツ皇帝を兼ねることになった。
 東ローマの伝統を継承していたロシアの皇帝の家系は,1917年に三月革命の際[ 15 ]が退位して終止符が打たれた。ドイツ皇帝は1918年11月の共和国の成立によって退位し,オーストリア皇帝も同じ月に第一次世界大戦の敗北によって退位した。古代ローマとキリスト教の結びついた古い伝統はこうして完全に消え去った。

語群
a.イヴァン3世 b.ヴィルヘルム c.オクタヴィアヌス d.オットー1世 e.カール f.カール5世 g.コンスタンティヌス h.シャルル i.ディオクレティアヌス j.テオドシウス k.ナポレオン l.ニコライ2世 m.フランツ2世 n.ルートヴィヒ o.ロタール

[3] イギリスとアメリカ合衆国に関するつぎの文を読み,以下の問いに答えよ。[法政・改題]

 ピューリタン革命による短い共和政を経て再び復活した王政期に,イギリス議会はその役割を高めた。王政復古後,[ ア ]朝の国王のカトリック化政策と激しく対立してきた議会は,1689年,新国王に対し議会が用意した宣言を提示した。この宣言は,法律の適用免除や執行停止,徴税,そして常備軍の維持などの国王の行為について議会の同意を求めるものであり,のちに[ 1 ]として制定され,イギリスにおける立憲主義の原点とされている。
 1680年代頃,イギリス議会に,[ A ]と[ B ]というふたつの会派が存在したことが知られている。前者は,伝統的秩序観を基礎に国王と国教会の役割を重視したのに対し,後者は,国王権限を抑制する議会の役割を重視し宗教的寛容の立場をとった。両派は,今日にいう政党の初期形態とされている。そして,ウィリアム3世の末期には,議会の多数派が内閣を構成するという意味での政党政治がみられた。
 さらに,18世紀前半,[ イ ]朝の国王の下で,[ ウ ]は,20年以上にわたって長期政権を担当し,閣議の長としての首相の地位を高めて,初代の首相と称されるとともに,下院の支持を失うや自ら辞職して,内閣が議会に対して責任を負う後世の責任内閣制のモデルとなった。
 議会制度を支える国民の参政権についていえば,18世紀を通じて,それは土地保有者や高額納税者に限られていた。産業革命による労働者階級の形成とフランス革命の衝撃は,選挙権の拡大運動を促した。1832年,[ C ]政権の下で,第1回選挙法改正が行われたが,中流階級に参政権が拡大されたにとどまったため,労働者階級による最初の政治闘争として,普通選挙の実現や被選挙権における財産資格の廃止などを内容とする[ 2 ]を掲げた[ 3 ]運動が広がった。この運動は挫折したものの,1867年の第2回選挙法改正と1884年の第3回選挙法改正により,地方税を納入する戸主である都市労働者や農業労働者に選挙権が与えられたことで,労働者階級は有権者の6割を占めるに至った。
 第1回選挙法改正以後,[ A ]は[ D ]党と,[ B ]は[ E ]党と呼ばれるようになったが,1870年代には,前者は[ エ ],後者は[ オ ]と,それぞれ優れた政治家を輩出した。選挙法改正とともに,[ 4 ]や労働組合法などの制定にみられる社会改革が進められたのもこの時期である。そして,労働者階級の運動は,フランスにおける1901年の[ F ]党および1905年の[ G ]党に続いて,イギリスでは,1906年の労働党の結成をもたらした。
 一方,アメリカ合衆国においても,諸政党の結成・再編は,独立革命当時から活発であった。独立後の国家体制をめぐって,一方に,農業を基盤として各州が独立・自由な立場で結成する連合を主張した[ H ]があり,[ カ ]はその指導者であった。これに対して,[ キ ]らは,商工業の振興を望む大商人や大規模農業者の支持を背景に強力な中央政府を主張して[ I ]を組織した。
 イギリスより早く,1830年代に白人男子に選挙権を認める普通選挙が実現されたが,当時の大統領の支持者らによりすでに20年代に結成されていたのが[ J ]党であり,反対派は1834年に[ K ]党を結成した。1854年に奴隷制の存廃を住民の意思に委ねる[ 5 ]法が制定されたことを不満として,[ K ]党は奴隷制度反対を掲げる他の小政党とともに[ L ]党を結成した。1860年に同党のリンカンが大統領に当選したことに対抗して,南部諸州はアメリカ連合国を樹立し,[ ク ]を大統領に選び,こうして未曾有の内戦である南北戦争が始まった。

問1 空欄[ A ]〜[ L ]に最も適した党派名または政党名を下記の語群から選び,その記号を解答欄にマークせよ(解答方法は以下同じ)。なお,同一記号を複数回使用してもよい。
〔語群〕
a.ジャコバイト b.トーリー c.フェデラリスト d.フェビアン e.ホイッグ f.リパブリカン g.リベラリスト h.急進社会 i.共産 j.共和 k.社会 l.自由 m.保守 n.民主 o.労働

問2 空欄[ ア ]〜[ ク ]に最も適した人名または王朝名を下記の語群から選べ。
〔語 群〕
a.ウォルポール b.グラッドストン c.ジャクソン d.ジェファソン e.ジェファソン=デヴィス f.ステュアート g.ディズレーリ h.チャーチル i.ハノーヴァー j.ハミルトン k.ブルボン l.F.ローズヴェルト m.ワシントン

問3 空欄[ 1 ]〜[ 5 ]に最も適した語句を下記の語群から選べ。
〔語 群〕
a.カンザス−ネブラスカ b.チャーティスト c.プロテスト d.ホームステッド e.マグナ=カルタ f.ミズーリ g.ラダイト h.教育法 i.権利の章典 j.健康保険 k.人民憲章 l.人権宣言 m.老齢年金

UP

2.社会主義

[1] 次の文を読み,以下の設問A〜Cに答えよ。[立教・改題]

 18世紀後半,イギリスの木綿工業では,動力として蒸気機関を用いることにより,生産力を飛躍的に発展させた。生産手段を所有する産業資本家は工場経営者となり,経済・社会・政治面での支配力を増していった。これに対して,19世紀前半には,在来の手工業者や労働者のなかには,生活苦の原因が新しい機械設備にあるとして,暴力的な( イ )運動で対抗する者がでた。また,生産手段を持たないプロレタリアートのなかには,階級意識を抱く者が現れ,労働問題が多発した。
 労働問題に対する政府のとった対応の一つには,1833年の( ロ )の制定があげられる。これによって年少労働者などの労働条件を規制した。また,労働者たちの対応としては,労働組合を結成し,労働条件の維持・改善を目的とした活動が生まれた。イギリスで労働組合法が制定され労働組合が公認されたのは〔 あ 〕年のことである。
 こうした動きにともなって社会主義思想が展開されるが,その形成にも影響を与えた思想家として,古くは『ユートピア』の著者( ハ )があげられる。産業革命期に,フランスでは初期社会主義者サン=シモン,フーリエらが現れた。イギリスでは,社会主義思想の創始者の一人といわれる( ニ )が,ニューラナークで工場を経営し労働者の福祉の向上をめざし,人道主義的立場から理想社会の実現を試みた。
 階級対立のない社会を実現するためには,資本主義体制を変革する必要があるとする思想も生まれ,国家建設に影響した。すなわち,『資本論』の著者( ホ )の説く社会主義社会の実現を必然とする革命思想は,ロシア革命をへてソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を形成するよりどころとなった。
 アジアや東欧,中南米にも社会主義化した国がでた。アジアで一番先に社会主義国となったのは〔 い 〕である。また,第二次世界大戦は(1)アジア諸民族の独立や革命の動きを強めた。たとえば,独立を宣言したヴェトナムは,独立を確保するための戦争にはいった。この戦争を終結するための〔 う 〕休戦協定には,ヴェトナム国と〔 え 〕とが調印しなかった。その後おこったヴェトナム戦争をへて,ヴェトナム社会主義共和国が成立することになる。
 中南米諸国のうち,キューバでは革命家( へ )が,親米的であった独裁政権をたおし,政権の座についた。キューバがアメリカ系企業を接収したこともあり,アメリカ合衆国との国交は断絶した。キューバは社会主義宣言をして,ソ連寄りの姿勢を強めた。1962年には,(2)キューバをめぐって米・ソ間の危機がおこり,世界を緊張させた。キューバの革命政権は,中南米地域の民族運動に大きな影響をおよぼした。
 社会主義国間の関係を変化させた契機の一つに,ソ連共産党第20回大会で〔 お 〕のおこなった「( ト )批判」がある。これを一因として,中ソ関係が悪化した。たとえば,中国は「( ト )批判」を修正主義として批判した。これに対して,ソ連は中国が1958年に共産主義建設の基礎とした農業共同体すなわち( チ )さえをも批判した。一方,ソ連と東欧諸国の関係も大いに変化した。たとえば,1968年にチェコスロヴァキアでおこった民主化,いわゆる「( リ )」に対して,ソ連は軍事介入で対応した。しかし,これはソ連の国際的威信を大きくそこね,社会主義圏内の多極化に拍車をかけた。ヨーロッパにおける社会主義圏の解体の一方で,今日,アジアにおける社会主義諸国は,市場経済の要素をとりいれながら改革を進めている。

.文中の空所( イ )〜( リ )それぞれにあてはまる適当な語句または人名をしるせ。

.文中の空所〔 あ 〕〜〔 お 〕にあてはまる適当な語句または数字を,それぞれ対応する次のa〜dから1つずつ選び,その符号をマークせよ。
〔あ〕 a.1846 b.1860 c.1871 d.1897
〔い〕 a.中国 b.朝鮮民主主義人民共和国 c.ビルマ(ミャンマー) d.モンゴル
〔う〕 a.ジュネーヴ b.ハノイ c.パリ d.ワシントン
〔え〕 a.アメリカ b.ソ連 c.中国 d.フランス
〔お〕 a.コスイギン b.フルシチョフ c.ブレジネフ d.マレンコフ

.文中の下線部(1)・(2)にそれぞれ対応する次の問1・2に答えよ。
問1.欧米諸国によって植民地として支配されたことのない国はどれか。次のa〜dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.インド b.タイ c.フィリピン d.ラオス

問2.この危機が勃発した時の,アメリカ合衆国大統領は誰か。その名をしるせ。


UP

3.絶対主義時代の戦争

[1] 次の文章を読み,(イ)〜(ニ)の下線部に関する問いに答え,解答欄に記入し,(a)〜(s)については適当な語を以下の語群から選び番号で答え(同一記号は同一語。ただし,語群の語句は複数回用いてもよい),解答欄に記入しなさい。[同志社・改題]

 オーストリアの( a )家はスペイン王位をも継承し,カルロス1世のときスペイン=( a )家がはじまった。カルロス1世が神聖ローマ皇帝(カール5世)に選出されると,(イ)フランス王家との敵対関係が深まるとともに,皇帝は東方からの( b )の進出にも悩まされた。カルロス1世を継いだ( c )のもとで,スペインは全盛期をむかえ,1571年,( b )海軍を( d )の海戦に破り,さらに1580年にはポルトガルの領土をも継承した。
 ネーデルラントには,当時カルヴァン派の新教徒が多かったが,スペインの( c )統治下におかれると,きびしいカトリック化政策に苦しんだ。( c )は,これまで大幅に認められてきた自治権をもうばおうとしたため,ネーデルラント諸州の激しい反乱をまねいた。フランドル地方の南部10州はやがてスペインに屈服したが,北部7州は,1579年,( e )同盟を結んで(ロ)抗戦を続け,1581年には独立を宣言した。オランダは貿易網を広げ,いっそう国力を強め,1609年には事実上の独立をかちとり,フランドルの( f )にかわって,今や( g )が国際的金融都市となり,17世紀前半にオランダは全盛期をむかえた。
 フランスは百年戦争をつうじて,国内にあったイギリス領を一掃し,中央集権的な国民国家への道をあゆんだが,宗教改革の影響はこのカトリックの国にも波及し,16世紀なかばにはカルヴァン派の( h )の勢力が無視できなくなった。1560年,( i )が幼くして王位につくと,母后カトリーヌの支配のもとで,新旧両教派の争いは貴族間の党派争いと結びつき,内戦にいたった。この宗教戦争は外国勢力の介入をまねき,フランスの国家統一をおびやかしたが,けっきょく,( h )の首領であった( j )家の( k )が王位を継承し,カトリックに改宗のうえ,1598年,( l )の勅令で内戦はおわった。
 ( j )朝のもとで,フランスは絶対王政の全盛期をむかえた。ルイ13世の宰相( m )は,貴族勢力を抑え,反王権的な( h )を破り,(ハ)三十年戦争の際には,新教徒の側にたって( a )家の皇帝権力をくじこうとつとめた。ついで1643年,幼少のルイ14世が即位すると,宰相( n )の強権政治に反対する(ニ)高等法院や貴族が反乱をおこしたが,政府はまもなくこれを鎮定し,絶対主義をさらに強化した。1661年,( n )の死とともに,ルイ14世は親政を開始した。その財務総監( o )は重商主義政策をとって,国内の商工業を育成した。
 ルイ14世の后はスペイン王女だったので,スペインの( a )家が断絶すると,ルイ14世の孫が( p )としてスペイン王位をついだ。( a )家のオーストリアは,新大陸のスペイン植民地に利害を持つイギリス・オランダなどと連合してフランスと戦い,けっきょく,1713年,( q )条約で,スペイン・フランス両国が合同しないという条件で,( j )家のスペイン王位継承が認められた。その代償として,イギリスはスペインから( r )を,フランスから( s )を得た。

〔問い〕
(イ)この時,カールと皇帝位を争ったフランス王は誰か。
(ロ)この時のネーデルラントの指導者は誰か。
(ハ)この戦争を終結させた条約を何というか。
(ニ)この反乱を何と呼ぶか。

〔語群〕
1.コルベール 2.マザラン 3.リシュリュー 4.シャルル9世 5.フェリペ5世 6.マクシミリアン2世 7.アンリ4世 8.フェリペ2世 9.フェルディナント1世 10.アムステルダム 11.リヨン 12.アウグスブルク 13.シャンパーニュ 14.アントワープ 15.ユトレヒト 16.ナント 17.レパント 18.アルマダ 19.ポワティエ 20.ニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方 21.ジブラルタル・ミノルカ島 22.ラシュタット 23.シュマルカルデン 24.ファルツ 25.キャフタ 26.ユグノー 27.再洗礼派 28.ゴイセン 29.オスマン帝国 30.マジャール人 31.アヴァール 32.ハプスブルク 33.ヴァロワ 34.ブルボン 35.カペー

[2] つぎの文を読み,後の問いに答えよ。[法政・改題]

 (ア)三十年戦争は,信仰の自由を保障した勅書の破棄をきっかけに,貴族たちが帝国役人を窓から突き落とした,神聖ローマ帝国(イ)一属領の事件から始まった。だが,ハプスブルク勢力の強大化と旧教勢力の復活を嫌う諸勢力の介入が,この争いを長期的国際戦争にした。この戦争を終結させた[ 1 ]によって,帝国内の領邦は完全に主権を得るに至り,帝国は事実上解体した。その結果オーストリアは一領邦の立場となり,かつての帝国国会は(ウ)帝国使節会議に姿を変えた。
 三十年戦争により,ドイツは荒廃し,国際的にほとんど無力な諸領邦は,封建体制のもと,農奴制を再導入するなど,近代化に著しい後れをとっていた。こうしたドイツの状況のなかで,プロイセンは勢力を伸ばし(エ)王国となった。プロイセンはヨーロッパ列強に対抗するために軍事力の増強に依存し,産業育成・資源確保につとめたのである。
 プロイセンがマリア=テレジアのハプスブルク家領継承に異議を唱えて,その一地域を占領したことに始まる(オ)オーストリア継承戦争では,フランスとオーストリアの二強国の対立図式は変わらず,フランスの助勢によりプロイセンは勝利を収め,[ 2 ]によって占領地の領有を認められた。しかし,これを不服とするオーストリアはフランスと(カ)提携し,さらにロシアが加担したことから,プロイセンは(キ)七年戦争に突入した。苦戦のなかで,[ 3 ]によりプロイセンはオーストリアとの単独講和にこぎつけ,ヨーロッパ列強としての地歩を固め,またドイツ問題にオーストリア対プロイセンという対抗関係が付け加わることとなったのである。

問1 空欄[ 1 ]〜[ 3 ]に当てはまる条約名を下記語群Cより選び,マークせよ。

問2 下線部(ア)の戦争は反宗教改革をめぐる対立に起因した。これにかかわった諸国は旧教側と新教側の何れに立ったか。a〜cから選び,マークせよ。
a.新教側:スウェーデン,デンマーク,フランス 旧教側:オーストリア,スペイン
b.新教側:スウェーデン,フランス 旧教側:オーストリア,スペイン,デンマーク
c.新教側:デンマーク,オーストリア、旧教側:フランス,スペイン,スウェーデン

問3 下線部(イ)の事件が起こった属領(国)を下記語群Aから選び,マークせよ。また,事件勃発時に同国王であった人物は誰か。その人名を下記語群Bから選び,マークせよ。

問4 フランスは,下線部(ウ)の会議の構成員となり,ドイツ問題に発言権を有するようになった。その基礎となった領土はどこか。下記語群Aから選び,マークせよ。

問5 下線部(エ)の年にはスペイン継承戦争が勃発している。この戦争の結果,フランスとスペインの合邦禁止とひきかえに継承権が認められた王は誰か。下記語群Bより選び,マークせよ。

問6 下線部(オ)の戦争のきっかけとなった,プロイセン占領地域はどこか。下記語群Aより選び,マークせよ。

問7 下線部(カ)の提携関係は歴史上何と呼ばれるか。a〜eから選び,マークせよ。
a.神聖同盟 b.封建反動 c.外交革命 d.カルマル同盟 e.休戦条約

問8 下線部(キ)の七年戦争と,それに先立つスペイン継承戦争にイギリスは参戦したが,フランスとの植民地獲得競争がその背景にあった。これらの戦勝によりイギリス植民地帝国の基礎が確立された。この関連でイギリスが各戦争で締結した講和条約はどれか。条約名を下記語群Cから選び,スペイン継承戦争を(1),七年戦争を(2)に,それぞれマークせよ。また,七年戦争によってイギリスが獲得した植民地を下記語群Dから三つ選び,(3)にマークせよ。

語群A(地名)
a.アウグスブルク b.アルザス(エルザス) c.オスナブリュック d.シュレジエン e.ハノーヴァー f.ファルツ g.ベーメン h.ライプチヒ i.ルール
語群B(人名)
a.カール5世 b.カルロス2世 c.フェリペ5世 d.フェルディナント2世 e.ルドルフ2世
語群C(条約名)
a.アーヘン和約 b.ウェストファリア条約 c.ウェストミンスター条約 d.パリ条約 e.フベルトゥスブルク条約 f.ユトレヒト条約
語群D(植民地)
a.アカディア b.カナダ c.ジブラルタル d.セネガル e.フロリダ f.ニューファンドランド

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4.奴隷制度

[1] 奴隷制度の歴史について述べた次の文章(A〜E)を読み,設問(1〜21)にもっともふさわしい答えを選択肢(a〜d)から選びなさい。[上智・改題]

(A) アメリカの奴隷制度は人類史上ことさら特異なものではないが,現代にまでその影響が強く及んでいるところに特色がある。歴史のなかでは古代から奴隷が存在したが,たとえば前18世紀頃の古代バビロニア王国の奴隷が知られている。同王国の( 1 )のなかには「他人の奴隷の目をつぶしたり骨を折ったりしたものはその奴隷の価値の半分を支払う」という規定がある。古代ギリシアにも戦争捕虜や債務を抱えた者を奴隷とし,家内奴隷や鉱山の労働者として使役されていた。前5世紀頃のアテネでは奴隷制度が極度に発達し,人口の三分の一を占める異民族の奴隷がいた。ギリシアと並んで奴隷制が盛んだったのは古代ローマであり,共和政ローマの時代には大所領の耕作は奴隷が担当するという( 2 )がさかんであった。前2世紀から前1世紀にかけてはローマの奴隷制最盛期であり,多くの奴隷反乱が市民生活を脅かした。アフリカ人を奴隷として使役するということも古くから行なわれていたが,中世以降になると( 3 )が活躍した。アフリカの東海岸から奴隷を調達して各地で売りさばいており,( 4 )の一部を形成していた。

(1) 空欄( 1 )に入れるべき掟の名前は
a.死者の書 b.ハンムラビ法典 c.マヌ法典 d.十戒

(2) 空欄( 2 )に入れるべき耕作の形態は
a.農奴制度 b.強制栽培制度 c.コロナートゥス d.ラティフンディウム

(3) 中世以降にアフリカ人奴隷の交易を担ったのは
a.西インド会社 b.イタリアの都市国家 c.アラブ商人 d.アフリカの王国

(4) 空欄( 4 )に入れるべき交易の名称は
a.香辛料貿易 b.勘合貿易 c.東西交易 d.インド洋貿易

(B) 新世界にヨーロッパ人が定着し始めるとまもなく,アフリカの黒人を労働力として使役するという習慣が確立した。16世紀に西インド諸島やラテンアメリカが( 5 )の管理下におかれるようになると,アフリカからの労働者が鉱山などで働かされるようになった。西インド諸島では( 6 )の栽培などに黒人労働者が使役された。カリブ海のキューバなどもこの作物との関係を深めていった。北アメリカに関しては,最初のイギリス人が入植してまもなく,オランダ船が黒人労働者たちをもたらしたことが知られている。黒人労働者たちは奴隷として運搬されたわけではなかったが,北アメリカの歴史のなかで徐々に奴隷として扱われるようになったと考えられている。ラテンアメリカと異なり,北アメリカでは金銀財宝が発見されることはなく,かわりに富をもたらす手段としてタバコや綿花などの栽培が大農園で大々的におこなわれるようになる。そのためには( 7 ),黒人奴隷の需要が強かったのである。交易の仕組みは( 8 )と称せられ,ヨーロッパから武器や雑貨をアフリカに運び,交換で得た奴隷を北アメリカに運ぶのだが,新世界では奴隷販売で得た収入を現地の産物である砂糖や綿花,タバコにかえてヨーロッパに運んで売りさばいた。特にスペイン継承戦争後の1713年に結ばれた( 9 )条約でスペイン領植民地への黒人奴隷貿易独占権を獲得したイギリスでは,黒人奴隷貿易に従事する商社の株が高騰するなど,黒人奴隷貿易は大ブームとなりリヴァプールなどの港が奴隷貿易で栄え、この貿易での資本の蓄積は産業革命を促した一条件ともいえる。

(5) 空欄( 5 )に入れるべき国名は
a.フランス b.スペイン c.イタリア d.神聖ローマ帝国

(6) 空欄( 6 )に入れるべき作物は
a.サトウキビ b.赤カブ c.ジャガイモ d.トウモロコシ

(7) 北アメリカで黒人奴隷に対する需要が大きかった理由として( 7 )に入れるべき正しい表現は
a.社会階層として底辺を形成する人間が必要であり
b.西部開拓のための人口増加が望まれ
c.農民を助ける家事労働者が必要となり
d.農作業を担当する多くの人手を必要とし

(8) 空欄( 8 )に入れるべき経済活動を表わす用語は
a.植民地経営 b.三角貿易 c.二方向交易 d.物々交換

(9) 空欄( 9 )に入れるべき条約名は
a.ユトレヒト b.パリ c.ウェストファリア d.ロンドン

(C) 18世紀末から19 世紀前半にかけて人道的な見地から奴隷解放運動が高まり、アメリカの国々が独立していく。イギリスではこの時期に自由主義な貿易体制に転換が進みつつあり、19世紀初頭に奴隷貿易が、1833年に植民地の奴隷制度が廃止されたがアメリカ合衆国では逆に奴隷制度が強化された。アメリカ合衆国で黒人奴隷を必要としたのは南部地域で、ニューイングランドなどの北東部は土地がやせていて大規模な換金作物の栽培に適さず,定住者は自営農民や商業に従事するものが多かったからでもある。したがって大農園と黒人奴隷の存在はきわめて南部的な現象である。イギリスでは18世紀後半に産業革命が起こり,技術革新の連鎖がマンチェスターの( 10 )から始まっていた。とくに18世紀末にホイットニーによる綿繰り機が発明され綿の種子の除去が容易になると,(11)イギリスでさかんになる繊維産業に対する原料供給地として,アメリカ南部が大きな役割を果たした。綿花栽培は大きな収入をもたらすようになり,イギリスの工業に依存した南部社会の経済のあり方とそれを支える奴隷制度が定着した。綿花の栽培は急拡大したが,そのためには新たな土地が必要であり,19世紀前半には西部地方への農場進出がさかんとなった。しかし大農場制度に依存しないアメリカの北部地域では,このような(12)南部の動きに対する反発が強まった。新しく生まれるアメリカの西部地域が奴隷制度をかかえる場所になってしまうという人道的な反発もあったが,みずから産業革命を経験していた北部は,イギリスの影響力を南部から排除する必要もあったからである。南部と北部の利害の対立は,北部を地盤とするリンカンが大統領に当選する( 13 )をもって決定的となり,大きな内乱が発生した。すなわち翌年から南北戦争が始まった。

(10) マンチェスターで技術革新の連鎖をおこしたのは
a.絹産業 b.毛織物工業 c.機械産業 d.木綿工業

(11) 「イギリスでさかんになる繊維産業に対する原料供給地として,アメリカ南部が大きな役割を果たした」という点で注目すべきアメリカ合衆国とイギリスの関係がある。南北戦争を経てそれは解消されるが,その関係とは
a.アメリカはあくまでもイギリスの言いなりになる便利な従属国であったという隠れた事実
b.イギリスの産業革命がアメリカの奴隷制度を必要としていたが故にアメリカは内乱を経験したという史実
c.政治的には独立していてもアメリカはイギリスの原材料供給国にすぎなかったという事実
d.産業革命で先行したイギリスはアメリカの富の源泉であったということ

(12) 「南部の動きに対する反発」があったために,1852年にストウ夫人が書いた小説は大きな話題となり,奴隷制度に対する反感が北部社会でたかまった。その小説のタイトルは
a.『ハックルベリー=フィンの冒険』
b.『風とともに去りぬ』
c.『西部戦線異状なし』
d.『アンクル=トムの小屋』

(13) リンカンが大統領に当選し,南部のいくつかの州が連邦脱退を始めたのは
a.1858年 b.1860年 c.1865年 d.1897年

(D) やがて南北戦争は北軍の勝利となって終結するが,戦争中の1863年にはリンカン大統領による( 14 )が出された。合衆国議会はさらに連邦憲法を修正して奴隷制度を正式に廃止し,黒人にも公民権や投票権をあたえた。南部諸州は敗戦後連邦軍の管理下におかれたが,1877年には合衆国に復帰することが許され軍政は解除された。ところが1890年頃になると,南部の諸州は独自の法律を制定して黒人の投票権などを制限するようになり,黒人にたいする社会的な差別も公然と認めた。また南北戦争後の社会改革に反対した一部の白人たちは,秘密結社( 15 )を形成して,非合法的な手段で黒人にたいする暴行などをおこなった。一方の黒人たちも大部分は読み書きができない貧しいものが多く,結局は土地所有者に雇われて奴隷時代に覚えた農作業に従事した。収穫の半分を地主におさめ,残りの半分を農作業をしたものが受け取るという制度を( 16 )というが,収穫までの食費などが収入から差し引かれるためにこのような制度のもとで大きな収入を得ることは難しく,苦しい生活を送るものがほとんどであった。黒人にたいする差別は温存され,黒人の経済環境はきわめて厳しいままの状態が長く続くことになる。

(14) 1863年にリンカンが発布したのは
a.奴隷解放宣言 b.ゲティズバーグの演説 c.1863年の年頭教書 d.人権宣言

(15) 秘密結社の名称は
a.フリーメイソン b.アナバプチスト c.アルファ=ベータ=カッパ d.クー=クラックス=クラン(KKK)

(16) 空欄( 16 )に入れるべき農業の制度の名前は
a.荘園制度(マナーシステム)
b.分益小作農制度(シェアクロッパー制度)
c.大土地所有制度(ラージランドオーナーシップ)
d.封建土地所有制度(フューダルランド制度)

(E) その後アメリカの黒人の状況が大きく変化するのは第二次世界大戦後のことである。1950年代にはいると合衆国最高裁判所は黒人にたいする差別は違法行為であるという判決を相次いで下し,黒人のおかれた状況は徐々に改善され始めた。1961年に就任した( 17 )大統領は本格的な人種差別撤廃に乗り出し,そのあとを継いだジョンソン大統領は1964年に(18)公民権法を成立させた。さらにジョンソン大統領は「偉大な社会計画」のなかでアメリカの貧困問題や人種差別問題に対する政策を提案し実行した。リンカンの奴隷解放から100年目の出来事であるが,このようなことが可能になったのは,黒人側からの熱心な働きかけがあったからでもある。ことにマーチン=ルーサー=キング牧師は( 19 )という考え方に基づいて人種差別撤廃を目指す運動を展開し,1963年には「( 20 )」を実施して20万名の参加者を得た。キング牧師はその後暗殺されるが,黒人の権利の確保というテーマは若い運動家に引き継がれることになった。

(17) 1961年に就任したアメリカの大統領は
a.アイゼンハワー b.カーター c.ニクソン d.ケネディ

(18) 公民権法とは
a.黒人にたいして奴隷時代の償いを保証する連邦法
b.人種に関係なくすべてのものに同じ市民としての権利を保障する法律
c.男女平等をうたって女性にも同じ権利を保障した法律
d.黒人などの少数民族に対して経済的恩典を与えようとする法律

(19) キング牧師の思想をあらわしたものとして( 20 )に入れるべき表現は
a.「ブラックパワー」
b.「武力闘争」
c.「ブラックナショナリズム」
d.「非暴力・直接行動」

(20) 「( 21 )」に入れるべき言葉は
a.ウッドストック=フェスティバル
b.ヴェトナム反戦集会
c.ワシントンヘの行進
d.バスボイコット

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