7.グローバル問題

1.ヒトに関するテーマ(移民・華僑・女性)

[1] 問題文の空欄( a )〜( m )を埋めるのに最も適当なものを語群の中から選び,その番号を記入しなさい。[慶応・改題]

 1980年代以降,東アジア・東南アジア地域における急速な経済成長が国際的注目を集めるとともに,同地域の広い範囲にわたって生活する華僑の経済活動と,かれらのもつ潜在的な経済的,政治的,文化的影響力が改めて見直されてきている。現在,全世界の華僑はおよそ2500万人であり,うち東南アジアには約2100万人,総数の85%が居住している。その他の主な分布地としては,米国,カナダ,南米,ヨーロッパ,そして( a )があり,それぞれ数十万人単位の華僑がいる。そもそも華僑とは,仮住まいをする中国人,の意味であった。
 華僑の起源は,12〜16世紀の北宋から南宋,元,明の時代に活発化した中国人の海上通商活動,商業的海運の台頭に求めることができる。とりわけ,明朝は倭冠などによる密貿易を防ぐために1381年から( b )を実施し,朝貢貿易の確立に力を注いだ。15世紀初頭の鄭和の遠征は,( c )を活用した中国の海上活動展開の一環であり,華僑の東南アジア進出への道を開くことになった。
 初期の華僑は現地の政治勢力と結びつくことが多かった。13〜14世紀の仏教国スコータイ朝期,中国人はシャム湾に港を開き,マライ半島の付け根に( d )鉱山を発見した。つづくアユタヤ朝になると,王朝は華僑の経済活動を保護しただけでなく,各種徴税請負を華僑に任せるようになった。また,16世紀末から南北で抗争がつづいていたヴェトナムでは,南部に勢力を誇っていた( e )は華僑との関係を結び,( f )川流域へ進出した。このように商人を中心とした華僑は,東南アジア政治勢力と良好な関係を築きあげていた。ところが明末清初の中国は各地で抗租運動や( g )などの反乱が発生し,社会経済的に混乱期を迎えると,広東省,福建省の農民のなかには,不法に東南アジアヘ移住するものが増えた。( h )年に( b )が解除され,また明末の人口増加を受けて,多数の福建省出身者がフィリピン,マライ半島,ジャワ島へ移住し,定着するようになる。しかし,すべての移住が順調にいったわけではなく,17世紀には,スペイン領マニラとオランダ領( i )で,ヨーロッパ人による華僑虐殺事件が発生したこともある。とはいえ,全般的に当時の華僑は現地社会への同化を順調に果たしていた。
 アヘン戦争直後から,中国から東南アジアヘ向かう移民の数が増大した。1820年代から1920年代までの移民の総数は約1000万人で,うち現地に定住化したのは300万人程度であった。この時期,イギリスの東南アジア進出が本格化しはじめていた。1819年,東インド会社の( j )はシンガポールを獲得し,東南アジアにおける通商拠点とした。ここは東南アジア華僑の拠点ともなった。イギリスはマライ半島の( d )鉱山開拓のための労働力として,華南地方から大量の契約労勧者を移入した。かれらは( k )と呼ばれ,契約労勧者として生産地に渡航したが,現実は劣悪な労働環境のもと奴隷同然の扱いを受けた。
 19世紀末からは,祖国中国の政治情勢が直接間接に東南アジア華僑に影響を与えるようになる。中国で変法自強運動を展開した( l )の思想的影響はつよく,シンガポール,( i )など各地の華僑社会において,儒教復興運動や教育運動などが盛んに組織化された。( m )や東京で革命結社を組織した孫文にとっても,東南アジア華僑は運動展開のための財政的基盤として重要であり,「天下為公」(天下を公となす)の句は,救国のために華僑の決起を促すスローガンとなった。このように1911年の辛亥革命前後は,東南アジア華僑にとって祖国との距雄を問われる時期となり,それはまた華僑社会が多様化の兆しを見せはじめた時期でもあった。

〔語群〕
O1.金 02.李鴻章 03.インドネシア 04.1531 05.メコン 06.アマースト 07.北京 08.阮氏 09.イラワディ 10.東廠 11.海禁 12.スマトラ 13.明令 14.1644 15.奴変 16.黎氏 17.西太后 18.ハワイ 19.蒸気船 20.仇教運動 21.錫 22.ラッフルズ 23.西山氏 24.バンコク 25.アフリカ 26.義和団事件 27.苦力 28.朱印船 29.マカートニー 30.天津 31.1582 32.奴婢 33.ソンコイ 34.インド 35.康有為 36.銀 37.華人 38.ベンティング 39.ジャンク船 40.パレンバン 41.民変 42.ラングーン 43.鄭氏 44.1567 45.メナム 46.マラッカ 47.オーストラリア 48.鎖国 49.客家 50.パタヴィア

[2] 次の文中の下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。[ 関西学院・改題]

 15世紀末に始まるヨーロッパの世界への拡張は,人々の海を越えた大量移動を生み出した。16世紀に中南米を広く植民地化したスペイン人は,鉱山やプランテーションでインディオを奴隷制あるいは(1)エンコミエンダ制によって酷使した。そのためにインディオ人口は激減し,それを補う目的で大西洋を隔てたアフリカから黒人奴隷を導入するためにいわゆる(2)三角貿易が組織された。プランテーションや鉱山,建設などでの労働の主要な担い手が契約労働者にとって代わられ(3)(4)奴隷制が廃止された19世紀後半までに,少なく見積もっても1000万人以上のアフリカの住民が南北アメリカに送られたといわれる。
 一方,産業革命以前に西欧諸国から新大陸に渡ったのは,故国での人口増加や(5)宗教的迫害あるいは戦乱からの避難などを動機とする比較的に自由な移民たちであった。ついで,(6)産業革命による工業化と都市化の波がイギリスからヨーロッパ大陸諸国に広がるにつれ,ヨーロッパ各地間で,あるいは農村から工業都市へ,労働力の大荒模な移動が起こり,この移動の大波は(7)海上交通の飛躍的発展に支えられて,さらに大規模な海外移住へとつながった。19世紀以降の海外移住のクライマックスは1870年代から第一次世界大戦までの約40年間で,この間だけで約3000万人が故国をあとにした。19世紀には(8)イギリスを中心に北欧・西欧からの移住者が主であったのに対して,20世紀に入ってからは(9)南欧・東欧からの移民に重心が移った。
 最大の移民受け入れ国であったアメリカ合衆国では,西部の開拓による国内市場の拡大が工業の急激な伸張をもたらし,その労働力需要が大量の移民を引きつけていた。アメリカでは彼らによって経済発展が支えられるとともに,多様な民族が複雑に入り組んだ重層的な社会構造が形成されていった。ヨーロッパ各地からのさまざまな移民は,この重層構造のいずれかに組み入れられて独自のエスニック・コミュニティを作りながら,成長する工業社会に定着して今日のアメリカの社会的構成の基礎をなしているのである。一方,根強く残る黒人差別への反発は,のちの1960年代になってヴェトナム反戦運動と一体化し(10)公民権運動を活発化させた。

[問い]
(1) これを強く批判しインディオの奴隷化防止に尽力したスペインの聖職者はだれか。
a.カルチェ b.モンテスマ c.ラス=カサス d.コルテス

(2) この三角貿易で取り引きされなかった交易品はどれか。
a.茶 b.砂糖 c.綿布 d.銃器

(3) アメリカで解放された奴隷によって開拓され,1847年に独立を宣言した共和国はどれか。
a.ハイチ b.ギニア c.セネガル d.リベリア

(4) 奴隷の法的自由を宣言したリンカンによる1863年の「奴隷解放宣言」を発効させ,奴隷解放を実現したものはどれか。
a.黒人法(ブラック・コード) b.合衆国憲法修正 c.ホームステッド法 d.ミズーリ協定

(5) イギリスで迫害を受けたピルグリム=ファーザーズがメイフラワー号で到達した場所はどれか。
a.ニューアムステルダム b.プリマス c.ポストン d.フィラデルフィア

(6) 産業革命期の一連の発明の中で,1793年にアメリカ人ホイットニーによって発明されたものはどれか。
a.力織機 b.水力紡績機 c.綿繰り機 d.ミュール紡績機

(7) 世界の海上交通に大きな影響を与えた蒸気船の基礎となったクラーモント号を建造したのはだれか。
a.ダービー b.トレヴィシック c.フルトン d.ニューコメン

(8) イギリスからの移民はアイルランド人が中心だったが,彼らの主な宗派はどれか。
a.ピューリタン b.カトリック c.国教会 d.メソジスト

(9) 南欧・東欧系移民を制限し,かつ日本を含むアジア系移民を禁止する移民法が制定された年はどれか。
a.1898年 b.1917年 c.1921年 d.1924年

(10) 1964年に人種差別撤廃法である「公民権法」が制定された時の大統領はだれか。
a.ジョンソン b.ケネディ c.アイゼンハウアー d.ニクソン

[3] 次の文章を読み,空欄(1〜5)には最も適切な語句を下記の語群の中から選び,その記号を解答欄にマークし,また空欄(ア〜オ)にあてはまる適切な語句を解答欄に記入しなさい。[明治・改題]

 高等学校世界史の教科書を見ていると奇妙なことに気がつく。女性に関する記述がほとんどないのである。わずかばかりの記述を注意してみると,そこにある特徴が見える。第1に,教科書が重視する女性は君主または支配者,あるいは英雄である。このことは,世界史の教科書が圧倒的に支配者を中心とした政治の歴史に比重をおいていることの,一つの表れである。とはいえ,女性支配者を取り上げる教科書の記述には微妙な偏りがうかがえることがある。例えば,ある教科書は中国史上唯一の女帝である[ 1 ]の統治について,それが混乱し,ようやく男性皇帝による[ 2 ]によって混乱は収まったと記述している。読み方によっては,女性は男性に比べ統治能力が低いとも受け取ることが出来よう。次に,英雄としての女性については,百年戦争でイギリスに包囲されたオルレアンの町を解放し,さらに[ 3 ]の戴冠を助けたジャンヌ=ダルクはあまりに有名であるが,1857年のインド大反乱に参加したジャーンシー王国の王妃ラクシュミー=バーイーを取り上げている教科書もある。もっとも彼女の名前が1冊の教科書にしか挙がっていないのは,反乱を鎮圧した側であるイギリス女王[ 4 ]の名前が全ての教科書に載っているのであるから,こうした記述はあまりにヨーロッパ中心主義にすぎるといえるだろう。
 第2に,芸術や学問の分野で活躍した女性が取り上げられることがある。古いところではギリシアの女流詩人で恋愛詩を残した[ ア ],ヨーロッパ近代ではロマン主義の女流文学者であり,自由主義思想の信奉者としても名高いフランスの[ 5 ]夫人,新しいところでは「ハリウッドの妖精」と言われたオードリー=ヘップバーンなどがある。もっとも彼女の場合,今日の世界が抱える最重要課題となっている難民問題への積極的な取り組みが評価されて,取り上げられていることが多い。学問の分野に目を転じれば,夫と共に20世紀の原子物理学への道を開いた[ イ ]夫人などがいる。一般的には20世紀以前には芸術や学問の分野に女性が参入することは決して簡単ではなかった。これらの女性たちはどのようにして歴史に名をなすことが出来たのであろうか。世界史の教科書は残念ながら,この疑問に対しては何も答えてくれないのである。
 以上のように高等学校世界史の教科書は,女性にも著名な人間が存在したことのいわば証明として,数少ない女性を取り上げているのである。著名人以外の女性が教科書に登場するのは労働や生活の場面である。これが第3の特徴である。だがここにも重要な問題が潜んでいるように思える。元来,女性もはるか昔から例えば農耕に従事し,家庭内での多くの仕事を行ってきたはずである。ところが多くの教科書が女性の労働としてはじめて取り上げるのは,イギリス産業革命期の[ ウ ]の場合である。一体何故,女性が工場に就労することが歴史的に重要な問題とされるのか。20世紀に入ってもなお,女性の多くは農漁業と家内労働に従事していたのであり,工場で働くものの数は多くはなかったのである。教科書が指摘する理由は,特に[ ウ ]の場合,しばしば作業の単純化によって低賃金の女性労働者が男性労働者より多くなったということである。19世紀にヨーロッパで女性労働が社会・労働問題として問題化したのは,女性が家庭外で就労すること自体と,低賃金女性労働者の存在が男性労働者の職を奪っているように見えたことによっていた。女性は家庭にいることが求められたのである。
 このように女性の本来いるべき場所をもっぱら家庭と見なし,女性の家庭外での活動をおさえつけることは,洋の東西を問わず,長い間行われてきた。その結果,女性の法的権利が制限される場合も少なくなかった。女性の[ エ ]が1918年以前にはほとんどどこの国でも認められなかったことも,その一つである。それどころか,中国で20世紀まで行われていた纏足は,女性に対する肉体的な拘束に他ならなかった。
 言うまでもなく女性差別をなくし,男女の平等を実現しようとする主張や運動は古くから存在していた。例えば19世紀後半に中国で起きた[ オ ]では,纏足の禁止ばかりか,男女の平等が唱えられた。しかしそれから150年近くたち,世界のほとんどの国で法的には男女の平等が実現している今日にあってさえも,多くの国で女性が男性に比べ,様々な不利益を被っていることは否定できない。1975年以来4回に亘って世界女性会議が,また2000年には国連特別総会「女性2000年会議」が開催され,日本でも1999年に男女共同参画社会基本法が施行されるなど,未だに多く残る男女間の不平等な状態の是正に向けた取り組みが世界各地でなされている。

〔語群〕
A.ロラン B.メアリ1世 C.神功皇后 D.開元の治 E.エリザベス2世 F.同治中興 G.ルイ9世 H.スタール I.則天武后 J.フィリップ4世 K.ジョルジュ=サンド L.シャルル7世 M.貞観の治 N.西太后 O.ヴィクトリア

[4] つぎの短文(1〜10)の空欄(1〜10)にもっとも適当な語句を,解答用紙の所定の欄に記入しなさい。空欄(1)・(9)以外は漢字で記入すること。[中央・改題]

1 デンマークに生まれ,ピョートル1世に仕えたかれは,カムチャッカを探検した。( 1 )海峡は,かれの名に由来する。

2 アメリカ独立革命のときの英国王であったかれは,貿易関係改善のため中国に使節を派遣した。使節団は,熱河で( 2 )帝に謁見したが,所期の目的を達せず,帰国した。

3 モロッコ出身の大旅行家のかれは,メッカ巡礼の後,各地を旅し,( 3 )を著した。

4 西域都護( 4 )の部下であったかれは,西方に使いし,安息・条支に至った。

5 東晋時代の僧であったかれの旅行記( 5 )は,西域・インド・南海などの各国の事情を記したものである。

6 雲南出身のイスラム教徒であったかれは,7回におよぶ南海遠征を行なったが,これは,( 6 )帝のときに始まった。

7 イタリア出身のかれは,イエズス会宣教師として,中国に渡り,宮廷画家として活躍し,中国名を( 7 )といった。

8 東シベリア総督として黒竜江下流を探検し,河口にニコライエフスクなどを建設したかれは,アイグン条約によって黒竜江以北を,( 8 )条約によって沿海州を露領とした。

9 スペインの探検家のかれは,( 9 )地峡を横断して太平洋を発見,“南の海”と命名した。

10 布教のため中国に来て,神宗に信頼されたかれは,( 10 )という中国最初の世界地図を作成した。

[5] 次の文の( 1 )〜( 10 )に入れるのに最も適当な語句を後の語群から選び,その記号をマークしなさい。[関西・改題]

 唐の二代目太宗の( 1 )年間の初め,『( 2 )』で有名な玄奘が西域に向った。長安を出発した彼は,その昔『( 3 )』を著わして当時の西域やインド,さらに南海の貴重な史料を紹介した先駆者( 4 )と同様に,陸路をたどり砂漠を越えた。そしてトルファン盆地のオアシス国家( 5 )を経由し,国王の強力な援助を受けたが,この国は彼が帰国する以前に唐車の攻撃を受けて滅亡してしまった。
 玄奘はさらに西へ進み,のち玄宗の天宝年間に( 6 )の率いる唐軍が,( 7 )朝のイスラム軍と死闘を演じるタラス川に出たのち南下し,アム・シル両川にはさまれたソグディアナ地方の中心都市であった( 8 )に達している。それよりインド各地の聖跡をめぐり,( 9 )朝が建立した5世紀に始まる仏教学院( 10 )僧院を中心に研さん鑚をつみ,長安を出てから約17年後の( 1 )19年に帰りついたのであった。

〔語 群〕
(ア)西域図記 (イ)亀茲 (ウ)宋雲 (エ)王仙芝 (オ)王玄策 (カ)アッバース (キ)ガンダーラ (ク)法顕 (ケ)大唐西域記 (コ)サマルカンド (サ)ゴール (シ)高仙芝 (ス)バグダード (セ)仏国記 (ソ)貞観 (タ)グプタ (チ)義浄 (ツ)貞元 (テ)高 昌 (ト)南海寄帰内法伝 (ナ)セルジューク (ニ)ナーランダー (ヌ)開元 (ネ)バーミヤン (ノ)敦煌

UP

2.モノに関するテーマ

[1] 次の文章は茶と砂糖の歴史について記述したものである。これを読んで下記の問いに答えなさい。[慶応・改題]

 一説に茶樹の原産地は中国の(1)雲南省であるとされているが,喫茶の風習は漢族にはじまったものと考えられる。より具体的に言えば,南北朝時代頃に茶を飲む習慣は漢族の上流階級に普及し,(2)華北を統一した北魏は,南朝からの使者が来ると,彼らを茶でもてなしたといわれる。また喫茶が一般の人々にまで普及したのは唐代であって,「長恨歌」で知られる( 1 )は,その詩の中にしばしば茶を詠みこんでいる。
 このような中国の茶がヨーロッパ人に知られるようになったのは,16世紀頃のことであり,『幾何原本』を翻訳した宣教師の( 2 )は,その書簡の中で,日本茶と中国茶の違いについて言及している。そして(3)中国とヨーロッパの直接交易がはじまると,ヨーロッパ,特にイギリスで茶は広く受け入れられることになった。
 他方ヨーロッパ人が砂糖についてかなり詳しい知識を持っようになったのは,(4)十字軍以降のことといわれるが,ヨーロッパでは最初,砂糖はおもに(5)薬として用いられていた。たとえば砂糖が(6)肺病の治療に役立つといった考えは,かなり後世にいたるまでヨーロッパでは信じられていたが,結局砂糖は食料として,特にイギリスで受容された。しかしイギリスにおける砂糖は,茶と結びつくという特異な形で広がってゆく。これは,東洋からもたらされた高級品の茶と,同じく貴重品であった砂糖をあわせて食用に供することが,富裕な階層にとって一種のステイタス・シンボルになったからだといわれている。しかしイギリスで,砂糖を入れた茶はいつまでも一部の上流階級の独占物であったわけではない。イギリスにおいて喫茶の風習が普及してゆく背景には,コーヒー・ハウスの存在が見落とせない。コーヒー・ハウスでは茶・コーヒー・チョコレートが供され,そこではさまざまな情報が交換された。たとえば(7)クロムウェルらによってなされたピューリタン革命が終結し,( 3 )年にフランスから帰国したチャールズ2世によって王政復古が実現した頃,イギリスでは( 4 )党,ホイッグ党という一種の政党が生まれたが,その背景にはコーヒー・ハウスにおける世論が少なからず影響したとされている。
 さて茶の普及は,イギリスではじめて内閣を組織した( 5 )首相が茶の関税を一気に20%近く引き下げたため,ますます加速するが,その需要は当初,イギリス東インド会社による中国茶の独占的な輸入によってまかなわれた。他方砂糖に対する需要の増大と対応する形で,カリブ海に浮かぶ島々はヨーロッパ各国によって植民地とされ,そこには砂糖キビを栽培する膨大な数のプランテーションが展開していった。皮肉だったのは,イギリスがカリブ海のマルチニクとグアドループをフランスから奪取したところ,両島からの砂糖の流入がイギリス本国の砂糖の価格を下げるとして,カリブ海の他の島のイギリス人砂糖プランターが反対運動を展開し,結局( 6 )年に結ばれたパリ条約では,イギリスは別にカナダを獲得することになったことである。いずれにしても,このようなプランテーションでは(8)アフリカから強制的に運ばれてきた大量の奴隷が酷使され,(9)悲惨な運命にたえなければならなかった
 このように,砂糖や茶の歴史を通して私達は,それらの品物によって一つにつながれ,地球規模で歴史を連動させてゆく近代社会のシステムをかいま見ることができるのである。

〔1〕 (1)〜(6)に最も適切な語句を解答欄に記入しなさい。

〔2〕 下線部について,以下の問いに答えなさい。
(1) 清代初頭にこの地に封ぜられ,のちに反乱を起こした人物の名前を書きなさい。
(2) 北魏が華北を統一した時の首都の名を当時の呼称で記しなさい。
(3) 中国のヨーロッパとの貿易港が広州一港に限定された年代を記しなさい。
(4) 十字軍の派遣を決めたクレルモン公会議が召集された年代を記しなさい。
(5) これは十字軍が接触したアラビア医学の知識を踏襲したものであるが,『医学典範』を著わしたイスラムの医学者も砂糖の効用について同様のことを述べている。この人物の名前を記しなさい。
(6) 明治以降の日本と同じく,肺病はヨーロッパでもロマン化された病気であった。『チャイルド=ハロルドの遍歴』などの作品を残したイギリスの詩人も,常日頃から「自分は肺病で死にたい」ともらしていたと伝えられている。この人物の名前を記しなさい。
(7) 彼が率いた軍隊の名前を記しなさい。
(8) アフリカにおける奴隷貿易の独占権をイギリスが獲得した,1713年に結ばれた条約の名前を記しなさい。
(9) これら植民地のうち,最初に独立した黒人国家の名前を記しなさい。

【解答3】 

[2] 以下の各文章を読み,[ A ]〜[ J ]に最も適する語を語群から選んで,その記号をマークせよ。また下線部に関する設問に答えよ。[甲南・改題]

1.(1)古来人類は様々な素材に文字を残してきたが,中国で発明された紙が[ A ]年のタラス河畔の戦いを契機に西方に伝わり,[ B ]世紀のグーテンベルクの活版印刷法の発明をて,人類は情報の大衆化の時代を迎えることとなった。

2.インド原産とされる綿は,東インド会社を通じて[ C ]世紀末のイギリスに大量にもちこまれるようになり,(2)かっての毛織物をヨーロッパから駆逐していった。また[ D ]年のジョン=ケイの飛び杼の発明をはじめとする紡績機械の改良は世界の(3)人々の衣生活を一変させるようになっていった。

3.宋代の中国で発明された火薬は[ E ]世紀の(4)モンゴルを介して西方に広まり,やがては大砲を生み出した。この破壊力のある新兵器は[ F ]世紀に始まる新大陸の征服に威力を発揮したが,多数の大砲同士の交戦は[ G ]年のイギリス海軍と(5)無敵艦隊との海戦であったとされている。

4.砂糖は正統カリフ時代のイスラム教徒によって[ H ]世紀には地中海世界にもたらされた。そしてカロリーと甘味に富む砂糖は,豊かな生活の象徴となり,[ I ]年にカイロを建設した(6)ファーティマ朝の下で大量生産された。

5.[ B ]世紀のマムルーク朝期に(7)イスラム神秘主義運動の修行者の飲み物としてもてはやされるようになったコーヒーは,(8)と並んで世界共通の嗜好品となった。しかし,産地と消費地の隔絶は[ J ]年ボストン茶会事件のように植民地と宗主国との軋轢の火種ともなった。

〔語群〕
a.6 b.7 c.8 d.12 e.13 f.15 g.16  h.17 i.18 j.741 k.746 l.751 m.909 n.969 o.989 p.1588 q.1598 r.1664 s.1733 t.1769 u.1773

〔設問1〕古代のオリエントの楔形文字が,最も多く残されている素材は何か。
〔設問2〕中世を代表するヨーロッパの毛織物の産地を一つ挙げよ。
〔設問3〕綿や毛皮・毛織物と並ぶ,世界史上で古くから重要な動物性の被服材料は何か。
〔設問4〕モンゴル帝国の創立者は誰か。
〔設問5〕イギリスと戦う前のこの艦隊の主要敵国はどこか。
〔設問6〕この王朝の奉じたシーア派と区別して,イスラムの多数派を何と呼ぶか。
〔設問7〕この運動の別の呼び方は何か。
〔設問8〕18世紀に世界の茶の最大の供給地はどこであったか。当時の国名で答えよ。

[3] 問題文の空欄( a )〜( h )を埋めるものとして,また下線部についての設問(ア)〜(オ)の解答として,最も適当なものを語群の中から選び,その番号をそれぞれ記入しなさい。[慶応・改題]

 疫病は幾度となく人類の歴史に介入した。『旧約聖書』には,( a )がイスラエル人から「契約の箱」を奪った後,疫病に襲われ,箱を返還したとの記述がある。紀元前430年,アテネはスパルタを中心とする同盟軍の攻撃を受け,数多くの避難者たちが城壁内におしかけていた。間もなく疫病が蔓延し,猖獗を極めた。歴史家( b )によって克明に記されているこの病の流行は,アテネの指導者( c )をも死に追いやったとされる。ペロポネソス同盟の勝利は,かなりの部分,疫病に負っていたのである。
 542年にコンスタンティノープルを襲った疫病は,ペストであった。ビザンツ帝国の人口の3分の1を失わせたともいわれるこの疫病は,ローマ帝国復活の夢を抱いていた( d )の野望を打ち砕く一因となった。シリアも630年代半ばにペストの来襲を受けた。その知らせを受けた二代カリフ( e )は,軍をシリア砂漠に待機させ,疫病が収まった後,(ア)ダマスクスを攻略したとされる。
 14世紀のヨーロッパを襲ったペストほど,人類の歴史に深く刻印を押した疫病はない。おそらくは中央アジアで発生したこの疫病は,1347年に黒海沿岸のカッファ(現在のフェオドシヤ)で最初にヨーロッパの人々に接触し,そこから(イ)海上交易路を伝って,(ウ)ヨーロッパ各地へ伝染した。「おお,後世の幸福な民よ,この悲惨をもはや知らず,われわれの報告を夢物語としてかたづけるであろう民よ……」とは,この疫病の流行を目撃し,詳細な証言を残した詩人ペトラルカの後世の人々に対する呼びかけである。当時の様子は,他にも,(エ)フィレンツェの悲劇的状況を描いた( f )の有名な作品からうかがうことができる。3年から4年のうちに,ヨーロッパは全人口のおよそ3分の1を失った。それは人類の経験した最も激しい人口変動であったに違いない。このような大異変が社会の各方面に影響を及ぼさないはずはなかった。ヨーロッパの各王国は税収の著しい低下によって弱体化した。(オ)フランスとイギリスの間で始まっていた戦争も,数年の間,実質的に中断された。激減した農民を領内にとどめておくために,領主が譲歩を余儀なくされた結果,農民の地位が向上した。教会もまた無傷でペストを切り抜けることはできなかった。すでに( g )によって権威が失墜していた教会は,多くの聖職者の死亡と,広大な土地を耕作できなかったことに由来する窮乏によってさらに支配力を弱めた。そして,教会に対する公然たる批判がペストの流行直後から起こった。こうしてペストは封建社会を大きく動揺させたのであった。
 14世紀以降もペストは繰り返しヨーロッパを襲ったが,18世紀の初め頃,ヨーロッパの大部分から姿を消した。病原ペスト菌は,1884年の香港における流行の際,( h )とイェルサンによってほぼ同時に発見され,ペストの予防と治療は,現在ではかなり成功を収めている。しかし,ペスト菌が存在しなくなったわけではない。1994年秋のインドでの流行が世界を驚かせたように,それは機会さえあればいつでも人類に襲いかかる可能性があるのである。

設問
(ア) 当時,この都市はどこの支配下にあったか。
(イ) 当時,地中海でヴェネツィアやジェノヴァが交易に用いていた櫂推進型の船を何と呼ぶか。
(ウ) ヨーロッパのみならず,イスラム世界でもペストは猛威を振るった。カイロは1347−49年にかけて約20万人を失ったといわれる。当時,カイロはいかなる王朝の支配下にあったか。
(エ) ( f )やデフォーなど,ペストから着想を得た文学者は多い。そのうち,1947年に小説『ペスト』を発表し,その評価を高めた人物は誰か。
(オ) この戦争が中断する前の1346年,エドワード3世はフランス北西部の戦いでフランス軍に大勝し,カレーからフランス人を追い払った。この戦闘をなんと呼ぶか。

〔語群〕
01.アイユーブ朝 02.アマレク人 03.ヴァンダル王国 04.ウスマーン 05.ウマル 06.エラスムス 07.緒方正規 08.カミュ 09.カラベル船 10.ガレー船 11.ガレオン船 12.カンタベリ大司教選任問題 13.北里柴三郎 14.教皇のバビロン捕囚 15.クレイステネス 16.クレシーの戦い 17.クレタ人 18.コッホ 19.コンスタンティヌス帝 20.ササン朝ペルシア 21.志賀潔 22.ジョイス 23.叙任権闘争 24.セレウコス朝 25.ソクラテス 26.大シスマ 27.ダウ船 28.高峰譲吉 29.ダンテ 30.ティムール朝 31.テオドシウス帝 32.テミストクレス 33.トゥキディデス 34.バストゥール 35.ビザンツ帝国 36.ヘシオドス 37.ヘブライ人 38.ペリクレス 39.ペリシテ人 40.ヘロドトス 41.ボッカッチオ 42.ポリビオス 43.ポワティエの戦い 44.マムルーク朝 45.マルヌの戦い 46.マルワーン1世 47.ムワッヒド朝 48.モンテーニュ 49.ヤジード1世 50.ユスティニアヌス帝 51.ヨークタウンの戦い 52.レオン3世 53.ローレンス 54.ロマン=ロラン

[4] 次の文の( A )〜( E )に入れるのに最も適当な語句を下記の語群Iの(ア)〜(エ)の中から選び,その記号をマークしなさい。また,下線部(1)〜(10)が正しい場合には(ア)をマークし,誤っている場合には最も適当な語句を下記の語群IIから選び,その記号をマークしなさい。ただし,同じ記号を何度マークしてもよい。[関西・改題]

 20世紀は「核の時代」であったともいわれる。放射性物質については,19世紀のうちにフランスのキュリー夫妻によって(1)プルトニウムが発見されていたが,今世紀に入ってイギリスの(2)ハイゼンベルクが原子の人工的破壊に成功し,原子核の分裂から生じる巨大なエネルギーに注目が集まった。第二次世界大戦が始まると,各国は競って原子爆弾の開発に取り組んだが,アメリカの(3)ニュー=フロンティア計画と呼ばれる開発計画は,ナチスによる迫害を逃れてやって来たイタリアの(4)フェルミやデンマークのボーアといった亡命科学者の参加を得て,進められた。第二次世界大戦の末期に,最初に原爆製造に成功したアメリカは,1945年( A )には原爆を広島に,同年( B )には長崎に投下し,日本を降伏させた。また水素原子核の融合に伴うエネルギーを用いた水爆についても,1952年にアメリカが開発に成功した。1954年には,日本の漁船第五福竜丸がマーシャル諸島の(5)ムルロア環礁で行われていたアメリカ水爆実験によって放射性物質を浴びる事件が起きた。
 核兵器保有国は,やがてアメリカ,ソ連に続き,イギリス,(6)ドイツ,中国に拡大していった。米英ソは,キューバ危機の翌年の( C )年都市に部分的核実験停止条約に調印し,大気圏の内外と水中における核実験を停止した。1968年には核拡散防止条約を締結して,5つの核保有国以外の国の核武装を禁止した。1996年になって国連総会で包括的核実験禁止条約が成立し,地下実験を含むすべての核実験が禁止された。しかし中国と(6)ドイツは,成立前に駆け込みで核実験を強行した。また,この条約に参加しなかった(7)イランは,1998年に核実験を行い,これに対抗して(8)パキスタンも核実験を行って,ともに新たな核保有国になった。
 核による人類の滅亡の危機の高まりのなか,核兵器の廃絶を求める運動が繰り広げられた。1950年には核兵器の無条件禁止を訴えるストックホルム=アピールが出され,1955年には,ラッセル,アインシュタイン,湯川秀樹ら11名の学者が集まり,核戦争の危機に警鐘を鳴らす宣言を発表した。ラッセルとアインシュタインの提唱で,( D )年にカナダで開かれた(9)オタワ会議は,その後の科学者による核兵器禁止運動をリードした。被爆国である日本では,第五福竜丸の被爆をきっかけに原水爆禁止運動が高揚し,世界的な平和反核運動に発展した。
 兵器としてではなく,原子核分裂の巨大なエネルギーを制御しつつ利用する技術も発展した。なかでも,もっとも重要な応用分野は原子力発電であるが,1970年代のアメリカで起きた(10)スリーマイル島原発の事故や,( E )年のチェルノブイリ原発で起きた爆発事故は,原子力発電事故の危険性を世界に知らしめた。

〔語群I〕( A )〜( E )
( A )(ア)8月6日 (イ)8月9日 (ウ)8月15日 (エ)12月8日
( B )(ア)8月6日 (イ)8月9日 (ウ)8月15日 (エ)12月8日
( C )(ア)1955 (イ)1957 (ウ)1962 (エ)1963
( D )(ア)1955 (イ)1957 (ウ)1962 (エ)1963
( E )(ア)1979 (イ)1981 (ウ)1986 (エ)1989

〔語群II〕(1)〜(10)
(ア)(文中の語句のまま) (イ)アポロ (ウ)バンドン (エ)ビキニ (オ)セシウム (カ)フランス (キ)ソロモン (ク)インド (ケ)イラク (コ)ブラジル (サ)マルコーニ (シ)南アフリカ (ス)パグウォッシュ (セ)イスラエル (ソ)ラジウム (タ)ニューファンドランド (チ)ロング=アイランド (ツ)マンハッタン (テ)ラザフォード (ト)オッペンハイマー

[5] つぎの文をよく読んで,[ 1 ]から[ 15 ]の空欄に,以下の語群から適当な語を選んで解答欄にマークせよ。[法政・改題]

 私たちがローマ字と呼んでいる[ 1 ]=アルファベットは古代ローマの公用語を表記する文字であった。この文字は,ローマ帝国の勢力拡大と,その後のキリスト教の布教にともなって,地中海から北欧にいたる広い範囲で使用されるようになった。16世紀以降になると,この文字は南北アメリカなど,ヨーロッパの外でも使われるようになり,現在では世界でもっとも広く使われる文字となっている。
 ところで,[ 1 ]=アルファベットは[ 2 ]文字から生まれた。紀元前8世紀ごろから[ 2 ]人は植民活動を活発におこない,これにともなって広い範囲に彼らの文字が伝わった。イタリア半島では紀元前7世紀ごろに栄えた[ 3 ]人が[ 2 ]文字に手を加えて自分たちの言葉を表記した。ローマ人は[ 3 ]人との交流のなかでその文字を借用し,やがて自分たちの文字を完成させた。[ 2 ]文字から派生したのはこれだけではない。ロシア文字もそうであるし,現在では使用されなくなったゲルマン人のルーン文字,アフリカ北部のコプト文字も[ 2 ]文字から生まれたとされている。
 [ 2 ]文字も,突然生まれたものではなかった。この文字は[ 4 ]文字と通称される北西セム文字から生じたことがわかっている。この文字を使った人々は,現在のレバノン海岸から起こり,紀元前12世紀ごろには地中海貿易をほぼ独占していた。この文字は紀元前2千年紀のなかごろには生まれ,[ 2 ]人が文字を借用したのは紀元前9世紀ごろのこととされている。
 [ 4 ]文字の起源はエジプトの象形文字であったらしい。この文字のもっとも古い形は紀元前3000年以上前には出現していたが,次第に洗練され,いくつかの簡略化された書体を生み出していた。現在いわれているところでは,この文字から紀元前18世紀ごろのものと思われるシナイ文字が生まれ,これから[ 4 ]文字がつくられたのである。
 [ 4 ]文字はヨーロッパ系の文字のもとになっただけではなかった。紀元前12世紀から8世紀ごろ,[ 4 ]の東側には[ 5 ]人がいた。広い範囲で商業活動をおこなっていた彼らの言葉は,彼らの国を滅ぼしたアッシリア王国で,その後は新バビロニア,アケメネス朝ペルシアでも使用された。これにともなってその文字は西アジア一帯で広く利用され,現在イスラエルで使用されている[ 6 ]文字もこれと深い関係にある。また,[ 5 ]文字からは[ 7 ]文字が生まれた。この文字はコーランを書き記すために使用されていたため,広くイスラム圏で使われるようになり,東はマラヤ半島から西はアフリカに至る地域まで使われた。現在でもペルシア語を表記するためにイランで使われており,また1928年のムスタファ=ケマルによる文字革命まで[ 8 ]においても利用されていた。
 一方,東方では[ 5 ]文字からはソグド文字が生まれた。この文字を生んだ人々は西域方面ではば広く交易活動をおこなっていたために,その文字も広く伝わり,トルコ系の諸民族が自分たちの言葉を表記するためにここから新しい文字を編みだした。6世紀ごろから長城の北方に大きな勢力をきずいた[ 9 ]の文字や,少しのちの8世紀ごろにモンゴリア高原に勢力をきずいた[ 10 ]の人々の文字がこれにあたる。こうして[ 5 ]文字を起源とする文字は,まったくことなる系統の言語をもつ東アジアにおいても使われるようになった。もっとも東方で使われたのは,清朝の太祖(ヌルハチ)が命じてつくらせたという[ 11 ]文字で,これは[ 10 ]文字と同様,縦に書かれた。
 インドでは現在も多様な文字が利用されているが,それらの基礎となっているのは,アショーカ王の碑文に記されているブラーフミー文字で,これは[ 4 ]文字を起源とするものとされる。ブラーフミー文字は北方系と南方系に分かれ,その後多くの文字に派生してゆくが,7世紀にソンツェン=ガンポが命じてつくらせた,とされる[ 12 ]文字は北方系で,東南アジア諸国で使用されている多様な文字のほとんどは南インド系を起源としている。
 東アジアでは漢字が多くの文字の基礎となった。日本のかな文字が漢字の使用のなかから生まれたことはよく知られているが,11世紀にタングート族が建てた国の[ 13 ]文字,陳朝時代につくられ,フランス統治下に使われなくなった[ 14 ]のチュノムも起源は漢字である。10世紀に遼の国で使われた[ 15 ]文字は[ 10 ]文字と漢字の双方を利用したものとされている。これらのあるものは,現在まで解読されていない。

a.アラビア b.アラム c.ウイグル d.エトルリア e.契丹 f.ギリシア g.西夏 h.チベット i.突厥 j.トルコ k.フェニキア l.ヴェトナム m.ヘブライ n.満 州 o.ラテン

[6] つぎの文を読み,下記の問いに答えよ。[法政・改題]

 地球上の人間が最初に認識する自然の周期は1日,つまり日の出・日の入りの繰り返しだろう。それより長くて同じように認識しやすい周期は月の満ち欠けであり,この周期を1カ月として組み立てられたのが,シュメールに始まったと言われる太陰暦だ。しかし,農業生産のためには地球が太陽の周りを一周することで生じる季節の循環が重要なのだが,その一周に要する時間(1太陽年)は約365日であるのに月の満ち欠けの周期は約29日半で,太陰暦では暦の上の月日と実際の季節がずれてしまう。そこで古代世界の各地で,数年に一度,閏月を挿入してそのずれを調整する太陰太陽暦が工夫された。
 オリエントでは,前20世紀頃[ 1 ]が建設したバビロン第一王朝時代に太陰太陽暦が成立し,西アジア各地に広がった。これに対し,古代エジプト人は長年の観測の結果,恒星シリウスが日の出直前に昇るようになると(ア)ナイル川が増水しはじめること,その周期が約365日であることを知り,世界で最初の太陽暦を成立させた。前48年に宿敵[ 2 ]を追ってエジプトに来てこの太陽暦を知った[ 3 ]は,自国で用いられていた太陰太陽暦と実際の季節のずれを修正するため前46年を445日とした上で,翌年から太陽暦を導入した。その後長くヨーロッパで用いられることになるこの暦は,平年を365日,4年ごとの閏年は2月に1日加えて366日とするものだった。だが実際の太陽年は平均で365.2422日で,このわずかな誤差ゆえに16世紀末には,この暦による春分の日と実際の太陽年の春分との間に10日のズレが生じていた。これではキリスト教にとって重要な復活祭の日付決定に支障をきたすため,教皇[ 4 ]世は年数が4で割り切れる年を閏年とするが,100で割り切れる年は上2桁が4で割り切れる年だけを閏年とする修正をおこなった。これが現在,世界のほとんどの国で採用されている太陽暦である。フランス革命時には,国民生活へのキリスト教の影響を断ち切るべく(イ)革命暦が採用されたこともあったが,(ウ)アウステルリッツの戦いがあった[ あ ]年に廃止が決定され,翌年からこの太陽暦に復帰した。
 中国では,河南省[ 5 ]市から発掘された甲骨文によって前1300年頃から太陰太陽暦が採用されていたことが立証された。その後,王朝や為政者の交替にともなって改暦が頻繁に行われ,(エ)前104年に行われた太初改暦以後,清代に至るまでに50回以上の改暦があった。その中で,[ 6 ]が作成し1281年から施行された[ 7 ]暦は,中国天文学を集大成したすぐれた暦法で,のちに名は変わるものの,中国史上最長の364年間用いられた。中国が教皇[ 4 ]世制定の太陽暦を採用するのは,中華民国建国の[ い ]年のことであった。
 イスラム以前のアラビアの暦は太陰太陽暦だったが,ムハンマド没後,第2代カリフの[ 8 ]1世の時代に,ヒジュラがイスラム国家建設の出発点だったという認識に立って,[ う ]年を紀元元年とするイスラム暦が定められた。イスラムの人々が宗教的行事に用いるこの暦は,神が天地を創造した時の月数を12と記す『コーラン』に従って閏月を置かない,純粋な太陰暦として知られる。しかし,これでは現実の日常生活には不便で,イスラム世界でも,たとえばエジプトでは古代太陽暦に起源を持つコプト暦,イランでは『ルバイヤート』の作者[ 9 ]が制定に参加し,(オ)セルジューク朝の黄金時代の王[ 10 ]の称号にちなんで「ジャラリー暦」と呼ばれる太陽暦が併用されてきた。これら古来の太陽暦の他,今日では前述のローマ教皇制定の太陽暦とイスラム暦とを併用する国もある。

問1 文中の空欄[ 1 ]〜[ 10 ]に最も適する語を下記の語群から選び,その記号を解答欄にマークせよ。解答方法は以下同じ。
〔語群〕
a.アッカド人 b.ウマル c.宋応星 d.マリク=シャー e.クラッスス f.授時 g.ポンペイウス h.ワリード i.安陽 j.フィルドゥシー k.オクタヴィアヌス l.王実甫 m.トゥグリル=ベク n.アムル人 o.大統 p.カエサル q.サーディー r.郭守敬 s.グレゴリウス7 t.オマル=ハイヤーム u.貞享 v.グレゴリウス10 w.フルリ人 x.鄭州 y.グレゴリウス13 z.アントニウス

問2 文中の空欄[ あ ]〜[ う ]にあてはまる数字を下記の中から選べ。
a.612 b.622 c.632 d.642 e.1804 f.1805 g.1806 h.1807 i.1910 j.1911 k.1912 l.1913

問3 下線部(ア)について,「エジプトはナイルの賜物」という名言で知られる人物はつぎの誰か。
a.ヘロドトス b.プリニウス c.トゥキディデス d.ストラボン

問4 下線部(イ)の暦は1カ月を30日とし,1年のうち5日は革命時の都市民衆にちなんだ名称を持つ祭日とした。その名称とはつぎのどれか。
a.第三身分の日 b.ラ=マルセイエーズの日 c.サンキュロットの日 d.ヴァンデーの日

問5 下線部(ウ)と最も関連のうすい人物はつぎの誰か。
a.フランツ2世 b.アレクサンドル1世 c.小ピット d.ウェリントン

問6 下線部(エ)の改暦を行った皇帝は,中国で最初の元号を制定した皇帝でもある。その皇帝とはつぎの誰か。
a.高祖 b.景帝 c武帝 d.元帝

問7 下線部(オ)の黄金期を現出した名宰相が,自らの名を冠して各地に創設した教育施設はつぎのどれか。
a.ワスィール学院 b.ニザーミーヤ学院 c.アズハル学院 d.マドラサ学院

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3.時事テーマ

[1] 以下の文章を読んで,空欄[ A ]〜[ E ]に最も適切な語句を記入しなさい。[明治学院・改題]

 自然界にない人工化学物質が私たちのまわりに登場したのは,20世紀になってからのことである。この世紀の大量生産,大量消費は,同時に大量の廃棄物を生んで,公害を発生させた。さらに今日では,二酸化炭素による温室効果を原因とする[ A ]化,フロンガスの放出を主な原因とする[ B ]層の破壊,車の排気ガスに含まれる窒素化合物やゴミ焼却場等の排出する亜硫酸ガスが,大気中で硝酸に化学変化して雨や雪とともに降下する現象である[ C ],過度の放牧や耕作,森林破壊などによる[ D ]化などの深刻な環境問題が生まれている。こういった状況を受けて,1992年ブラジルで,[ E ]が開催され,開発途上国の貧困を軽減するとともに,自然と調和した経済開発の必要性を強調した「リオ宣言」が採択された。

[2] 次の文中の( a )〜( e )にあてはまる事項を,下の語群1〜9から選びなさい。[慶応・改題]

 ローマクラブが『成長の限界』で,地球資源の有限性の観点から無限の経済成長の不可能性を報告した1972年,国連は世界人間環境会議を開催し,環境保護を訴える( a )宣言を採択した。
 1979年,NATO(北大西洋条約機構)がアメリカの中距離ミサイルを西ドイツに配備することを決定すると,西ヨーロッパ各地で反核運動が展開された。核実験の場となった南太平洋の諸国は,1985年( b )条約をむすび,非核地帯宣言をおこなった。アメリカの( c )島やソ連の( d )における事故で,原子力発電の危険性もまた認識されるに至った。
 1980年代以降深刻化した酸性雨,地球温暖化,オゾン層破壊などの地球環境問題をめぐって,市民運動は反核運動と連携して成長し,環境保護を求める動きは大きな世界的潮流となった。NGO(非政府組織)も参加した1992年の地球サミットでは,「持続可能な発展」という概念が提示され,( e )宣言が採択されている。

[語群]
1.ウラジヴォストーク 2.京都 3.コペンハーゲン 4.ストックホルム 5.スリーマイル 6.チェルノブイリ 7.ムルロア 8.ラロトンガ 9.リオデジャネイロ

[3] 次の文章を読んで[ A ]〜[ M ]にもっとも適切な語句を記入し,下線部〔1〕と〔2〕についてあとの問いに答えよ。[立命館・改題]

(1) カナダのケベック州は日本の約4倍の大きさで,最大の都市[ A ]の名は日本人にも親しい。ここでは,フランス人が17世紀初頭から植民活動を展開していたが,1763年フランスは〔1〕植民地戦争に敗れ,領有権を失うことになった。しかし,今日でもフランス系住民が80%をしめ,宗教では[ B ]系のキリスト教徒が90%をしめていて,分離独立の問題がくすぶりつづけている。

(2) ベレー帽で有名な[ C ]人は,ピレネー山脈をはさんでフランスとスペインにまたがる地域に居住する。彼らの歴史は古く,インド=ヨーロッパ語を話す民族がヨーロッパに入る以前からこの地に住んでいたともいわれている。1936年スペイン内乱が勃発すると,[ C ]人の自治政府が樹立されたが,[ D ]政権が成立する過程で瓦解,その後同政権によって民族運動はきびしく弾圧された。1959年,この地域の独立をめざして結成された組織ETAは,しだいにテロ活動をエスカレートさせ,現在も国内に深刻な問題をなげかけている。

(3) 19世紀以来,ユダヤ人の故郷とされるパレスティナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする〔2〕[ E ]運動が高まった。1948年,イスラエルが独立を宣言,その後アラブ諸国とイスラエルのあいだに4次にわたる[ F ]戦争が起こり,イスラエルに追われた多数のパレスティナ難民が生まれた。パレスティナ人はパレスティナ解放機構(PLO)を結成,指導者[ G ]議長のもとで抵抗運動を展開してきたが,問題解決の前途は多難である。

(4) クルド人の居住地域はいくつもの国によって分断されているが,その人口と,地域住民のなかでクルド人がしめる割合からして,トルコ,[ H ],イランの3国にまたがる地域がその中心であるといってよい。なかでも多数のクルド人をかかえるトルコでは,第一次大戦後オスマン=トルコに対して結ばれた[ I ]条約でクルド人国家の建設が明記されたが,[ J ]が新政権を樹立してこの条約を破棄したため,クルド人の独立は実現しなかった。現在トルコ政府は,クルド人を「山岳トルコ人」と呼んで,国内に「クルド人」が存在することさえ認めようとしていないが,抵抗運動は根強い。

(5) 1919年,[ K ]の保護国であったアフガニスタンが独立を達成した。当初は王政であったが,ソ連の支援をうけてクーデタが起こり,1978年には共産主義体制が成立した。これに対して[ L ]教徒が反発の姿勢を明確にしたが,共産主義政権の崩壊を懸念したソ連は軍事介入し,戦争となって,多数のアフガニスタン難民が周辺国に逃れる事態となった。1985年,ソ連は[ M ]政権成立によって和平路線に転じ,ソ連軍は1989年2月までに撤退した。しかし,アフガニスタンの国内事情は複雑で,内戦がつづき,和平への道は,なお遠いようにみえる。

〔1〕この戦争を何と呼ぶか。
〔2〕この運動の指導者で,「[ E ]の父」と呼ばれるジャーナリストは誰か。

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