1. 東アジア史

1.東アジア史(中国・北アジア)

[1] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 春秋時代末期から戦国時代にかけ,周の[ a ]が崩れると,新たに台頭してきた諸侯たちは,(1)富国強兵を図り君主権の強化に努めた。一方思想界にもさまざまな学派が生まれ,自らの思想を諸侯に説いてその実行を図るとともに,その主張を著作としてまとめあげた。これらの学派の中には,儒家の仁愛を別愛としてしりぞけ[ b ]を説いた墨家,無為自然を主張した道家,あるいは法至上主義の(2)法家,事物と名辞の関係を追求した[ c ],そして陰陽家,兵家,(3)縦横家などがあった。このような思想家集団を総称して諸子百家と呼ぶ。もともと儒家の教えもその1つに過ぎなかったが,前漢の武帝の時に,彼らの古典である経書を講ずべく[ d ]が置かれ,(4)国教とされることによって,儒教は,その後ながく中国の政治・文化の上に君臨する基礎を築いた。やがて道家を除く他の諸子は,歴史の表面から消えていき,学派として再び活動することはなかったか,中国人の思想・文化を形づくるものとして重要な役割を果たしてきた事実は,見逃すことができない。

問(1) 戦国時代,最初に富国強兵を実施した諸侯の国をあげよ。
(2) 秦の孝公が登用した法家の人物は誰か。
(3) 彼らが主張した外交策を1つあげよ。
(4) 儒教の国教化に功績のあった人物は誰か。

[2] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 中国における国家の形成は,黄河流域に始まる。この地域に興った殷と周は,高度の文化を有していたが,いずれもまだ[ a ]国家の段階であって,各地方を直接に領有していたわけではなかった。一方,長江流域には早くから稲作文化が発達していたが,この地域に国家の動きが活発になってくるのは,(1)春秋時代以後である。戦国時代になると,長江中流地方に興った[ b ]国が広大な領域を支配した。しかし,結局は,渭水盆地に拠る秦に滅ぼされた。秦は(2)(3)黄河・長江の二大河川流域を統一することに成功したが,まもなく(4)内乱のために滅亡した。
 黄河流域を直接の基盤とし,長江流域を支配下に収めて統一国家を形成するという政治のパターンは,その後もくりかえされる。漢が,建国後,(5)長江流域の封建諸侯を中心とする反乱を鎮圧して中央集権政治を確立したのも,その表れと見ることができる。
 漢はさらに[ c ]を制圧して,長城外の地方を征服した。これによって,中国王朝が(6)非漢民族を包摂して一種の世界帝国を形づくる例が開かれた。後漢時代には,外国に対する知識が,(7)東西に向かって拡大した
 しかし紀元2世紀以降,巨大化した帝国権力には,分裂の兆しが現れる。皇帝が親政することが少なくなり,(8)側近勢力による政権の私物化をめぐって政争が激化し,ついで(9)宗教反乱が国家を崩壊にみちびいた。各地に軍閥勢力が発生し,全国は三分された。やがてその1つである魏が[ d ]を併合し,これを受けた西晋が全国の再統一に成功したが,それもつかの間,帝室内部の争いが(10)内戦に発展し,これに乗じて(11)各種の非漢民族が独立して国を建てた。漢族政権は(12)長江流域に移って再建をはかった。以後,数世紀にわたる南北の分裂は,かえって長江流域に経済と(13)文化の発達をもたらした。
 この分裂状態を統一にみちびいたのも,やはり黄河流域の政権であった。モンゴル高原で遊牧系の諸民族を結集していた[ e ]族の拓跋部が,南進して(14)(15)北魏王朝を建設し,[ f ]世紀の前半,(16)黄河流域を統一した。ついで長江流域の併呑を目指したが果たさず,内乱によって崩壊した。この南北統一の事業は,隋によって実現された。このようにして長江流域はふたたび(17)(18)北方の政治権力と結びつくことになったのである
 国内を統一した隋はさらに対外的な国力伸張をはかったが,(19)(20)高句麗の征服に失敗した。唐は隋末の内乱を平定し,さらに突厥の制圧に成功して,その支配下にあった(21)(22)諸民族を服属させた。こうして形づくられた版図の大きさは,漢代のそれを越えている。しかし[ g ]年,タラス河畔で受けた軍事的打撃は,(23)大唐世界帝国の拡大が限界につき当たったことを示すものであろう。

問(1) 春秋時代に長江下流地方に興った国の名を1つあげよ。
(2) 秦の君主は全国平定ののち皇帝と称したが,それまで最高の君主は何と称していたか。
(3) 秦の領土には,今日の甘粛省西北部は含まれていない。この地方がはじめて中国王朝の領有下に入ったのはいつか。王朝名と皇帝名で答えよ。
(4) この内乱のさきがけをなした民衆反乱の指導者の名を1人あげよ。
(5) この事件は何と呼ばれるか。
(6) 漢はほぼ同じ時期に南方に兵を進め,現在の広州市付近を首都とする現地民族の国を滅ぼしてヴェトナム北部まで版図を拡大した。その国の名を記せ。
(7) 当時の中国人の世界知識において最も西方に位置した国は,何と呼ばれたか。国名を記せ。
(8) 当時の側近勢力には2つの大きな勢力があった。その勢力とは外戚と何とであったか。
(9) この宗教反乱は何と呼ばれるか。
(10) この内戦は何と呼ばれるか。
(11) これらの国々を総称して何というか。
(12) その首都はどこに置かれたか。現在の都市名で答えよ。
(13) 東晋・南朝では,江南の美しい風物に託して作者の心情を吐露する山水田園詩が発達した。このような詩の作者として有名な人物を1人あげよ。
(14) 北魏王朝とほぼ同じ時期に,インドではどのような国家が繁栄したか。その王朝名をあげよ。
(15) 北魏王朝とほぼ同じ時期に,イランではどのような国家が繁栄したか。その王朝名をあげよ。
(16) 北魏は荒廃した農村を再建するために均田制を創設したが,その理念は,周代に行われたとされる理想の土地制度にもとづいている。その土地制度は何と呼ばれるか。
(17) 南北の再統一を象徴するものは,隋の大運河建設である。当時,大運河によって租税として華北に運ばれた主要な物資を1つあげよ。
(18) 大運河の南端はどこか。現在の都市名で答えよ。
(19) 当時,高句麗の首都はどこにあったか。
(20) 高句麗は唐に滅ぼされるが,その後,遺民によって中国東北地方を中心に国家が建設された。その国の名を記せ。
(21) このために唐は各地に出先機関を置いた。その機関の名称を記せ。
(22) 7世紀後半以後,諸民族が唐朝の支配を脱しようとする動きが強くなったので,唐は辺境支配を強化しなければならなくなった。そのために設けられた官職の名をあげよ。
(23) この事件の数年後,中国国内に大乱が起こった。それは何と呼ばれるか。

[3] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 春秋戦国時代には,交換経済が発達した。この時代に初めて[ a ]貨幣が出現したが,その形態は地域によって異なった。秦の始皇帝が全国を平定すると,貨幣は一定の形式に統一された。漢の武帝は民間の流通経済に介入して,国家財政の回復につとめた。このころから土地に対する投資が盛んになり,[ b ]や佃客を使役して広大な私有地を経営する豪族階級が成長した。[ c ]は復古主義の政策によってこれを抑えようとしたが失敗におわり,これ以後,社会は土地を基本とする経済の傾向を一層強めた。三国時代になると,各国の政府自身が兵士や土地を失った農民を組織して大規模な農業経営を行うようになった。

問(1) 漢の武帝の実行した財政策のうち,物価の地域差を利用して収入増加をはかる政策を何というか。
(2) 三国時代に行われた上述の国営農業を何というか。

[4] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 領土国家として最初の統一を達成した秦は,始皇帝の死の直後に勃発した最初の農民反乱とされる[ a ]を契機に崩壊し,代わって(1)漢が興る。前後およそ400年続いた漢は,外戚の王モウによって一時中断される。(2)王モウ政権は時代錯誤的な政策で社会の混乱を引き起こし,[ b ]や豪族の反乱で滅び,光武帝劉秀が漢を再興する。後漢の後半期は宦官と外戚との激しい権力抗争が繰り返され,(3)黄巾の乱で事実上滅亡する。この乱の鎮圧過程で台頭した群雄が最終的に三国を樹立するのである。三国の分裂を統一したのが西晋であるが,王族が帝位継承に介入して引き起こされた八王の乱,それに続く永嘉の乱によってその統一は短期で崩壊し,五胡十六国および南北朝の大分裂時代へと展開する。この大分裂の時代に終止符を打ち,およそ270年ぶりに中国の統一を達成したのが隋である。隋は2代目煬帝の失政によって全国各地に反乱がおこり,(4)わずか40年たらずで滅び,唐が興る。唐はおよそ300年続くが,ちょうど中頃に当たる8世紀半ばに勃発した安史の乱以降は次第に衰退していき,[ c ]の自立化の傾向が強まった。そして9世紀後半の10年にわたる[ d ] によって群雄割拠の状態となり,再び五代十国という分裂の時代をむかえることになった。

問(1) 秦末の動乱期に漢の高祖劉邦と天下の覇権を争った人物は誰か。
(2) 王モウの樹立した王朝名は何か。
(3) 張角の指導の下にこの反乱の中心となった組織は何か。
(4) 隋滅亡の最大の原因は何か。

[5] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 紀元前221年に中国全土を統一した秦は,わずか15年で滅亡し,劉邦が長安に都を定めて漢王朝を建てた。第7代の武帝は,全国を直接に支配する中央集権体制を確立し,はじめて年号を定め,儒学を官学とした。武帝は対外的にも積極策をとり,東北では(1)朝鮮半島北部に遠征して4郡をおき,南は[ a ]を滅ぼしてヴェトナム中部まで支配した。これらの外征によって国家財政は苦しくなり,その打開策として,均輸・平準法や,国が利益を独占する[ b ]の専売を行った。
紀元前後の中国では,漢王室の外戚であった王モウが,古代儒教の理想政治を実現させようと,政権奪取に向けて派手な言行を積み重ねていた。漢を纂奪して即位した王モウは,国を新と号し,地方制度の大規模な組織変更や貨幣の改鋳を断行した。しかし,あまりにも急激な改革であったので,行政機構などを混乱におとしいれ,各地に反乱が相次いで,新はわずか15年で幕をおろす。
王モウが,新王朝を発足させるに当たって,禅譲革命の形式を整えようとしたことは,その後につづく諸王朝に大きな影響を与えることになった。中国では,王朝が交代することを,天命が革(あらた)まる,すなわち革命と称した。その革命の仕方に二つの方式があり,武力で前の王朝を滅ぼすのを[ c ]とよび前の天子が平和的に一族以外の有徳者に位をゆずるのを禅譲という。禅も譲もともにゆずるという意味である。禅譲は,中国上古の伝説上の天子,堯が有徳の舜に位を譲り,その舜がまた禹に位を譲ったのを見習おうとするもので,歴史時代になっては,この王モウが先例を開いたのであった。
漢王朝を再興した後漢の光武帝劉秀は,王モウ政治の全否定を標榜したにもかかわらず,(2)儒学の尊重に関しては,儒教の理想国家を夢見た王モウの後継者であった
後漢の献帝から禅譲されて,(3)国を魏と号したのが曹丕で,後漢の国都をそのまま都とした。禅譲の方式は,これ以後,両晋・南北朝,隋唐・(4)五代の諸王朝をへて,960年に[ d ]が宋を建国するまで受けつがれる。しかし,宋からモンゴル族の元王朝に交代する段階以降は,踏襲されなかった。

問(1) 4郡のうち,代表的な郡名を1つあげよ。
(2) 後漢の儒学は,訓詁学が中心であった。代表的な学者を1人あげよ。
(3) 後漢や魏が国都を置いた都市名をあげよ。
(4) 五代の諸王朝のうち,開封の地に国都を置かなかった王朝名をあげよ

[6] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 前後400年におよぶ漢王朝は,2世紀末の黄巾の乱を契機に急速に衰えて,群雄割拠の状態のなかから(1)・蜀・呉という三国鼎立の時代となった。蜀を滅ぼした魏は,その直後に権臣[ a ]に取って代わられ,西晋が建てられた。西晋は280年に呉を併合して中国を再統一するが,[ b ]と呼ばれる一族間の権力抗争によって短期間で衰亡した。この機に乗じて五胡勢力が華北に次々と十六国を建てた。華北を追われた西晋の一族は江南に逃れて晋王朝を再建した。これが(2)東晋である。その後,江南では東晋に代わって宋・斉・梁・陳の四王朝が興亡した。一方,華北での大分裂に終止符をうったのが五胡の1つ,鮮卑族[ c ]部の北魏であり,従前の五胡十六国の短命王朝と異なり,長期安定政権を実現した。それは国初以来,中国化政策を採り続けた結果で,均田制や三長制をはじめとする[ d ]の漢化政策は最も有名である。ところが,彼のあまりにも徹底した漢化政策は逆に鮮卑族の反発をまねき,国内全域にまたがる大内乱を引き起こすこととなり,北魏は東西に分裂した。その後,華北は[ e ]によって統一されたが,数年後に隋に滅ぼされた。(3)はさらに南朝を併せて全国の統一を完成した。

問(1) 魏の建国者は誰か。
(2) 江南に再建された晋王朝を東晋と呼ぶのはなぜか。
(3) この王朝で創設された重要な制度を1つあげよ。

[7] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 漢を再興した[ a ]が朝廷を置いた洛陽は,続く魏・晋王朝の都にもなった。(1)左思の「三都賦」が愛読されて,「洛陽の紙価を貴からしむ」という言葉を生み出したのは晋代のことである。しかし,まもなく起こった(2)永嘉の乱にはじまる五胡十六国時代では,北族支配下の地方都市に転落する。南遷した東晋王朝による洛陽回復も一時的なものに止まった。
 洛陽が首都の地位に返り咲いたのは,北魏の第6代皇帝孝文帝が(3)南朝征討を口実にして強引に挙行した(4)遷都による。これは漢化政策の一環であったが,王朝の東西分裂の遠因ともなった。そのうち西魏の系統を引く隋・唐が統一を回復すると,洛陽は西京の長安に対して東都と呼ばれた。副都とは言っても,(5)穀倉地帯である南方により近いこともあって,唐朝の前半期には皇帝が臣下を引き連れて洛陽に滞在することもしばしばであった。(6)則天武后の時代には「神都」と呼ばれて事実上の首都だったこともある。北魏以来の仏教文化も健在で,南郊の[ b ]の造営も続いていた。
 安史の乱以後,洛陽の政治的地位は低下する。中央政府に反抗的な(7)節度使たちを牽制する重要な位置を占めていたものの,皇帝が行幸することはなかった。しかし,(8)官界から身を引いた士大夫たちの隠退の地として愛された。
 黄巣の反乱軍から投降した[ c ]が904年に朝廷を洛陽に遷したが,やがて自らの王朝をつくると,洛陽から程遠からぬベン州(開封府)を都とした。洛陽に首都を置いた後唐を除き,宋朝に至るまでそれが続く。この東京に対して,洛陽は西京とされたが,唐の時代以上に官僚の隠退の地という性格を強めていく。神宗が起用した[ d ]による政治改革に反対して朝廷を去った司馬光が(9)『資治通鑑』を編さんしたのも洛陽においてであった。「中原(ちゅうげん)」という言葉が狭義には洛陽一帯を指すように,洛陽は長く天下の中心と意識されてきたが,宋代以後歴史の表舞台となることはなかった。

問(1) この作品を収めた『文選』の編集の総裁は誰か。
(2) 310年,動乱の洛陽にやってきて以後,仏教の普及に努めた西域出身の僧侶の名を答えよ。
(3) 当時の南の王朝は武人の蕭道成がはじめたものである。その王朝名を答えよ。
(4) 北魏のそれまでの都はどこか。
(5) 穀倉地帯と長安・洛陽を結ぶのは大運河であるが,そのうち長江とつながる江南河の起点はどこか。
(6) 則天武后がつくった王朝の名を答えよ。
(7) 10節度使を置いて,その強大化への道を拓いた皇帝の名を答えよ。
(8) その一人で,「長恨歌」の作者は誰か。
(9) この本の記述の始点は,春秋時代の強国晋の臣下であった三家が諸侯として認められた時点に置かれている。その三家がそれぞれつくった国の名を答えよ。

[8] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 8世紀半ばの中国では,唐が安史の乱を契機に次第に国力を低下させ,各地には藩鎮と呼ばれる軍閥が割拠するようになった。そして黄巣の乱で唐は事実上滅び,およそ半世紀間の武人支配の時代,五代十国の大分裂の時代に突入していく。この分裂を統一した宋は徹底した[ a ]をとり,もっぱら(1)科挙によって官僚を採用して,[ b ]を強化した。しかし一方では,国防力の弱体化は避けられず,北方の遼や西北方の西夏の軍事脅威に苦慮し,遼とは(2)セン淵の盟,西夏とは慶暦の和議を結んで,莫大な歳幣を支払わねばならなかった。加えて,[ a ]による官僚の増加,対外的な軍事費の増大などによって財政は窮乏し,抜本的な財政再建に迫られることになった。ここに登場したのが王安石で,彼の実施した(3)新法は大きな成果を挙げた。新法は多面的で相互に有機的に連関する内容を持つが,既得権益を大幅に抑制された大地主や大商人の利害を代弁する旧法党官僚による激しい反対で挫折した。王安石失脚後の中央政界は新法党と旧法党の政争が続き,政治は大きく混乱した。12世紀初め,東北部で急激に興起した金に対する外交策を誤った宋は,金によって首都開封府を攻め落とされ,[ c ]の二帝は東北部に拉致された。この事件を靖康の変と呼ぶ。江南に再建された南宋では,金との主戦派と(4)和議派が対立したが,和議派が勝利して[ d ]を国境線とする和議が結ばれ,13世紀前半まで,両者はほぼ和平の関係を維持することになる。

問(1) 科挙とは「科目による選挙」の略称である。最もエリート・コースとされた科目は何か。
(2) セン淵の盟の「セン淵」とは何か。
(3) 商業関係の新法を2つあげよ。
(4) 和議派の中心人物は誰か。

[9] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 13世紀初め,モンゴル族のチンギス=ハンはモンゴル高原の遊牧諸部族を統一し,西方遠征を行なって,イラン・中央アジアを支配したトルコ系イスラム王朝[ a ]を制し,ついで西北インドに侵入したのち,軍をかえして西夏を滅ぼした。彼の死後もモンゴル族はさらに征服地を拡大し,東方ではオゴタイ=ハンの時に金を滅ぼして華北の地を併せ,クビライ=ハンの時にその地に元朝をたて,ついで南宋を滅ぼして全中国を支配した。西方ではバトゥが南ロシアからヨーロッパにまで軍を進めてキプチャク-ハン国をたて,フラグは[ b ]を攻略してアッバース朝を滅ぼしイル-ハン国をたてた。かくして広大な領土を支配したモンゴル帝国の時代には,「モンゴルの平和」を背景にしてユーラシア大陸にまたがる交通や交易が栄え,また海路による東西交通も盛んであった。中国へ陸路で来た人物としてはマルコ=ポーロ,海路では[ c ]が有名である。

問(1) モンゴル族にはハンの推戴や遠征など重要なことがらを決定するための部族有力者の会議があった。それを何というか。
(2) 元朝の中国支配はモンゴル至上主義を特徴とするが,身分的に最下位に位置づけられた人々を何と呼んだか。

[10] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 遼が滅ぶと,モンゴル高原では部族間に争いが起こり,その末にモンゴル部のテムジンが諸部族の統一を達成し,ハン位についた。モンゴル軍は中央アジアのカラ=キタイや[ a ]を滅ぼし,西夏・金を倒し,高麗を服属させた。さらに[ b ]の率いる軍はロシアからヨーロッパにまで攻め入り,モンゴル帝国はユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国に発展した。しかしチンギス=ハンの死後,モンゴル帝国には内部分裂が生じ,[ c ]の乱が起こり,乱ののち各ハン国は独立した。東方に拠った元は南宋を滅ぼし中国全土を統一したが,(1)その元もやがて衰え,朱元璋の建てた明によって,中国本土からモンゴル高原に追われた。
 その後,モンゴル高原では北元系のタタール部の勢力が衰え,オイラート部が大発展して,[ d ]の時には女真を服属させ,(2)朝鮮に国書を送るほどであった。明が周辺民族との貿易に制限を加えると,オイラート部は,1449年,明の北辺に侵入し,これを親征した(3)明の皇帝を土木堡において捕らえた

問(1) 元が衰退した原因のうち主なものを3つあげよ。
(2) この国書は,朝鮮の世宗24年(1442)に送られた。世宗は朝鮮文字を制定したが,その文字名であり,かつその用法を説明した書名を何というか。
(3) この時,捕らえられた明の皇帝は誰か。

[11] 次の文章を読み,空欄および下線部について下の問いに答えよ。[北海道・改題]
 オノン・ケルレン両河の間にいたモンゴル部の族長テムジンは,(1)1206年チンギス=ハンと名乗ってモンゴル高原の諸部族を統一し,強大な遊牧国家をうちたてた。さらに相次ぐ遠征によって広大な領域を支配下におさめ,そのうち長子ジュチにアラル海から南ロシアにいたる草原を,次子[ (a) ]に中央アジアを,三子オゴタイに西北モンゴリアを分け与えた。そののち末子トゥルイの子フラグはイランを中心に(2)イル=ハン国を建て,フビライは中国の統一を完成して元と称した。しかし,[ (b) ]をきっかけにモンゴル帝国は分裂の傾向を強め,その結果,元と4つのハン国から構成される連合体制をとることになった。元の統治下におかれた中国では,[ (c) ]の乱発や過重な徴税のために経済が混乱し,14世紀中ごろから各地で(3)民衆の反乱が続発した
 14世紀後半,元は新興の明によって首都の[ (d) ]を奪われ,モンゴル高原に移って北元と称したが,明の度重なる遠征をうけて滅亡した。これにかわって西モンゴリアのオイラート部が進出し,一時は明と戦って英宗を捕虜とし,北京にせまった。しかし,まもなく北元の系譜を引く[ (e) ]部が勢力をもりかえし,アルタン=ハンのとき明を攻めて北京を包囲し,チベットを制圧して(4)チベット仏教をモンゴリアに導入した。
 17世紀初め,(5)中国東北部に清が勃興すると,太宗は内モンゴリアを服属させたが,外モンゴリアは独立をたもち,オイラートの後裔のジュンガル部が強大となって,チベット,青海東トルキスタンまで勢力を拡大した。1758年,[ (f) ]帝は遠征によってジュンガル部を滅ぼし,(6)こののちモンゴルの領域の大部分は清の間接統治下に置かれた

問1.下線部(1)について,このことが決定された会議はモンゴルでは何と呼ばれたか。その呼称を記せ。
問2.下線部(2)の国家において,イスラムの国教化と学芸の奨励をおこなった君主の名を記せ。
問3.下線部(3)について,最も大規模な反乱の呼称を記せ。
問4.下線部(4)について,その最高権威者(教主)の称号を記せ。
問5.下線部(5)について,この王朝を興した部族の名を記せ。
問6.下線部(6)について,清が滅んだのち,1924年にモンゴル高原に成立した国家の名称を記せ。
問7.空欄(a)〜(f)に最も適当な語句を入れよ。

[12] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 (1)モンゴル帝国が分裂した後の14世紀初めに,中央アジアのチャガタイ=ハン国は,西北モンゴルの[ a ]国を併合したが,その内部では,宗教と生活様式をめぐる対立抗争が激しくなり,まもなくパミール高原を境に東西に分裂することになった。
 西チャガタイ=ハン国では,ハン家の求心力が弱まる中で,14世紀後半にイスラム化・トルコ化したモンゴル人の中から,ティムールが頭角を現わした。ティムールはハン家の一族ではなかったが,西チャガタイ=ハン国を統一すると,(2)周辺地域に遠征を行って,中央アジアと西アジアの主要部を支配するに至った。破壊を事とした感のあるティムールも,一面では(3)学問・芸術を奨励するとともに,大規模な建設事業を興した。ティムールが首都とした[ b ]は,各地の富を吸収して,大いに繁栄した。なおティムール帝国は,遠く(4)中国の明朝とも外交関係をもっていた。ティムールは明に遠征する途中に没したが,その後継者は明と良好な関係を保って,使節を交換しあっている。しかし帝国の繁栄は長くは続かず,16世紀初めにはトルコ系の遊牧民[ c ]族によって(5)滅ぼされた
 他方東チャガタイ=ハン国でも,ハン家が弱体化して,その根拠地を天山山脈以北の草原からタリム盆地に移した。その間にイスラム化は一段と進んで,やがてイスラム聖職者が,ハンと並ぶ力をもつようになった。
 ところで(6)モンゴルの西部においては,15世紀に遊牧[ d ]部にエセンが現われて,(7)明を攻撃するとともに,東チャガタイ=ハン国とも交戦を行った。17世紀初めにはその後裔の遊牧民から[ e ]部が興って,周辺地域の脅威となった。東方では清朝に進出を阻まれたが,南方ではタリム盆地を支配下に入れ,また西のカザフ草原にも攻撃をしかけた。しかし18世紀には内紛が起こって,清朝に滅ぼされ,(8)その領土も清に併合された

問(1) チンギス=ハンの一族や有力者が参加して,ハンの選出や遠征の決定など国家の重要事項をはかった集会は,何と呼ばれるか。
(2) ティムールは,1402年にオスマン帝国と戦って,勝利をえた。その戦いの名を述べよ。
(3) 13世紀以降イランで盛んになり,ティムール帝国で高度に発達した絵画は,何か。
(4) 永楽帝は,明の威信を高めるために,世界の各地に使節を派遣したが,(ア)東南アジア・南アジア方面に派遣されたのは,誰か。(イ)またそのころマレー半島の西南部に建国されて,東西貿易で栄えた国の名を述べよ。
(5) ティムール帝国の滅亡後,ティムールの子孫のある人物は,北インドを中心にムガル帝国を建国した。その人物の名を述べよ。
(6) モンゴルとその周辺に居住するモンゴル人の間で,(ア)16世紀ごろから広く信仰されるようになった宗教は,何か。(イ)またアルタン=ハンが,自らが帰依した教主に贈った称号は,何か。
(7) 1449年にエセンは明軍を破って,明の正統帝を捕虜にした。その戦いの名を述べよ。
(8) 清朝は,征服した遊牧民の旧支配地域を特別の名称で呼んだ。その名称を述べよ。

[13] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 明代では,太祖[ a ]の時代から自国の民間人による貿易は禁止され,ただ朝貢してくる国々に対して貿易が許されるだけであった。永楽帝の時,宦官の[ b ]に命じて行なわせた南海遠征は,諸国に朝貢をうながすとともに,貿易をも兼ねるものであった。しかし,経済が発展してゆくにもかかわらず,その後も依然として民間人が海外へ出て貿易することは禁止されていたから,東南部の海岸ではさかんに密貿易が行なわれた。密貿易はしばしば激しい掠奪をともなったため,これに苦しむ明朝はついに民間人の海外渡航と貿易を容認せざるをえなくなり,多くの中国人がスペイン人の拠点である[ c ]など,(1)東南アジアの各地に渡った。また,海外からもたらされる大量の[ d ]は,税制の改革など,明代の経済と社会に大きな影響をあたえた。
 清代になると,はじめ鄭成功とその一族が台湾に拠って清朝に抵抗したので,これを屈服させるために,厳しい海上封鎖をしいた。しかし,(2)鄭氏一族が降伏するにともない,再び中国人の海外渡航は認められ,また(3)外国船の来航も許されるようになった

問(1) このような中国人移住者を何と呼ぶか。
(2) この時,清の皇帝は誰であったか。
(3) 18世紀半ば以降,外国船の来航は1港だけに限られた。その港はどこか。

[14] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 明代のはじめ,農村では里中制がしかれ,[ a ]と甲首とが輪番で徭役にあたっていた。ところが,徭役の負担が不均等になったことなどによって,多くの農民は土地を捨てて逃亡し,あるいは(1)地主の小作人となった。そして,土地は少数の地主に集中してゆき,里甲制は次第に崩壊へとむかった。このような事態のもとで,租税である(2)両税と徭役の割付けをより簡便にし,銀で納入させる改革が各地でおこなわれ,[ b ]世紀の後半には,一条鞭法が全国に普及した。また,租税を確保するために,(3)土地の再測量もおこなわれた
 一方,農民は租税の納入や家計の補填のために副業を必要とし,農村では家内工業が盛んとなった。なかでも長江下流域ではこの傾向が著しく,松江・上海一帯の農村では[ c ]が盛んに織られた。農家の婦人たちは,自分で織った品物を市とか[ d ]と呼ばれた町にはこび,他の品物や現金と交換した。

問(1) 当時,小作人のことを一般に何と呼んだか。
(2) 両税法をはじめて実施した政治家は誰か。
(3) 万暦帝のもとで,全国的な土地の再測量を実施した政治家は誰か。

[15] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 [ a ]世紀初頭,ツングース系[ b ]族のたてた後金は,のち国号を清とあらため,やがて(1)明末の混乱に乗じて中国本土に侵入し,中国史上最後の王朝として,(2)1911年におこった革命で倒壊するまで,260年余に及ぶ長期の統治を持続した。その長命の秘密の1つは,モンゴル人のたてた元王朝の対漢人政策と比較することによって明らかになる。元王朝は中国統治にあたって,モンゴル至上主義をもって臨み,征服者たるモンゴル人を最高位とし,ついで西域出身者を[ c ]と呼んで第2位に置いたのに対し,華北の住民は漢人と呼んで第3位に,最後まで抵抗したかつての[ d ]治下の住民は南人と呼んで最下位に置いた。また知識人の登竜門である科挙も原則として実施しなかった。これとくらべて,清王朝は,被征服者たる漢人男子に服従の証として[ e ]を強制したり,あるいはまた(3)反満思想を徹底的に弾圧するなどの強圧策をとったとはいえ,諸制度は基本的に明王朝のそれを継承し,科挙を通して漢人知識人を支配体制の側にとりこんだ。中央官庁の長官ポストを満人・漢人同数としたのも,漢人との民族矛盾の緩和をねらったものであった。漢人知識人を動員してなされた(4)大編纂事業にも,彼らを懐柔する意図が含まれていたといわれる。
 清王朝が長命でありえたもう1つの要因は,周辺に強力な対抗勢力をもたなかったことである。その結果,清王朝は軍事支出を相対的に低い水準におさえることができた。正規軍は約20万人の[ f ]を中核に,緑営約60万人を加えた規模にとどまっていた。むろん対抗勢力が皆無というわけではなく,(5)ジュンガルの鎮圧には多年の歳月を要したが,大局的には清王朝の存立を危うくするほどの脅威ではなかった。また17世紀半ば,ロシア勢力の南下の動きには,これを実力で押しかえし,(6)(7)外興安嶺をもって国境線とする条約を締結している。
 清王朝は康煕・雍正・[ g ]の3代135年の盛世を謳歌したが,その末年には,政治・経済・社会にわたる諸矛盾がすでに顕在化しつつあった。18世紀末から19世紀初頭にかけておこった[ h ]と呼ばれる民衆反乱の鎮圧に10年余の年月を要したのは,こうした状況の象徴的な現れであった。

問(1) 明王朝滅亡の直接の原因となった反乱の指導者は誰か。
(2) この革命は何と呼ばれるか。
(3) 反満思想を弾圧する過程で摘発された筆禍事件を,総称して何と呼ぶか。
(4) ここでいう編纂物の具体例を1つあげよ。
(5) ジュンガル鎮圧の過程で軍事上の必要から生まれ,のち重要な位置を占めるようになった役所は何か。
(6) この条約は何と呼ばれるか。
(7) この時定められた国境線を,現在の黒竜江・ウスリー江の線にまで南下させる契機となった戦争は,何と呼ばれるか。

[16] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 康煕・雍正・乾隆の三代は,清朝の最盛期とされる。しかし逆に,この時代に大きな問題が生み出され,それが後世に影響を与えたことも注意する必要がある。
 領土・民族問題で言えば,東方では進出するロシアの勢力をくい止めて(1)スタノヴォイ山脈(外興安嶺)とアルグン川をもって国境線とすることと定め,西方では東トルキスタンまでを獲得,このほかモンゴル・[ a ]・チベットを藩部とし,(2)朝鮮・ヴェトナム・タイ・ミャンマーなどを朝貢国とし,そして中国本土を中核とする巨大な帝国を形成した。しかしこのことがかえって,複雑な民族問題を残すこととなった。たとえば外モンゴルは,中華民国の時代に長年の独立運動のすえに独立を達成した。
 国内の統治問題で言えば,[ b ]と緑営とを正規軍として反乱の防止と鎮圧に備え,(3)科挙を通して清朝皇帝に忠誠を誓う人材を育成し登用した。漢族の数多くの知識人が高級官僚となることができ,康煕年間に呉三桂らの起こした[ c ]が鎮圧されてから,久しく大規模な反乱は起こらなかった。三代の皇帝はあるいは減税策をほどこし,あるいは綱紀粛正をはかったため,この時代の社会はその前後に比べてはるかに安定していた。ところがこのことが,皮肉にも人口問題という難題を生み出す要因となった。人口問題は物価問題や耕地問題を生みだし,多くの人々はフロンティアを求めて移住していった。18世紀末に(4)白蓮教徒の反乱が起こった地域は,彼らが移り住んだ山間地であった。この人口問題は,現代の中国が抱える大問題でもある。
 国力の充実を背景にして,この時代には大規模な文化事業も行われた。康煕帝の時代には,各種文献から関係事項を抜き出して分類した百科事典[ d ]が編さん纂された。なかでも規模が大きかったのは,乾隆帝が企画した[ e ]の編纂事業である。この事業によって,散逸をまぬがれ現在まで伝えられることになった書物は多いが,一方でこの事業の目的の一つが反清につながる図書を検閲することであったから,この時に焼却され失われてしまった書物もある。厳重な思想統制は,たしかに一面では社会の安定につながったであろうが,これによって(5)明末にあったような鋭い現実批判をともなうハツ剌とした知識人の精神が失われてしまった側面も,見落とすことができない。ここに,精緻ではあるが現実批判をともなわない,「学問のための学問」をする考証学が繁栄することとなった。

問(1) 清末になると,この地域の国境線が改訂される。(ア)清朝がスタノヴォイ山脈(外興安嶺)以南・黒竜江以北の地をロシァに与えることを定めた条約名は,何か。(イ)また沿海州を与えることを定めた条約が締結されたのは,何年か。
(2) (ア)当時,清朝に冊封されていた朝鮮は,一般に何氏朝鮮と呼ばれるか。(イ)また,当時のヴェトナムの王朝名は,何か。
(3) (ア)科挙において,皇帝自らが試験官となる最終試験を何と呼ぶか。(イ)また,この試験に合格した者には,何という称号が与えられるか。
(4) (ア)白蓮教徒の信仰の根幹となる教えは,何か。(イ)また中国では古来,行政区画の多く交わるところが民衆反乱の温床であることが多い。この反乱がはじめに起こったのは,当時の行政区画で陝西省・湖北省と何省の交わる山間地であったか。
(5) (ア)このような精神をもつ代表的思想家で,童心説を説いたのは誰か。(イ) また,彼の最も重要な思想上の師は誰であったか。

[17] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 中国の歴史書の起源は非常に古く,魯の年代記を孔子が整理編集したとされる[ a ]も,その1つである。これは編年体の歴史書のはじめに位置するばかりでなく,五経の1つとして,思想史の上でも重要な書物である。その後,前漢時代には,[ b ]によって独創的な『史記』が作られた。『史記』は太古の伝説時代から彼の生きた時代にいたる歴史を,個人の伝記を中心に,政治・文化・経済のあらゆる角度から総合的に記した通史であった。同じ歴史叙述の形式を受けついで,後漢の[ c ]は『漢書』を書いたが,この書は前漢王朝一代のみを記録する断代史であった。『漢書』以後も各王朝ごとの歴史書が作られたが,それらはおおむね『漢書』の形式に従って書かれており,清朝までに24の正史が著された。

問(1) 北宋の司馬光が著した編年体の歴史書を何というか。
(2) 『史記』,『漢書』などの叙述の形式は何と呼ばれるか。

[18] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 唐の文化は,2つの側面を持っている。1つは,前半期に見られる南北朝文化の集大成的側面であり,もう1つは後半期に見られる宋代士大夫文化の先駆的側面である。前半期と後半期の境は,8世紀の中頃に起こり9年間続いた[ a ]である。
 文学の分野では,前半期には,対句と典故を多用し,形式に重きを置いた(1)六朝以来の四六駢儷文が用いられた。これに対し,後半期,9世紀初めには,韓愈や[ b ]が,修辞にこだわらず,単刀直入に表現する古文を提唱した。これは単なる復古ではなく,四六駢麗文の持つリズムや視覚美をも包みこんだ思想性の高い文章で,宋代に入ると,欧陽脩や王安石らによって,さらに発展させられた。
 一方,思想史の分野では,前半期に[ c ]らによって,経書の字句に対する(2)後漢以来の多様な注釈が統一され,『五経正義』が編まれた。しかし,このような注釈学としての儒教は,自らの思想を表現するために古文を提唱した韓愈ら新興の儒者にとっては,魅力の乏しいものであった。むしろ彼らは,当時の人々の心をとらえていた(3)仏教や道教にも関心を示し,それらの持つ宇宙論や存在論を取り入れて,自らの思想の核となる儒教の確立に努めた。こうした唐代後半期の動きの結果,形而上的側面を備えた新しい士大夫層の哲学として,(4)宋学が樹立されたのである。

問(1) 梁代に編まれ,六朝時代に文学の典型とされた作品を載せた詩文集は何か。
(2) 経書注釈に最も功績のあった後漢の儒者は誰か。
(3) 前半期に海路インドにおもむき,多くの仏教経典を持ち帰って漢訳した僧の旅行記は何か。
(4) 宋学者が新たに取り上げた儒教の経典を総称して何というか。

[19] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 宋代以降の中国の政治や文化を特徴づけた制度の1つとして科挙をあげることができる。科挙はそれ以前にも実施されていたが,宋のはじめに,最終試験として皇帝みずからが行う[ a ]が加えられると,皇帝権をさらに強化する役割をはたすこととなった。科挙では,儒教を中心とする古典の知識や,一文章を作成する能力などが受験者に要求ざれ,これに合格して官僚となったものには,文学者や歴史家としても有名な人物が多い。たとえば,青苗法や保馬法などを立案し実行した[ b ]は,一流の文学者でもあった。しかし,このような制度のもとでは,儒教経典の知識に比べて自然科学の知識はあまり重視されず,この面ではヨーロッパにおくれをとることになった。明末から清初にかけて,マテオ=リッチら[ c ]会の宣教師によってヨーロッパの天文学や幾何学が伝えられると,それらは新しい知識として中国人に刺激をあたえた。

問(1) 儒教経典の1つで,孔子の言行録として知られる書物の名をあげよ。
(2) マテオ=リッチが徐光啓とともに翻訳した数学に関する書物の名をあげよ。



[20] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 明代の中期以降,中国の文化にはいくつかの新しい傾向があらわれた。まず儒教思想においては,明は朱子学を官学としていたが,[ a ]はその形式化を批判して知識と実践を一致させる知行合一を説いた。その思想は広く社会に受けいれられたが,彼の学派の一部には空虚な議論に走ったものもあった。明末になって社会が動揺すると,学者の中に,儒教の研究は社会に役だつものでなければならないという考えがあらわれた。顧炎武・黄宗羲等は古典を実証的に研究して,その成果の上に現実の政治や制度を批判したが,彼らの研究方法は,清代に隆盛となる[ b ]の基礎となった。また学問の分野では実用性が重んじられて,薬学に関する[ c ]や,『天工開物』のような技術書が著され,周辺諸国にも大きな影響を与えた。陶磁器産業においても前代に始まった(1)新しい技法が完成して,景徳鎮がその中心となった。
 一方この時代の学術・文化は,ヨーロッパからも大きな影響を受けた。16世紀末以来,キリスト教布教の目的で中国を訪れたイエズス会の宣教師は,中国人の信頼を得るために,(2)ヨーロッパの科学技術や知識をすすんで伝達した。その中では幾何学を伝えたマテオ=リッチ,暦法・天文学を伝えたアダム=シャール等が有名である。また彼らに学んでキリスト教に改宗した[ d ]は,ヨーロッパの技術を参考にしながら『農政全書』を編纂した。
 明に代わって中国を統一した満州族の清朝は,人口からすれば絶対的な少数者であったので,(3)様々な文化政策を実施して漢人知識人を懐柔した。そのことがまた,清代の文化の性格を方向づけることにもなった。

問(1) 明代の代表的な陶磁器技法を2つあげよ。
(2) ブーヴェ等が中心となって,実際に中国全土を測量してできた清代の地図は何か。
(3) このような文化政策の一環として,『四庫全書』が編纂された。それを命じた皇帝は誰か。

[21] 次の文章を読んで,下記の問いに答えよ。[北海道・改題]

 中国史は内陸アジアの遊牧民や狩猟・採集民との対立と交渉を抜きには考えられない。たとえば,有名な万里の長城は,中国内地の農耕社会をかれらから隔離し防御する目的で建設されたものであった。しかし,遊牧民や狩猟・採集民はしばしば中国に進入し,幾度かにわたって農耕社会を征服して自らの王朝を樹立した。一方,中国の漢民族王朝もしばしぱかれらを服属させることに成功した。
 外来の王朝が.本国の領土と政治社会制度を保ちながら,一方で中国農耕社会を支配し,二重の統治体制をとった国家を「征服王朝」とよぶ。遼,金,元,清はこのような国家であった。これらの「征服王朝」は,行政面での二重統治体制として,遊牧民や狩猟・採集民には部族制を,農耕民には〔 a 〕を施行した。また自らの文化的独自性を保つための言語として,遼は〔 b 〕文字を,金は〔 c 〕文字を作り,モンゴル人は公用語にモンゴル語,公文書には多く〔 d 〕文字を用いた。
 モンゴル族によって建てられた元朝は,モンゴル人第一主義をとり,色目人,漢人,南人の区別と序列を設けた。元朝の崩壊後,モンゴル高原では15世紀にオイラート部が強大となり,1449年には明の正統帝(英宗)を捕らえ,北京に迫るに至った。この事件を〔 e 〕とよぶ。16世紀から17世紀前半には,東モンゴルのタタール(韃靼)部が,ついで17世紀なかごろから18世紀には東トルキスタンの〔 f 〕部が,外モンゴルから青海・チベット・中央アジア東部を支配したが,清朝はこの地域を征服して藩部とし,〔 g 〕という機関を置いてこれを統轄した。

問1.遼及び金の建国者の名を漢字で記せ。(「太祖」,「太宗」のような廟号は用いないこと。)
問2.〔 a 〕〜〔 g 〕に適当な語句を入れよ。

[22] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 匈奴が衰えると,中国北方では他のアルタイ系民族が興り,中原への進出を企てて,いくつかの国を建設した。4世紀はじめから約1世紀にわたり,各種の民族により華北が分割統治されたが,[ a ]族の拓跋部が北魏を建設して華北を統一した。はじめ東突厥の支配下にあった[ b ]は,744年,これにかわってモンゴリアで覇権を得た。彼らはマニ教を受入れ,独自の文字を使用するなど高度の文化を保有したが,9世紀の半ばに中央アジアに移動した。その後,モンゴリアでは[ c ]が遼を建国した。遼は華北に進出して宋を圧迫し,宋から多額の銀・絹等を獲得したが,金に滅ぼされた。

問(1) 遼が栄えていたころ,西夏は東西交通路の要地を占拠して繁栄した。西夏を建てたのは何民族か。
(2) 宋は今日の河北・山西両省の北部にあたる地方の回復をめざして遼と戦ったが敗れ,和議を結んだ。この和議を何というか。

[23] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 9世紀に始まる(1)トルコ系諸民族の中央アジア,西アジアヘの移動,さらにそのインドヘの進出は,その後の世界史の動向に大きな影響を及ぼした。
 まず,9世紀,ウイグル人が中央アジアのタリム盆地東部に移動し,西ウイグル王国を建設して,独自の融合文化を開花させた。同じ頃,タリム盆地西部では,カルルク人などトルコ系諸民族によって[ a ]朝が建国された。彼らはいち早く(2)イスラムを受容し,中央アジアのイスラム化に貢献した。
 10世紀には,トルコ系のオグズ人も,中央アジアヘの移動を開始した。その地でイスラムを受容した彼らは,11世紀には,西アジアに進出して,(3)セルジューク朝を建国し,その君主は,カリフから[ b ]の称号を与えられた。
 オグズ人は,さらにアナトリア半島(小アジア)にも進出し,やがて13世紀末には,(4)オスマン朝を建国した。オスマン朝は,1453年,コンスタンティノーブルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼし,また1517年には,マムルーク朝を倒して,アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる大帝国へと成長した。帝国は,スレイマン1世の時代に絶頂期を迎え,1529年,[ c ]を包囲し,1538年,プレヴェザ沖の海戦で,スペイン・ヴェネツィア・ジェノヴァの連合艦隊を撃破した。
 一方,トルコ系諸民族は,10世紀以降,中央アジアからアフガニスタンにも進出して,ガズナ朝,ゴール朝などの諸王朝を建て,さらにインドにも進出して,そのイスラム化の端緒を開いた。13世紀には,ゴール朝の軍人アイバクによって(5)デリーを都とする最初のイスラム政権が建てられ,インドのイスラム化がさらに促進された。

問(1) 移動以前のトルコ系諸民族の基本的な生活様式は何か。
(2) イスラムの成立に大きな意味を持った622年の出来事を何というか。
(3) セルジューク朝時代に発達した軍事封土制を何というか。
(4) キリスト教徒の子弟で構成されたオスマン朝の常備歩兵軍団を何というか。
(5) この政権に始まるデリーのイスラム諸政権を総称して何と呼ぶか。

[24] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 アム・シル両河地方を中心に,(1)古くから東西交易に活躍したソグド人が使ったソグド文字は,もともと前12〜前8世紀ころ,さかんに内陸貿易をおこなった[ a ]人の[ a ]文字に由来する。ソグド文字が中央アジアに普及するにつれて,8・9世紀ころ,[ b ]人が取りいれて[ b ]文字が成立した。この文字は,(2)13世紀はじめに勃興した(3)[ c ]人によって借用されて[ c ]文字となり,それはさらに16・17世紀に成立した[ d ]文字の原型となった。

問(1) 6・7世紀,ソグド人が深い関係をむすんだ大遊牧国家は何か。
(2)  このころ,中国の華北から東北地方にわたって存在した王朝が制定した文字は何か。
(3) 1269年, cの文字とは別にチベット文字をもとに作られた文字は何か。

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