2. 西アジア・インド・東南アジア史

1.西アジア史

[1] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 古代の西アジアでは,さまざまな民族の興亡が繰り広げられたが,やがて政治的統合が進み,史上いく度か西アジアを広くおおう大帝国が成立した。
 西アジアの主要部に最初の政治的統一をもたらしたのが,セム系のアッシリア人である。アッシリア人は前2000年紀のはじめ頃から[ a ]川流域のアッシュールを拠点に交易活動に従事し,前9世紀から活発な征服活動を行った。その軍隊は,(1)鉄製の武器,戦車および騎馬隊をそなえ,広く西アジアを征服し,前7世紀前半にはエジプトをも版図に加えた。アッシリア帝国は征服地の各州に総督を派遣して直接的に統治したが,被征服民に対する強圧的な政策がわざわいし,前7世紀末に滅んだ。アッシリア帝国滅亡後,(2)西アジアとエジプトには4つの王国が並立した
 西アジアの政治的統一を画復したのは,(3)イラン人が建国したアケメネス朝ぺルシアであった。前550年キュロス2世が同じイラン系の[ b ]王国を滅ぼして建国し,第3代の王[ c ]のときには東は中央アジア・インダス川流域から西はエーゲ海岸・エジプトにおよぶ大帝国となった。領土の各州にサトラップ(知事)をおいて統治させたほか,監察官の派遣,税制の整備,被征服民への寛容な政策など,アッシリアの帝国統治法をさらに高度なものへと発展させた。アケメネス朝はアレクサンドロス大王の東方遠征によって前330年に滅んだ。アレクサンドロス没後は,(4)シリアを拠点とするセレウコス朝をはじめ,各地にギリシア系の国家が誕生してヘレニズム文化が栄えた
 ヘレニズム時代を経て,ふたたび西アジアを政治的に統一したのがササン朝ペルシアである。ササン朝は226年アルデシール1世が[ d ]王国を倒して建国した。第2代の王シャープール1世のとき,東方ではインダス川流域にまで進出して[ e ]朝から領土の大半を奪い,(5)西方ではシリアに進出してローマ帝国と対抗した。5世紀から6世紀にかけては,中央アジアの騎馬遊牧民[ f ]の侵入を受けて苦しんだが,6世紀半ばホスロー1世のときに最盛期を迎え,[ f ]を滅ぼした。しかし,7世紀半ばのアラブ軍の侵攻には対抗できず,ササン朝は651年に滅んだ。
 アラブ軍の征服活動は[ g ]朝成立後も活発に進められ,8世紀はじめ,その領土は,東は中央アジア・西北インドから西はイベリア半島にまで達した。イスラム教の浸透とアラビア語の共通語化によって,広大な領域における共通の文化の基盤が形成され,(6)やがてアラビア語以外のさまざまな言語もアラビア文字で記されるようになった

問(1) 最初に鉄器を使用し,製鉄技術を独占していたとされる,アナトリアの古代王国の名を記せ。
(2) この4つの王国のうち,ある王国は,いわゆる「肥沃な三日月地帯」を支配し,首都の繁栄でよく知られている。(ア)その王国の名を記せ。(イ)その王国の首都はどこか。都市名を記せ。
(3) イラン人は言語的には何語族に属すか。語族名を記せ。
(4) セレウコス朝から独立した,あるギリシア系の王国は,現在のアフガニスタンを主な領土とし,西北インドにヘレニズム文化を伝えた。その王国の名を記せ。
(5) 対ペルシア遠征に失敗し,260年エデッサでシャープール1世に捕らえられた,ローマ帝国の軍人皇帝は誰か。
(6) アラビア文字が普及する前の西アジアの文字の多くは,あるセム系言語の表音文字を母体としていた。(ア)前1000年紀に楔形文字に代って西アジアに広まった,この表音文字は何か。(イ)この文字を母体として中央アジアで生まれた文字には何があるか。1つ記せ。

[2] 次の文章を読み下線部について下の設問に答えよ。[北海道・改題]

 ペルシア戦争はペルシア軍の敗北に終わったが,(1)ペルシアはその後もギリシア人にとって大きな脅威であった。アケメネス朝ペルシア帝国はアレクサンドロス大王の東方遠征によって前330年に滅び,大王の死後,(2)イランの地には後継者争いの中からセレウコス朝が王国を建てた。前3世紀の中ごろ,イラン系遊牧民パルティア人がセレウコス朝の治下から独立し,アルサケス朝パルティア王国を建てた。ペルシア人はアケメネス朝の再興をめざして後226年にアルサケス朝を滅ぼし,ササン朝ペルシア帝国を建てた。ササン朝はアケメネス朝以来の(3)ゾロアスター教を国教としたが,(4)領土内の東方では仏教が,西方ではネストリウス派のキリスト教が信仰されていた
 610年ころ,アラビアのメッカでムハンマド(マホメット)は唯一の神アッラーへの絶対帰依を説いた。イスラム教徒のアラブ民族は651年にササン朝を滅ぼし,その地を征服した。661年に成立したウマイヤ朝はアラブ民族中心の政権であったため,とくにササン朝以来の文化的伝統をもつイラン民族はウマイヤ朝に反感を抱き,これを利用してアッバース家が750年にウマイヤ朝を倒してアッバース朝を開いた。9世紀後半にササン朝貴族の系統を引くサーマーン朝が中央アジアにおこり,10世紀前半にはイラン民族がブワイフ朝を建ててアッバース朝の都バグダードを占領した。
 10世紀ころから中央アジアではトルコ民族が勢力を強め,その一派セルジューク朝はイランに進出し,1055年にブワイフ朝を滅ぼした。次いでホラズム朝がイランに勢力を伸ばしたが,1221年にモンゴルの遠征軍によって滅ぼされ,その後モンゴル軍はイランにイル=ハーン国を建てた。このイル=ハン国は14世紀後半に分裂し,その領土はチムールによって併合された。チムール朝は1500年にウズベク族によって滅ぼされ,1501年にイランにはイラン民族自身のサファヴィー朝が成立した。サファヴィー朝はシーア派を国教とし,イラン民族意識の高まりとともに,西のオスマン帝国や(5)北のウズベク族と対立した
 サファヴィー朝は1722年に東方からアフガン民族の侵入を受けて崩壊し,混迷の後に1796年にカージャール朝が成立した。しかし,カージャール朝は後に(6)北方でロシアに領土を奪われた上に不平等条約を強要され,東方ではアフガニスタンに侵入してイギリスの干渉を招いた。

〔設問1〕
(1) ペルシア戦争の後,ギリシアの諸ポリスはペルシアの報復にそなえてアテネを盟主とする同盟を結だ。この同盟の名を記せ。
(2) この争いの中からエジプトに王朝が建てられた。その王朝の名を記せ。
(3) ゾロアスター教の経典の編纂がササン朝のシャープール1世の治世に行われた。この経典の名を記せ。
(4) 3世紀にゾロアスター教の教義を基盤に仏教やキリスト教の教義を融合した宗教が生まれた。この宗教の名を記せ。
(5) ウズベク族は中央アジアに三つの国を建てた。これら3国の名を記せ。
(6) この条約の名を記せ。

[3] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 現在,イスラム教徒人口の約1割がシーア派に属する。シーア派は預言者ムハンマドの家系を重んじ,(1)第4代正統カリフのアリーとその子孫こそが預言者の真の後継者であり,また信徒の最高指導者たり得るとする。この最高指導者は[ a ]と呼ばれる。シーア派では早くから最高指導者の認定をめぐって内部分裂が進行し,その活動は少数派・反体制派としてのものが多いが,史上,時として強力な政治権力を打ち立てた。
 最初のシーア派王朝とされるのは789年モロッコに興ったイドリース朝で,926年これを滅ぼしたのが,チュニジアに興り,後に勢力を拡大してエジプトを支配した[ b ]朝である。この王朝名はアリーと結婚した預言者ムハンマドの娘の名に由来するもので,支配階級はシーア派内のイスマーイール派に属し,内外で盛んに教化・宣伝活動を行なった。結局エジプトではシーア派信仰はあまり浸透しなかったが,この王朝が建設した(2)新都カイロはマムルーク朝初期には[ c ]に代わってイスラム文化の中心地となった
 イランでは他の地域に比べて元来シーア派の勢力が強く,1501年アゼルバイジャンに興った(3)サファヴィー朝はシーア派の主要分派である12[ a ]派を国教とし,イラン全域を支配して隣接するスンナ派諸国と対立した。このサファヴィー朝期にシーア派信仰が浸透し,独自のシーア派神学が発達した。サファヴィー朝滅亡後も,(4)後続のイラン諸王朝はおおむねシーア派を擁護する立場をとり,イランにおけるシーア派信仰は揺るぎないものとなった。

問(1) このアリーと預言者ムハンマドとはどのような血縁関係にあるか。
(2) この王朝によってカイロに建設され,後にはスンナ派イスラム学の中心となった最高学府は何と呼ばれるか。
(3) サファヴィー朝君主が採用したイランの伝統的番号を記せ。
(4) 20世紀初頭イランで初めて国民議会が創設された時の王朝名を記せ。

[4] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 9世紀以降,イスラム世界のバグダード,カイロ,コルドバなどの諸都市では,「イスラム文化」と総称される高度の都市文化が発達した。この文化は,征服者であるアラブ人がもたらしたアラブ語とイスラム教を中核に形成された「アラブ・イスラム文化」の性格を強くもつものであった。しかし,この文化は,一方で[ a ],インド,イラン,シリア,エジプト,スペインなどの伝統的な文化を吸収・統合して形成された新しい融合文化でもあり,きわめて国際性に富むものであった。この国際性のゆえに,この文化は,民族・宗教の枠を越えて,その後の人類の文化の発展に大きく寄与した。現在われわれが使用しているアラビア数字は,元来は[ b ]をもとに作成されたものと言われており,また今日世界の各国で愛読されている[ c ]も,インド,イラン,アラブ等の説話を融合して,16世紀ころのカイロで,ほぼ今日のような形に整えられたものである。

問(1) 「アラブ・イスラム文化」と並ぶ「トルコ・イスラム文化」の成立に大きな役割をはたした,中央アジア最初のトルコ系イスラム王朝の名をあげよ。
(2) 13〜14世紀のスペインのイスラム建築を代表するものとして名高いグラナダにある建築物の名をあげよ。

[5] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 現代の欧米で使用されている言語,例えば英語の中には,sugar(砂糖),cheque(小切手),algebra(代数)など,アラビア語から入った単語がかなり見られる。この事実は,西洋キリスト教世界の文化も,イスラム世界の文化を取り入れつつ発達してきたものであることを物語る。
 それでは,西洋はどのような経路で(1)イスラム文化を取り入れてきたのか。この点で,大きな役割を演じたのは,スペインとシチリアである。
 8世紀の初頭,スペインに上陸したイスラム教徒は,西ゴート王国を滅ぼし,同じ世紀の半ばには,独立した王朝としての[ a ]を成立させた。
 その後12世紀頃から,キリスト教徒による国土回復運動が進むにつれ,イスラム教徒の支配地域は徐々にスペイン南部へと縮小していったが,彼らの活動は実に(2)15世紀の末まで続いた。この問,[ b ]をはじめ,トレド,グラナダ,セビリアなどの諸都市では,高度のイスラム文化が栄え,これを学ぶために西洋各地から多くのキリスト教徒がスペインに留学し,(3)哲学・医学など,当時世界最高の知識を故国へと持ち帰った。
 一方,地中海最大の島シチリアも,9世紀前半カらイスラム教徒の支配下に入り,[ c ]が到来する11世紀後半まで,2世紀半にわたるイスラム教徒の支配が続いた。
 (4)シチリア回復後のキリスト教徒の君主たちも,熱烈なイスラム文化の愛好者として知られ,シチリアに栄えたイスラム文化は,(5)スペインのイスラム文化と共にイタリアに伝えられ,ルネサンスなど,西洋の文化の形成に大きな影響を与えた。

問(1) イスラム文化は,各地の伝統的な文化を摂取して発達した融合文化であった。その典型的な1つの実例として,15世紀頃のエジプトで今日の形にまとめられた有名なアラビア語の文学作品の名をあげよ。
(2) 15世紀のナスル朝の時代に完成し,今もグラナダに残る華麗なイスラム宮殿の名をあげよ。
(3) 哲学・医学などのアラビア語の著作は11〜13世紀,ラテン語に翻訳され,以後,西洋の大学で教科書として長く使用された。このような著作の著者として,西洋でも名高いイスラム教徒の名を1人あげよ。
(4) このような君主としてよく知られるルッジェーロ2世が,12世紀前半に建てた国家を何と呼ぶか。
(5) 古代の中国で発明され,8世紀のバグダード,12世紀のスペインを経て,13世紀のイタリアにその製法が伝えられた物がある。それは何か。

[6] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ギリシア系の[ a ]朝の滅亡後ひさしくローマ帝国およびビザンツ帝国の支配下にあったエジプトは,7世紀半ばアラブ・イスラム軍によって征服され,ここにエジプトのイスラム時代がはじまった。
 9世紀になるとエジプトに独自のイスラム王朝が成立し,10世紀後半には,(1)北アフリカにおこったシーア派のファーティマ朝がエジプトを占領した。
 (2)ファーティマ朝君主はカリフを称してアッバース朝カリフに対抗し,首都カイロはシーア派文化の中心となった。しかし,エジプトのシーア派化はあまり進行せず,1171年にクルド人の武将[ b ]がファーティマ朝を滅ぼし,スンナ派のアイユーブ朝をひらいた。アイユーブ朝は十字軍との抗争に苦しみ,マムルーク(奴隷軍人)を多数登用して彼らの勢力増大をまねいた結果,1250年マムルーク軍団によって政権を奪われ,マムルーク朝が成立した。マムルーク朝は,1258年モンゴル軍が[ c ]を占領すると,アッバース朝カリフの子孫を保護し,またモンゴル軍をくい止めてシリアを守った。以後マムルーク朝はエジプトとシリアを領土とし,また(3)地中海とインド洋を結ぶ商業路を支配して経済的な繁栄を得た。
 15世紀になると小アジアに拠点をおくオスマン帝国が強力となり,(4)1453年コンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼし,1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトとシリアを領土に加えた。オスマン帝国はスレイマン1世の時に最盛期を迎え,ヨーロッパにおける領土を拡大する一方,東方では,(5)イランのサファヴィー朝から領土の一部を奪った。しかし,強盛を誇ったオスマン帝国も17世紀になると衰退のきざしが現われ,18世紀末には弱体化が明らかとなり,(6)エジプトでは,ナポレオン軍の侵入をゆるした。このような政情のもとで1805年エジプト人の支持を得て[ c ]がエジプト総督(太守)となり,近代化のための様々な改革を行った。彼は対外政策にも積極的で,アラビア半島に出兵して[ d ]王国を一時的に滅亡させ,またスーダンを征服した。
 1869年のスエズ運河開通はエジプトの軍事上・交通上の重要性を増した。帝国主義諸国の関心が高まる中,イギリスがスエズ運河会社のエジプトの持ち株を買収して発言力を増し,(7)1882年にはエジプトを軍事占領下においた

問(1) ファーティマ朝がおこったのは北アフリカのどこか。現在の国名で記せ。
(2) この頃ファーティマ朝やアッバース朝のほかにも,君主がカリフを称したイスラム王朝がある。(ア)その王朝名を記せ。また,(イ)その王朝の首都はどこか。都市名を記せ。
(3) 15世紀末からヨーロッパのある国がインド洋貿易に参入し,1509年ディウ沖の海戦でマムルーク朝軍を破った。(ア)その国の名を記せ。また,(イ)その国が1511年に滅ぼした,東南アジアの貿易の中心であったイスラム国家の名を記せ。
(4) のちに「征服王」と呼ばれた,この時のオスマン帝国君主の名を記せ。
(5) オスマン帝国軍は一時的にサファヴィー朝の首都を占領した。この時占領されたサファヴィー朝初期の首都はどこか。都市名を記せ。
(6) (ア)ナポレオンのエジプト遠征の時に発見され,古代エジプトの神聖文字を解読する鍵となったものは何か。また,(イ)1822年神聖文字の解読に成功したフランスのエジプト学者は誰か。
(7) イギリスは1881年におこった反英反乱を鎮圧してエジプトを軍事占領下においた。この反乱を指導したエジプトの軍人は誰か。

UP

2.インド史

[1] 次の文章を読み,以下の問に答えよ。[北海道・改題]

 インドでは前2300年頃からインダス川流域を中心に栄えていた都市文明がしだいに衰退し,前1500年頃からアーリヤ人の侵入が始まった。かれらはパンジャープ地方に定着して部族ごとに村落をつくり,牧畜をともなう農耕生活をつづけた。前1000年頃には,東方の[ (a) ]に進出して都市や小王国を建設し,『マハーバーラタ』や『ラーマヤーナ』に見られるように,たがいに覇を争っていた。前6世紀にマガダ王国がもっとも強大となり,これまで政治・社会の支柱であったバラモン教に対して,改革をめざすジャイナ教や仏教がおこった。さらに西方からペルシア帝国や[ (b) ]の侵入が続いたのちマウリヤ朝が勃興し,アショーカ王の時にはインド南端を除く古代統一帝国が形成された。マウリヤ朝の滅亡とともに分裂の時代が始まったが,後2世紀に西北インドにおこったクシャーナ朝は,ヘレニズム文化の影響を受けたガンダーラ美術を生みだし,4世紀以後北インドを統したグプタ朝は,カーリダーサなどの[ (c) ]文学や,アジャンターの壁画に見られるようなインド的な文化を完成させた。その後,8世紀から11世紀にかけて北インドを支配したラージプート族の諸王朝は独自のヒンドゥー文化を出現させ,9世紀から13世紀後半まで南インドを支配したチョーラ朝は,土着の[ (d) ]族の文化を成熟させた。
 10世紀から始まるイスラム勢力のインド侵入とともに,インドの歴史は新しい局面をむかえる。[ (e) ]に本拠をおくガズナ朝やゴール朝は西北インドヘの遠征をくり返し,12世紀後半には北インド全域がイスラムの支配下にはいった。13世紀初めデリーを中心にインドの最初のイスラム王朝である[ (f) ]が成立し,これ以後インド北部にデリー・スルタン朝と呼ばれる諸王朝が交替した。1526年,ティムールの子孫バーブルが北インドに進出し,最後のデリー・スルタン朝を倒してムガル帝国の基礎をおいた。その孫アクバルはデカン高原とインド南端をのぞくインドの大部分を支配し,イスラム・ヒンドゥー両教徒の融和を基盤とした中央集権的な統治をめざした。しかし,帝国の領域が最大に達したアウラングゼーブの時代には多くの問題が露呈され,これ以後インドはふたたび分裂の時代にはいる。土着インド人の地方政権が分立して中央の統治に反抗し,各地の同族を結集したマラータ同盟は首都デリーをおびやかした。ムガル帝国の衰退と平行して,西欧諸勢力がインド内陸部への進出をはかり,1757年,プラッシーの戦いによってイギリスが独占的な地歩を固めた。高度の工業力と優越した武力とによってインド経営に乗り出したイギリスは,セポイの反乱を桟にムガル皇帝を廃止し,イギリス東インド会社を解散して,インド全土の統治を本国政府の直接支配下においた。こうして1947年までつづくイギリスのインド支配が開始されたのである。

問 文中の空欄(a)〜(f)に最も適当な語句を記入せよ。

[2] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 現在インド亜大陸の一部は完全にイスラム世界に組み込まれており,ヒンドゥー教が盛んなインド共和国ですら人口の1割強がイスラム教徒である。
イスラム勢力のインド亜大陸侵入は8世紀初頭ウマイヤ朝によって開始され,12世紀末には[ a ]朝がイスラム教徒による北インド支配の基礎を築いた。インド史上初のイスラム王朝は1206年に成立した奴隷王朝である。いわゆるデリー=スルタン朝は,この奴隷王朝からアフガン系の[ b ]朝までの5つのイスラム王朝を指し,いずれもデリーを都とした。これらの王朝による支配が既存のヒンドゥー教徒の社会を本格的に破壊することはなかったが,[ c ]と呼ばれるイスラム神秘主義者の布教活動などによって,イスラム教への改宗者が増加した。
 デリー=スルタン朝に続いて1526年に成立したイスラム王朝がムガル朝である。このムガル朝の時代に(1)インド=イスラム文化が成熟し文学・建築・美術などの分野で多くの傑作が生まれた。しかし,ムガル朝の支配領域においてイスラム教徒が多数派となることはなく,対ヒンドゥー教徒政策は内政上の重要な課題であった。国家繁栄の基礎を築いた第3代君主アクバルは,ヒンドゥー教徒に対する融和政策をとって社会を安定させたが,逆に,第6代君主[ d ]はヒンドゥー教徒を抑圧して各地の反乱を招き,ムガル朝衰退の一因となった。
 ムガル朝の国力が衰えると,イギリスによるインド亜大陸の植民地化が進行した。イギリスはフランスをしりぞけて,(2)現地の諸勢力を制圧し,1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させた。その後イギリスは,反英独立運動を抑制するため,ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立をあおろうとした(3)ベンガル分割令の公布(1905年)や全インド=ムスリム連盟の結成(1906年)はその現われである。

問(1) 北インドの方言にペルシア語・アラビア語の語彙が混入して発達し,改良したアラビア文字で書かれた言語は何か。
(2) 19世紀半ばイギリスがパンジャーブ地方を征服した戦争は何か。
(3) この法令は1911年に廃止されたが,イスラム教徒の多い東ベンガルには1971年に独立国家が誕生した。その国名を記せ。

UP

3.東南アジア史

[1] 次の文章の空欄(1〜13)にもっとも適当な語を記入しなさい。。[ 岡山・改題]

 カンボジア(現在のカンボジア王国を中心とする)では2世紀初めクメール人の扶南(プノム)がインド文化を受け入れて,東南アジアで最初の統一国家を形成した。6世紀には同じクメール人の真臘(チェンラ)が起こり,7世紀半ば扶南を滅ぼした。真臘(チェンラ)は中国の[ 1 ]王朝と国交を開き,ヒンズー教を国教とした。さらに9世紀にクメール人は統一国家を建て,アンコ一ルに都をおいたクメール朝を建てた。クメール朝はラオスやマライ半島に進出して強大となり,[ 2 ]に代表されるクメール文化を作りだした。15世紀にはクメール朝はタイの[ 3 ]朝の圧迫を受けて衰えた。
 マライ半島からジャワ島にわたる地域では,4〜6世紀の間ヒンズー教を受け入れた小国家が成立した。7世紀になるとスマトラ島東部に[ 4 ]王国が出現した。この国はマラッカ,スンダ両海峡を制し,海上貿易で繁栄した。一方,ジャワ島中部では8世紀中ごろ[ 5 ]朝がおこり,大乗仏教を信奉して栄え[ 6 ]などが建てられた。13世紀末にはモンゴル軍のジャワ侵略が行われ,その混乱に乗じて[ 7 ]朝がジャワ島に成立した。この国はヒンズー教を国教とし,14世紀にはインドネシア(現在のインドネシア共和国を中心とする)の大部分,マライ半島,フィリピンの一部を含む広大な支配権をもち,貿易国として繁栄した。
 ヴェトナム(現在のヴェトナム社会主義共和国を中心とする)北部は,紀元前2世紀末以来中国歴代王朝の植民地的支配を受け,儒教・仏教・道教のほか中国の政治制度や漢字などが移植され,中国化が著しかった。2世紀末には中部ヴェトナムにチャム人が[ 8 ]を建国した。11世紀には李朝がダイベト(大越)と称して現在のハノイに都をおいた。13世紀後半にモンゴル軍の侵攻をしりぞけた陳朝はダイベト(大越)の最盛期であり,[ 9 ]とよばれるヴェトナム文字も普及した。15世紀には一時中国の[ 10 ]王朝の支配下におかれたが,黎利(レロイ)が民衆の支持を得て黎朝を始めた。ダイベト諸王朝では科挙に基づく官僚的中央集権体制を整え,儒教や仏教が盛んであった。
 シャム(現在のタイ王国を中心とする)では,13世紀中ごろタイ人が[ 11 ]朝を建て,クメールから政治・司法制度などを取り入れ元朝とも国交を開いた。14世紀中ごろには[ 3 ]朝がこれに代わり[ 10 ]と交易したが,日本や西欧諸国の貿易船も来航した。両朝ともに仏教文化が広まった。
 ビルマ(現在のミャンマー連邦を中心とする)では,ビルマ人が7世紀前後にチベット方面から南下してイラワディ河の上・中流域に定着し,農地を開拓した。かれらはセイロンから小乗仏教を受け入れて信仰した。11世紀には[ 12 ]朝が成立し,中国の宋王朝と国交を開いたが,13世紀には[ 13 ]に滅ぼされた。

[2] 次の文章を読み,下記の設問に答えよ。[ 新潟・改題]

 東南アジアの各地では当初,インドから伝えられた大乗仏教が優勢であり,そのさまは,(a)アンコールやボロブドゥールなど各地の遺跡から知ることができる。しかしその後,セイロン島からビルマに上座部仏教が伝えられると,(b)インドシナ半島の各地にも普及していった。いっぽう東南アジアの島嶼部では,ジャワ島におこったマジャパイト王国のように,ヒンドゥー教が信仰された。
 13世紀に入り,(c)インドにイスラム王朝ができると,その影響はしだいに東南アジアにも及ぶようになった。15世紀に成立したマラッカ王国は,イスラム教を信仰してマライ半島からスマトラ島一帯を支配し,(d)大いに繁栄した。イスラム教は,マライ半島から東南アジアの島嶼部にかけての地域に伝播し,ジャワ島でもマジャパイト王国の滅亡後,イスラム教国のマタラム王国がおこった。かつてのヒンドゥー教文化は,ジャワ島の東隣のバリ島などに,かろうじて今日まで残っている。
 このように,(e)東南アジアにはインドからさまざまな宗教や宗派が伝えられたのである

設問(1) 下線部(a)に関して,アンコール遺跡の所在地を現在の国の名称で記せ。またボロブドゥール遺跡をのこした王朝の名称を記せ。
設問(2) 下線部(b)に関して,上座部仏教を初めてとりいれたタイ族の王朝の名称を記せ。またインドシナ半島にありながら,中国文化の強い影響を受けたのはどこか。現在の国の名称で記せ。
設問(3) 下線部(c)に関して,13世紀のイスラム王朝の成立から,ムガル帝国の建国までの時代を何と呼ぶか。その名称を記せ。
設問(4) 下線部(d)に関して,16世紀はじめに,マラッカ王国を占領したヨーロッパの国の名称を記せ。
設問(5) 下線部(e)に関して,東南アジアのなかには,インドから宗教や宗派が伝来せずに,キリスト教だけがヨーロッパから伝来したような地域もある。このような地域を含む国の名称を記せ。

[3] 次の文章を読んで,以下の問1から問4に答えよ。[東京都立・改題]

 東南アジアは,古くから中国とインドの影響を受けながらも,両者を結ぶ交易の中間地点として栄え,独自の文化・社会を発展させてきた。前2世紀,前漢の武帝は[ a ]を滅ぼして[ b ]など9郡を置いて現在のヴェトナム地域を支配したが,2世紀に後漢が衰退すると,ヴェトナム中部に[ c ]が成立し,海上交易によって栄えた。同じ頃,メコン川流域にはインド文化の影響を受けて[ d ]が成立したが,6世紀になる[ e ]がそれにとってかわった。[ e ]ではヒンドゥー教や仏教が信仰され,[ f ]などの寺院が造営された。インドネシアのスマトラ島では,7世紀に[ g ]が成立し,海上交通の要衝であるマラッカ海峡を掌握して栄え,ジャワ島でも,8世紀には[ h ]がおこった。これらの地域では,元来ヒンドゥー教の影響が強かったが,やがて(1)仏教も広まった。その後,ジャワ島では13世紀末にヒンドゥー教国の[ i ]がおこったが,この頃からムスリム商人の来航とイスラム教の伝道が本格化し,14世紀末にはマレー半島でイスラム国家の[ j ]が成立し,海上貿易の中心地となった。このように東南アジアの諸王朝は,いずれも海上交易で栄えたが,中国・インド・ヨーロッパを結ぶ交易路は,内陸の絹の道になぞらえて,(2)海の道と呼ばれている。

問1 空欄a〜jにあてはまる語句を記せ。
問2 下線部(1)について,当時この地域に広まった仏教を特に何とよぶか,その名称を記せ。
問3 下線部(2)について,次の設問に答えよ。
(ア) 海の道によって交易された物産にはどのようなものがあったか,インド・東南アジア産と中国産について,それぞれ一つずつ記せ。
(イ) 中国の明は海の道を利用して大規模な南海遠征を行った。この時の指揮官として派遣された人物は誰か,その名前を記せ。

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