3.欧米史

1.欧米史

[1] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れよ。[京都・改題]

 小アジアと[ 1 ]半島とが次第に接近して,まさに接触しようとする地点に細長い[ 2 ]海峡があるが,そこを起点として広がる海は,南では[ 3 ]島を底辺として区画されている。この多島海の島々および周辺の風光明媚な別天地が,古代ギリシア人の本拠地となるが,この地域では,底辺の島を中心として,ナイル河畔のエジプト文明やティグリス・ユーフラテス両河に挟まれたメソポタミア地方の文明などには少し遅れるものの,遅くとも紀元前2600年ころには[ 4 ]時代の段階に入っていたのである。
 そこへ紀元前20世紀ころにギリシア語を話す民族が侵入して来たのであった。この侵入民は先住民の文化を破壊したり吸収したりしながら,紀元前16世紀にはギリシア本土に戦闘的性格の強い[ 5 ]文明を成立させる。この文明が紀元前12世紀ころに民族移動の波を受けて崩壊すると,[ 6 ]時代の段階に入るが,文化的には「暗黒時代」となる。しかし紀元前8世紀ころには,小アジア沿岸のイオニア地方を中心に新しい文化が開花し始め,ホメロスの両詩篇もほぼ成立したと考えられる。そのころにはギリシア人は本拠地のエーゲ海世界の外部へまで発展し,地中海および[ 7 ]の沿岸各地に植民活動を開始する。ホメロスの両詩篇のうち[ 8 ]には,この植民活動開始期のギリシア人の体験が反映しているようである。[ 9 ]島やイタリア半島南部には多くのギリシア人のポリスが建設されたが,今日も繁栄している南フランスの[ 10 ]も,ギリシア人の植民市であった。

[2] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 (1)インド=ヨーロッパ語族に属するギリシア人がバルカン半島に南下・定住を始めたのは紀元前2000年頃のことである。彼らは前8世紀頃からギリシア本土やエーゲ海の島々,そして小アジア西岸にポリスと呼ばれる都市国家を数多く建てたが,(2)それらのポリスのうち,政治や社会の状態についてとりわけ詳しく知ることができるのはアテネである。その数1,000を超えるともいわれるポリスから成るギリシア人の世界は,一つの国家にまとまることはなく,ポリス間は慢性的な戦争状態にあった。前5世紀前半に東方のペルシア帝国の侵攻に対してギリシア人は協力して戦い,戦後にペルシアの報復に備えて同盟を結成した。しかし,やがてデロス同盟の盟主としてほかのポリスを支配する海軍国アテネと,ペロポネソス同盟を率いる陸軍国スパルタとが対立し,(3)前431年にはギリシア世界を二分する大戦争が起こった

問(1) このギリシア人の一派が前16世紀頃から前13世紀頃にかけて生み出した文明を何と呼ぶか。
(2) 今日アテネの政治体制などがよく知られるのは,19世紀にエジプト出土のパピルスから発見された作品『アテナイ人の国制』の記述によるところが大きい。この作品の著者とされる哲学者の名を記せ。
(3) この戦争の歴史を書いた同時代の著名な歴史家の名を記せ。

[3] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れよ。[京都・改題]

 歴史上の年代を決めるのに「キリスト紀元」を用いる慣習は,西洋中世社会で始まったことである。それ以前の古代のギリシア人は,第1回オリンピア祭典の年を起点とする紀年法を用いていたし,ローマ人は[ 1 ]によるローマ建国の年を元年として年代を数えるようになっていた。この両民族の紀年法の起点は,いずれも紀元前[ 2 ]世紀の前半に含まれており,なお全く伝説の中の事件てあった。当時は,ギリシアでもポリスの成立期であり,その点ではローマと歩調を合せていたかの如くであるが,しかし文化的にはギリシアの方がはるかに進んでいたばずである。
アテネの歴史は紀元前6世紀初頭のソロンの改革の頃から詳細に知られるようになる。この改革によってポリスの体制が整備されたが,当面の貧富の対立を解決できなかったので,やがて貧者の不満を利用して,[ 3 ]が僭主として支配することになった。そして彼の政策によりアテネは経済的・文化的に大いに発展したが,その後継者ヒッピアスは市民の反感を買って追放された。その直後にアテネでは部族制の改革が行われ,新しく民主的な体制が誕生した。役人の任期は原則として[ 4 ]であり,500人の評議会と[ 5 ]が重要な役割を演じた。
 アテネにおける僭主追放と前後して,ローマでは最後の王が追放され,共和制が始まる。その最も重要な政治機関は[ 6 ]であり,最高の役人コンスルは二人おり,任期は1年であった。平民の参加できる集会もあったが,その権限は小さかった。その代りに早くから護民官という役人が設置され,また前5世紀の中頃には十二表法が制定されて,貴族による法の濫用は阻止された。しかしアテネと比較して,ローマ社会の顕著な特徴は,[ 7 ]の勢力が根強く続いていたという点である。また「[ 8 ]」という有名な言葉のとおり,その発展の歩みは遅々としていたように見える。
 アテネは前5世紀末にペロポンネソス戦争に大敗して衰退し,その後やがて回復するものの,前338年には[ 9 ]の戦いでマケドニアに敗れ,その支配下に入ることになる。ローマがイタリア半島の統一に乗り出すのは,その頃からであり,まず中部イタリアの諸族を平定し,最後に半島南部の[ 10 ]人の諸都市を平定したのが,前272年のことであった。そこから,さらにシチリア島へ出兵したため,カルタゴとの間に戦争が始まり,ようやくローマは地中海世界の舞台へ登場することになる。このポエニ戦争は,前146年,カルタゴの滅亡をもって終るが,この同じ年にギリシア本土も,完全にローマの支配下に入れられたのである。

[4] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 アレクサンドロス大王が急死すると,その大帝国はただちに分裂した。大王の部将の一人[ 1 ]は,[ 2 ]川から(a)小アジアに及ぶ旧[ 3 ]帝国領土の大部分を保持して王国を築いた。この王国はギリシア文化の東方伝播には大きな役割を演じたが,その領土はあまりに広く,被支配民族も雑多であったから,統一を維持することは困難であった。そのため数十年後には主として[ 4 ]地方だけを支配するようになったので,この王国はこの地方名でも呼ばれるようになるが,その支配圏内に[ 5 ]人が含まれていて,独自の宗教的立場からギリシア化政策に反対したことは重要な事実である。
 次に,別の部将がエジプトを略取して王国を築いた。ここでも(b)少数のマケドニア人とギリシア人が多数の土着民を支配したのであるが,地理的条件に恵まれていたため,豊かで安定した国家となった。
 第三の[ 6 ]王国は,[ 7 ]家が支配することになった。この王国は征服国家ではなく,単純な民族国家であったから,最も安定していたはずであるが,しかし3つの王国のうちでは最初にローマに征服されてしまった。それと前後してローマは西方では[ 8 ]を最終的に征服しており,その後さらに東方へも進出して,他の2つの王国をも征服する。

問(a) 今日,小アジアはどの国の領土になっているか。
(b) マケドニア人に支配される直前まで,エジプトは何という国家に支配されていたか。

[5] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ギリシア本土の諸ポリスの対立・抗争が激しさを増していた紀元前4世紀半ばに,北方のマケドニア王国が勢力を急速に拡大してきた。(1)とくにその王フィリッポス2世は抵抗するポリスを戦いで打ち破りギリシア世界を支配下に入れた。その後まもなくフィリッポスは暗殺されたが,その子アレクサンドロス3世(大王)は父親の遺志を継いでマケドニアとギリシアの連合軍を率いて東方遠征に向かい,遠征の目的であったペルシア帝国打倒を果たした後も東方への進軍を続けて,インド西北部まで達した。10年に渡る遠征の結果ギリシアからオリエント世界に及ぶ大帝国が生まれた。アレクサンドロスは新たな政策を次々と断行したが,若くして病没し,(2)その死後部下たちの争いが生じて大帝国は分裂した。(3)アレクサンドロスの東方遠征以降の約300年間は今日ヘレニズム時代と呼ばれているが,(4)この時代にはギリシア文化が普及して,オリエントの要素と融合し新たな文化を生み出した

問(1) フィリッポス2世をギリシアの自由と独立の敵として打倒することを呼びかけたアテネの有名な弁論家は誰か。
(2) 部下の一人が支配するようになったエジプトでは,首都が大いに繁栄して,自然科学の研究も盛んになされた。その中心となった首都の施設の名を答えよ。
(3) ヘレニズム(ヘレニスムス)の概念を初めて用いた19世紀ドイツの歴史学者は誰か。
(4) この時代の文化を代表する彫刻を一つ挙げよ。

[6] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ローマは,イタリア半島中部,ティベル河畔の一都市国家より出発して,紀元前3世紀には半島を統一し,さらに海外にも進出して紀元前1世紀には地中海を内海とする巨大な帝国となった。(1)最大時にその領土は,北はブリテン島から南はエジプト南部,東はメソポタミアにまで及んでいる。国家拡大の過程においてローマ人はその市民団を閉鎖することなく,友好関係を結んだ他の集団の有力者たちに次々と市民権を与えて,自らの市民団に加えていった。紀元前90〜89年には反乱を機にポー川以南に住むすべての自由人にローマ市民権が与えられた。イタリアの外に住む人々に対してもローマは同様の政策をとったので,地中海世界各地に住む人々に市民権が与えられるようになり,紀元[ a ]世紀初めには帝国内の全自由人に市民権が与えられるに至った。新たに市民権を得てローマ市民団に参入した人々の中には,昇進して政治支配層の一員となる者も多かった。こうして,イタリア人の一派(2)ラテン人の小さな共同体から始まったローマは,多様な民族によって構成され,かっ統一的な性格をもつ世界国家になったのである。
 ところで,こうした発展の過程で,ローマ国家の政治体制は変化した。紀元前6世紀末に樹立された共和政は,(3)拡大のもたらした社会変化と政治的混乱を経験した後,新たな政治体制へと移行した。共和政末期の内乱を最終的に終結させた[ b ]が始めた政治体制は,「第一人者」たる彼が文武の要職をにぎる事実上の皇帝政治ではあったが,ローマの政治的伝統に配慮し共和政の形式を尊重した体制であった。以後約2世紀のあいだ,この政治体制の下で帝国は栄えたが,市民権の拡大を反映して帝国各地の有力者が帝国政治に参加するようになり,(4)五賢帝時代以降は皇帝すら属州の家系の出身者が多くなった。例えば,トラヤヌス帝や(5)マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝らはスペイン系の貴族である。しかし,紀元3世紀になると帝国は内外ともに危機的状態に陥り,同世紀末に政治的危機を克服した[ c ]帝は,共和政的な形式を払拭して,新たな政治体制を創始することとなった。

問(1) ローマの領土が最大となったのはいつごろのことか。次の1〜4から1つ選んで記号で答えよ。
 1.紀元前1世紀後半
 2.紀元1世紀初め
 3.紀元2世紀初め
 4.紀元2世紀末
(2) ローマ人の母語であるラテン語と同じインド=ヨーロッパ語族に属する言語を,次の1〜4から1つ選んで記号で答えよ。
 1.トルコ語
 2.アラビア語
 3.アラム語
 4.ペルシア語
(3) ローマの対外発展のにない手であった中小土地所有農民は多年の従軍で窮乏したが,彼らの没落をいっそうはやめたこととなった重要な要因を一つあげよ。
(4) 五賢帝時代に『対比列伝』(『英雄伝』)など多くの作品を著したギリシア人の文人は誰か。
(5) 哲学者皇帝として知られるこの人物の作品名をあげよ。

[7] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れよ。[京都・改題]

 いわゆる「ギリシア文字」は,紀元前9世紀頃に[ 1 ]人の文字を借用して発明されたものであるが,今日まで連続して用いられてきている。もちろんエジプトの象形文字やメソポタミアの[ 2 ]文字の発明は,紀元前[ 3 ]千年頃にまでさかのぼるが,それらの文字は古代末期には衰滅し,[ 4 ]世紀に西欧の学者によって解読されなければならなかった。
 ギリシア文字は音声を正確に表現することができ,しかも読み書きが容易であったから,ここに人類文化史上の革命的な進歩が起こったのである。文字はもはや専門的な書記を必要とせず,誰でも容易に使えるものとなった。そこで詩人や哲学者や歴史家などが輩出して,自分の作品を後世に伝えるようになったし,また政治や日常生活でも,文字が使われていた。紀元前6世紀末に[ 5 ]が定めた[ 6 ]の制度は,一般市民が原則として読み書きの能力を身につけていたことを前提としている。
 このギリシア文字は,広く地中海沿岸に分布していたギリシア人の間で用いられていたが,ヘレニズム時代には旧ペルシア帝国領内にも普及した。エジプトやメソポタミアの古来の文字が衰退したのは,それに圧倒されたためである。
 ローマ人はギリシア文字の形を少し改変して「ラテン文字」を作り出した。そして早くも紀元前[ 7 ]世紀の中頃には,最初の成文法を青銅板に刻んで公示したと伝えられる。しかしローマ帝国では,東部はもちろん,西方においてもギリシア語が教養語として学習されていた。ギリシアの文人や学者は,帝制時代になっても,ギリシア語で著述するのが普通であった。その代表的な例として,日本でも有名な[ 8 ]をあげることができる。さらには皇帝[ 9 ]は,[ 10 ]派の哲人でもあり,ギリシア語で『自省録』を著している。

[8] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 雄弁家として知られるローマ共和政時代末期の政治家キケロは,紀元前106年にラティウム地方の小さな町アルピヌムに生まれた。民衆派のリーダーとして有名な(1)マリウスと同郷であり,出身家系もマリウスと同様,貴族に属してはいなかった。しかし,キケロは法廷弁論家として成功を収め,その成功によって国家の公職にも当選した。政治家としての栄達を求めたキケロは,ついに前63年に共和政ローマの最高公職である[ a ]に就任した。この年,当時の政治体制に不満を持った貴族カティリーナが国家転覆を企てたが,キケロはこれを未然に防いで「祖国の父」の尊称を得,その名声は頂点に達した。
 だが,前60年(2)ポンペイウス,カエサル,クラッススの実力政治家が密約を結んで「(3)第1回三頭政治」を始めると,キケロは政治活動から離れざるをえなくなり,またカティリーナ陰謀事件の時の非常処置を問題にされて一時ギリシアに亡命せざるをえなくなるなど,不遇の日々を送ることとなった。
 キケロが再び政治の世界に復帰するのは,独裁政治をおこなっていたカエサルが暗殺された前44年である。この年の[ a ]になっていたアントニウスは,カエサルの後継者を自認して権力を握ろうとした。これに対し,キケロは共和政を守ろうとして,得意の弁舌でアントニウスを攻撃し,アントニウスと対立していたカエサルの養子オクタウィアヌスに期待した。一時キケロの活躍でアントニウスは窮地に陥ったが,カエサルの部将[ b ]が仲介してアントニウスとオクタウィアヌスが和解し,前43年にこの3者による「第2回三頭政治」が成立すると,事態は急転した。除かれるべき政敵のリストに入れられたキケロは,アントニウスの放った刺客によって殺害されたのである。
 キケロは中世においても,ローマの作家としては(4)詩人ウェルギリウスとともによく読まれたが,しかし彼の政治家としての側面は忘れられ,(5)修辞学の基本書の作者として尊敬されていた。キケロが西洋の思想と文化に真に大きな影響を持つようになったのは,(6)主要な著作や弁論の写本が発見されて,彼の人と思想の全体が明らかになるようになったルネサンス時代以降のことである。

問(1) マリウスは兵制改革をおこなったことで知られる。その内容を簡潔に記せ。
(2) ポンペイウスが滅ぼしたヘレニズム諸王国の一つの名を記せ。
(3) この政治体制によって権限を与えられたカエサルが展開した,最も重要な政治的軍事的行動は何か。
(4) ウェルギリウスの有名な作品の名を一つ記せ。
(5) 中世の学問体系では,専門領域に移る前に修辞学や文法などを習うことになっていたが,これらの諸学はまとめて何と呼ばれたか,記せ。
(6) キケロの友人宛の書簡を発見したのは,人文主義の先駆であるとともに,理想の恋人ラウラヘの思慕を歌った抒情詩集『カンツォニエーレ』の作者としても知られる人物である。その名を記せ。

[9] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 地中海世界はきわめて古い時代から諸民族の交易活動の場であった。こうした活発な交易が諸文明の経済的基礎をなし,また文化交流をも促した。イギリス人考古学者[ a ]の発掘によって知られるクレタ文明や(1)ミケーネ文明などのエーゲ文明においても,農業生産力の低さのために海上交易は重要な役割をはたしていた。これらの文明の担い手たちは,紀元前16世紀ころからエジプト新王国や小アジアの[ b ]とも競合・接触し,類似の文字を持つなど,東地中海地方の文化交流が進んだ。ドーリア人の南下によってミケーネ文明が滅びたころから,(2)シリアではセム系遊牧民のアラム人が内陸交易に活躍し,小王国を形成したが,海上交易では(3)現在のレバノン海岸に居住する同じくセム系のフェニキア人が,地中海各地に植民都市を建設した。
 地中海世界の国家形態の基本は都市国家であった。ナイル川デルタの沃野をのぞけば,大きな統一国家が成立する地理的条件はなく,大規模な灌漑農業は行なわれなかった。ギリシアのポリス世界のみならず,ローマ帝国も,服属した都市国家の政治的連合を出発点としたのである。しかしローマ人はこれらの服属都市の団結を防ぐためにその権利・義務に差をつける分割統治を行なったので,紀元前1世紀初めにはローマ市民権を要求する[ c ]戦争が生じた。征服による版図の拡大が進むと,ローマは征服地を属州として直轄支配下に置くようになるが,地中海世界を制覇したローマ帝国全体を見るなら,主要な穀物生産地帯は(4)アフリカ北岸・(5)エジプト・黒海地方であり,文化的・経済的重心は地中海東部にあったといえる。[ d ]と呼ばれる専制君主政を始めたディオクレティアヌス帝が東方に遷都した背景のひとつはそこにあった。
 西ローマ帝国は476年に滅亡するが,ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌはメロヴィング朝の末期まで地中海商業を基盤としたローマ的世界=古代地中海世界は存続すると考えた。6世紀にイタリア半島で栄えた[ e ]王国やメロヴィング朝フランク王国などのゲルマン部族国家もローマ的な経済・政治制度・文化を基礎としていたというのである。ピレンヌによればこの古代世界は,8世紀にイスラム勢力がアフリカ北岸から(6)イベリア半島に入り,(7)西地中海を支配下に置くことによって東西地中海交易を困難にしたことから衰退する。それにかわってアルプス以北のヨーロッパでは,カロリング家が[ f ]の戦いによりイスラム勢力に対するキリスト教世界の防衛のリーダーとしての実力を示し,農業と荘園制を基盤とする封建制によって新しい中世的世界を形成しつつあった。ピレンヌ説は多くの批判を浴びたが,イスラム勢力の地中海進出によって古代世界が終わり,カロリング朝とともに中世が始まるという考え方はきわめてユニークである。
 11,12世紀ころから地中海各地でキリスト教徒のイスラム勢力に対する反撃が始まる。十字軍はピレンヌが8世紀に衰退したと考えた地中海商業を再び活発にし,聖地国家の建設など当初は成果をおさめたが,指導者たる諸国王や諸侯たちの間の不和や(8)ビザンツ帝国との相互不信がこうした成果の維持・強化を妨げ,とくに(9)12世紀後半に夷地中海沿岸に有力なイスラム王朝が出現すると,キリスト教徒の植民地的支配の余地はなくなっていく。地中海中央部のシチリア島ではイスラム教徒の支配の後,フランスの[ g ]地方から来て南イタリアに定着していたノルマン系の騎士たちがこれを征服し,12世紀に両シチリア王国を建国した。教皇とビザンツ帝国の利害がからみ,ドイツ・フランス・スペインの王朝が相ついで支配したこの王国は,文化的にもイスラム文化のヨーロッパヘの流入の窓口となり,地中海においても特異な歴史的意義を持っている。イベリア半島におけるキりスト教徒のレコンキスタは15世紀に[ h ]の陥落によって完成する。
 こうして地中海世界は11〜13世紀ころにはなおヨーロッパにおける政治・文化・経済の中心であったといえるが,13世紀以後は,アルプス以北の西ヨーロッパ諸国家が政治的指導力を持ち始め,イタリア政策を行なっていたドイツ(神聖ローマ)皇帝や教皇と競合した。また経済的にも(10)北海・バルト海商業圏が地中海商業圏と並んで重要な意義を持つようになった。

問(1) シュリーマンが発掘した,ペロポネソス半島におけるミケーネ文明の代表的遺跡名を記せ。
(2) その中心都市名を記せ。
(3) この地域のフェニキア人の代表的海港都市の名を2つ記せ。
(4) ローマがアフリカ北岸を獲得するのに決定的な意義を持った戦争名を記せ。
(5) ローマがエジプトを獲得するのに決定的な意義を持った戦いを何というか。
(6) 8世紀にイスラム勢力によって征服されたイベリア半島のゲルマン民族の国家は何か。
(7) 当時東地中海の制海権を維持していたのはどの国家か。
(8) 13世紀初めに十字軍がビザンツを征服して立てた国家を何というか。
(9) 12世紀後半にエジプト・シリアを統一したのは誰か。またその王朝名は何か。
(10) この地域の商業上の最大の都市同盟を何というか。

[10] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 都市と都市国家は,古代地中海世界を構成する最も重要な政治的単位であった。(1)紀元前15〜13世紀にギリシア本土のミケーネやティリンスで栄えた国家は,なお専制的な支配者をもつ小王国であったが,紀元前8世紀以後,アクロポリスやアゴラを中心とする集住によってポリスが成立すると,ギリシア世界は大小の独立都市国家によって構成されるようになった。また(2)ポリス市民は盛んに黒海沿岸から地中海各地に植民都市を建設し,海上交易をおこなった。
 ポリスは軍役義務を負う住民の共同体であり,この義務を担うことによって,住民の政治的権利も拡大した。このような「戦士共同体」としての都市国家の性格は,ローマにおいても同様であった。イタリア中部の都市国家として出発したローマは,他の都市国家を征服し,服属させることによって地中海世界を統一した。こうしたローマの版図拡大において軍役を担った市民は,(3)紀元前4〜3世紀には政治的権利を発展させたが,(4)軍役の長期化は次第に自作農でもある市民の没落をも招き,民主政は危機に陥った。この危機と権力闘争の中からやがて,帝政ローマが誕生する。
ローマ帝国は,地中海世界のみならず,ほぼライン川とドナウ川までの地域をも支配した。帝国は,(5)地中海世界のような都市文明を持たなかったアルプス以北のこの地域にも都市を建設し,都市を中心とした行政単位を設けて統治したのである。これらのローマ都市は,とくにアルプス以北では,ゲルマン民族の移動と西ローマ帝国の滅亡後の混乱の中で衰退した。しかし多くのローマ都市では,人口減少や市域縮小をともないつつも,司教座などの教会を中心とする都市の核は存続し,11世紀以後のヨーロッパにおける遠隔地商業の復活により,商工業都市として,あらたな発展を開始した。またライン川以東の,ローマ都市が存在しなかった地域では,12,13世紀以後,国王や諸侯によって都市が建設された。とくに(5)ドイツ北部からバルト海地方にかけてのハンザ高業国では,こうした建設都市が多い
 ヨーロッパ中世都市においても,市民は都市防衛のための軍役を負い,都市は城壁で囲まれた。一般に中世都市の自治権は,城壁内とその小さな隣接地域に限られ,大きな領域を持つ都市国家へと発展することはなかった。また13,14世紀以後の各地域における国家統合の進展の中で,都市自治は次第に制限されていった。しかし(7)イタリア北・中部の諸都市は,広い領域を持つ都市国家を形成し,ドイツの有力な帝国(自由)都市もまた,イタリア都市のような国家形成は実現できなかったものの,その政治的自立性を維持した。

問(1) (ア)このミケーネ文明において使用された文字を何というか。
(イ)またこの文字を解読したイギリス人学者の名を記せ。
(2) 紀元前500年ころペルシアに対して反乱した,イオニアの中心的な植民都市の名を記せ。
(3) 平民会の議決が元老院の承認なしでも法律となることを認めた,紀元前287年に制定された法を何というか。
(4) 自作農没落の原因として,軍役の長期化以外にどのようなことが考えられるか。1点のみ簡潔に記せ。
(5) 次の都市のうち,ローマ都市に起源を持つものを1つ選んで,記号で答えよ。
 aケルン bニュルンベルク cベルリン dプラハ
(6) ハンザの盟主的存在であった,バルト海南部の建設都市の名を記せ。
(7) 12世紀にロンバルディア同盟の中心となり,また14,15世紀にはヴィスコンティ家の支配下で大きな国家を形成した都市の名を記せ。

[11] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ローマ帝政の初期にパレスチナで成立したキリスト教は,その後ローマ帝国に広がり,さらに中世以後のヨーロッパにおける社会,政治,文化に大きな影響を与えた。(1)ローマ帝国ではキリスト教はしばしば迫害をうけたが,4世紀初めの[ a ]帝による大迫害の後は,キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難であると考えたコンスタンティヌス帝によって313年に公認され,また392年には国教とされた。こうして国家と結びつきながら社会に定着していったキリスト教は,帝政末期には都市を中心とした教会組織の形成と,(2)教父たちの著作活動,そして(3)教義の統一のための公会議によって,その基礎を固めていった。民族移動期の混乱を経て,新しい社会と国家の形成が進められたフランク王国においても,教会,とくに修道院は重要な役割を果たした。カール大帝(シャルルマーニュ)は(4)修道院文化が発達していたイギリスなどから学僧を招き,カロリング・ルネサンスと呼ばれる文化的興隆をもたらした。この時期においてより重要なのは,カールの皇帝戴冠によって,ローマ教皇と皇帝の二つの普遍的権威を軸とする,西ヨーロッパ世界の基本秩序が成立したことである。しかしこの聖・俗両権威の関係は,しばしば対立をも生じさせ,11世紀にはローマ・カトリック教会の改革と世俗権力からの自立化をめざす教皇グレゴリウス7世は,聖職叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝[ b ]と対立した。この対立は1122年のヴォルムス協約によって一応終結するが,その後ローマ教皇の権威は十字軍運動を通じて上昇し,(5)インノケンティウス3世のころには全盛期を迎えた。しかし十字軍の終焉や各国王権の発展にともなって,教皇の普遍的権威は下降を始める。(6)1303年のアナーニ事件と,これに続く「教皇のバビロン捕囚」,そして40年にわたる教会分裂は,ローマ・カトリック教会に大きな動揺をもたらし,これに対する厳しい批判も現われた。15世紀には(7)ローマ・カトリック教会再建の試みもなされたが,根本的な改革は実現されず,宗教改革時代を迎えることになる。

問(1) その原因の一つに,皇帝のためのある儀礼をキリスト教徒が受容しなかったことが考えられる。この儀礼とは何か。
(2) 400年ころアウグスティヌスが著した自伝的著作は何か。
(3) ネストリウス派を異端とした5世紀の公会議の開催地はどこか。
(4) その代表的人物を一人挙げよ。
(5) この教皇がイギリス王ジョンを破門した理由を簡潔に記せ。
(6) この時のフランス王は誰か。
(7) 教会分裂を克服した15世紀初めの公会議の開催都市はどこか。

[12] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 封建社会が安定した11〜12世紀の西ヨーロッパでは,外に向かっての拡大運動が引き起こされたが,その最大のものが十字軍遠征である。(1)ビザンツ皇帝の救援要請に応えて,教皇ウルバヌス2世は1095年のクレルモン公会議で,聖地奪還をめざす十字軍遠征を提唱した。そして,その翌年に出発した第1回十字軍は,聖地を奪取してイェルサレム王国を建てた。しかし,(2)その後イスラム教徒が勢力を回復したため,幾度も十字軍遠征が行われることとなった。13世紀後半まで7回の十字軍が起こされ,一時聖地を奪回したことがあったものの,ながく維持することはできず,また次第に当初の理念も失われるようになって,結局遠征は失敗に終わった。

問(1) ビザンツ皇帝はなぜ救援を求めてきたのか。その理由をごく簡潔に記せ。
(2) 12世紀後半にイェルサレム市を奪回したイスラム教徒勢力の指導者の名を記せ。

[13] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 世界的宗教はいずれも政治・国家と結びついて発展してきた。(1)キリスト教はローマ帝国末期に国家宗教とされ,帝国領内に形成されたゲルマン諸部族の国家も,やがてキリスト教化した。しかしそれぞれの王国において自立的な教会制度が成立したのではなく,(2)ローマ教会の西ヨーロッパのキリスト教会に対する首位権が強化されていき,やがてローマ教皇を頂点とする普遍的な階層秩序(ヒエラルヒー)が成立する。西ヨーロッパのローマ・カトリック教会体制は内部の組織化とともに,(3)コンスタンティノープルを中心とするギりシア正教会からの自立化によって確立された。(4)このような普遍的権威をおびたローマ教会と教皇権の世俗権力との本格的な結合は8世紀なかばに始まるが,教皇は同様に普遍的権威とされる皇帝権と帝国の復活にも重要な役割を果たし,また教皇と皇帝は相互に密接な関係にあった。ローマ帝国の復活・継承を自認するカロリング朝フランク帝国や神聖ローマ帝国の皇帝も,「神の恩寵によって皇帝である」というキリスト教的皇帝理念によって自身の権威を正当化した。しかしこうした教会と世俗権力の癒着は,やがて両者間の対立を生じさせた。まず,ローマ教皇権の皇帝権に対する自立と教会の改革をめざす動きは,(5)11世紀に両者の厳しい対立を引き起こし,(6)14世紀以後は逆にローマ教皇のインターナショナルな権威の介入に対して,各国王権や各地域の信徒の反発が強まった
 教会の中で政治や国家から比較的自由であったのは修道院である。(7)修道士たちは俗世を離れた祈りと労働の使徒的生活を追求したが,逆説的なことに修道院はしばしば.新しい農業制度や学問文化を生み出すことにより,社会に大きな影響を与えた。(8)また教会や聖職者に対する社会の批判が強まったときに,新しい信仰の在り方を提示してキリスト教信仰に活力を与えたのも修道院やそのすぐれた修道士であった

問(1) 最初にキリスト教をローマ帝国の国家宗教とした皇帝は誰か。
(2) ゲルマン民族への布教によってローマ教会の発展に大きく貢献した6世紀末の教皇は誰か。
(3) 8世紀に両教会の対立を深めることになった信仰,上の問題は何か。
(4) このことを示す具体的事例を1つあげよ。
(5) この争いを何というか。
(6) このことを示す14世紀初めのイタリアの事件,および15世紀初めのボヘミアの事件をあげよ。
(7) 6世紀に修道院建設とその会則の制定によって西ヨーロッパの修道生活の基礎を築いたのは誰か。
(8) こうした現象と最も関わりの深い事項を下記の選択肢から2つ選んで記号で答えよ。
 1.クリュニー修道院 2.アルビジョワ派 3.魔女裁判 4.マルティン・ルクー 5.コンスタンツ公会議 6.スコラ哲学

[14] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 (1)527年に即位したビザンツ(東ローマ)帝国皇帝ユスティニアヌス1世は,治世初期の反乱鎮圧に成功すると,ローマ帝国の旧領の回復に乗り出した。そして,北アフリカのヴァンダル王国,イタリアの東ゴート王国を征服し,地中海を内海とする大帝国を再建した。また,国内ではトリボニアヌスらに命じて大規模な法典亀算事業を行い,(2)首都に壮大な聖ソフィア聖堂を建てさせた
 しかし,ユスティニアヌス帝の死後,広大な領土の支配は崩れ,やがてイスラム教徒の進出によってビザンツ帝国の支配は大きく後退することとなった。

問(1) この皇帝は,即位後まもなく,古代から続いていた有名な学問所を閉鎖させた。この閉鎖された学問所の名を記せ。
(2) 聖ソフィア聖堂はビザンツ式建築の代表例とされるが,このビザンツ式建築の特色について簡潔に説明せよ。

[15] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 イギリスは島国ではあるが,その歴史はすでに近代以前からヨーロッパ大陸と密接な関係にあった。先史時代には大陸に広く存在した[ 1 ]人の文化圏に属し,(a)古代にはローマの属州となった。そして中世初期には北ヨーロッパから移動してきたゲルマン系のアングロ・サクソン人がイングランドに王国を形成し,(b)9〜10世紀には統一王国を形成した。また大陸からのキリスト教伝道によってすでに7〜8世紀には多数の修道院を中心に信仰が盛り上がりを示し,(c)有能な修道士は逆に大陸に渡って布教や教育に活躍した。またこのころから北欧民族の活動が活発となり,11世紀のはじめにはノルウェー王をも兼ねたデーン人王[ 2 ]の支配下に置かれ,イングランドは一時的に北欧世界の中心に位置づけられた。しかし1066年にはノルマンディ公ウィリアムのイングランド征服によってフランスとの関係が密接となり,イングランドは西ヨーロッパ世界の構成員としての歴史を歩みはじめる。12世紀にはフランスのアンジュー伯が[ 3 ]としてイングランド王位を継承してプランタジネット朝をひらいたが,海峡の両側にまたがる領土の統治は多くの困難をともない,またイングランド住民に負担をもたらした。そして(d)13世紀にはこのことをひとっの要因とする貴族と国王の間の対立が生じた。商業交易においてもイングランドは早くから大陸と密接な関係にあったが,14世紀には(e)とくにイングランドにとって重要な意義をもっていたフランドルの支配をめぐるフランス王との対立が生じ,百年戦争のきっかけとなった。両国の領土関係が整理されるのはこの戦争後のことである。

問(a) 最初にイングランドのブリトン人を支配したローマの将軍は誰か。
(b) 9世紀後半にデーン人を破ってアングロ・サクソンの王国を防衛した王は誰か。
(c) カール大帝の宮廷で信仰と教育,古典文化の普及に貢献したイングランド出身の修道士は誰か。
(d) この結果,後のイギリスの法と政治制度に大きな影響を与えた事件が生じた。次の事項のうち,これらの事件に関連の深いものを二つ選んで,番号で記入せよ。
 1.フィリップ4世 2.模範議会 3.全国三部会 4.ワット・タイラー 5.ヘンリー3世 6.エドワード3世
(e) イングランドにとってフランドルはどのような意義をもっていたか。簡単に述べよ。

[16] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 北欧のスカンディナヴィア半島やユトランド半島を原住地とするゲルマン人の一派は,ノルマンあるいはヴァイキングと呼ばれ,海上に活動して商業を行うとともに,海賊行為をも行って恐れられていた。(1)彼らは8世紀末頃から西ヨーロッパ各地に進出し,(2)大ブリテン島では激しい侵入を繰り返したあげく,1016年にはその王クヌート(カヌート)が一時イングランドを支配した。西フランク王国領にも侵入した彼らの一派は,10世紀初めに北フランスの一角に所領を与えられて(3)ノルマンディー公国を建て,(4)そこからさらに地中海にも進出して南イタリアとシチリアを征服し国家を建設した。ノルマン人は故地のスカンディナヴィア半島でもノルウェー王国,スウェーデン王国を建て,ユトランド半島にデンマーク王国を建てたが,(5)この3国は14世紀末に同君連合を形成した

問(1) 8世紀末のヨーロッパの政治情勢について説明した文章として適切なものを次から選んで記号で答えよ。
 a.メロヴィング家のクローヴィスがフランク族を統一して強国となった。
 b.メルセン条約によって,フランク王国の領土は三分された。
 c.カール大帝が西ヨーロッパの主な地域を統一した。
 d.オットー1世がマジャール人を撃退し,教皇からローマ皇帝の帝冠を授けられた。
(2) イングランドに侵入した彼らは何と呼ばれるか。
(3) 11世紀後半にノルマンディー公のウィリアムはイングランドを征服してノルマン朝を開いたが,彼が徴税のために作らせた全国的な土地調査簿の名を記せ。
(4) ノルマン人がシチリアや南イタリアに進出した11〜12世紀に,北イタリアでは諸都市がその体質を大きく変化させようとしていた。この点について簡潔に説明せよ。
(5) この連合を一般に何と呼んでいるか。

[17] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,後の問に答えよ。[京都・改題]

 中世ヨーロッパのなかでも,もっとも特徴ある発展をたどったのは,イベリア半島の歴史であった。711年この地に上陸したイスラム教徒は,たちまち北部山岳地帯を除く全土を征服し,8世紀後半には[ 1 ]を首都として[ 2 ]朝をうち立て,以後2世紀,輝くばかりの繁栄期を現出した。
 一方,北部に端を発したキリスト教徒の国土回復運動も,時がたつにつれて激しくなり,この過程にレオン,カスティリャ,[ 3 ],ナバラなどの諸国家が誕生し,12世紀には,ポルトガルも[ 4 ]から独立して,王国を称した。しかし,両教徒の関係は,たんに戦いだけに終始したわけではなく,この間,この地方が文化の交流や伝播に演じた役割も大きかった。とくに12世紀には,西欧の学者でこの地に留学する者も多く,アラビア語文献の翻訳などを通して知られるようになったギリシアやアラビアの諸学問は,西欧にはいって,たとえば[ 5 ]哲学の体系化を促したし,科学の発展にも新しい刺激を与えた。のちルネサンスや大航海時代をもたらすことになる諸学芸の源も,このあたりに見出される。

問(a) 現在でもその地名に,当時の指揮者の名を留めているが,711年イスラム教徒が上陸した地点はどこか。
(b) フランク王国も,上陸後のイスラム教徒に対して遠征を試みた。その戦いをうたった著名な武勲詩の名を記せ。
(c) 西欧世界が,アラビア語文献から受けた恩恵の証拠として,いくつかの言葉は翻訳されないまま,もとの言葉に近い形で西欧の学問用語のなかに残った。その1つを,英・独・仏語いずれかのつづりで記せ。
(d) 12世紀,おもにこの地方で活躍し,アラビア語で書いたアリストテレスの注釈などにより,西欧の学問に大きな影響を与えた人物は誰か。
(e) コロンブスが,第1回の西方航海に出発した年,イベリア半島ではどのような事件があったか。

[18] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

  (1)「ルネサンス」(Renaissance)とは,もともと「再生復興」を意味するフランス語であるが,今日では14世紀頃イタリアで始まり,16世紀頃まで続いた知的革新運動を指す用語として広く用いられている。これは,当時,古代ギリシア・ローマの遺産への関心が高まり,古典古代の文化を学び直すことを通じて,新しい世界観や人間観の追求がなされたことに由来する
 古代文化への関心の高まりは,14世紀以前にも何度か見られる。8世紀末に[ a ]はイギリスの神学者アルクィンをアーヘンに招くなどして,ラテン語の普及や古典的教養の復興に努めた。また,(2)12世紀には,イスラム世界との接触を通じて古典古代の文献が西ヨーロッパに伝えられた。とりわけこの時期に摂取された[ b ]の哲学は,(3)中世キリスト教神学を体系化するに当たって大きな役割を果たした。そういう意味では,中世を通じていくつかのルネサンスの波が継起したと考えることもできる。
 しかし,14世紀以降の知的革新運動は,その変革の規模と内容において,またその影響の及んだ空間的な広がりにおいて,それ以前の一連の古代復興を超えるものであった。人文主義者たちは,一方では古典の批判的な研究を通じて,他方では(4)現実の経験主義的な観察を通じて中世的なスコラ哲学の体系を揺るがし,新たな知の地平を切り開いた。(5)芸術の領域でも,自然や人間のあるがままの状態のなかに美しさを見いだすようになり,写実的な造形芸術や自国語による文学作品が生みだされた。イタリアに始まったこの動きは,やがてアルプスを越えてラテン文化圏全体に波及した。16世紀前半に活躍したネーデルラント出身の人文主義者エラスムスの文通相手は,西はイベリア半島から東はポーランドまで広がっている。
 他方で,(6)イタリアの人文主義者マルシリオ・フィチーノが魔術や占星術に強い関心を抱いていたことに見られるように,ルネサンス人の世界観は,近代的な自然観とはなお異質なものを含んでいた。近代の力学的な自然認識が確立するためには,(7)17世紀のさらなる知的革新を待たねばならない。

問(1) ルネサンスの本質を「世界と人間の発見」ととらえ,今日通用しているルネサンス像の原型を確立した19世紀スイスの歴史家は誰か。次のa〜dの中から1つを選んで記号で答えよ。
 a.ランケ b.ホイジンガ c.ブルクハルト d.ニーチェ
(2) 12世紀,イベリア半島とイタリア半島は共に,西ヨーロッパとイスラム世界の接点となった。
 1.当時,イベリア半島でキリスト教徒が推し進めていた運動を何と呼ぶか。
 2.イタリア半島南部を領有し,12世紀に最盛期を迎えた国の名を記せ。
(3) 13世紀に中世スコラ哲学を集大成した神学者は誰か。
(4) この時期,自然科学の分野において,プトレマイオス以来の通説を覆す重要な発見が行われた。この新しい学説とは何か。
(5) 教皇ユリウス2世の要請によりシスティナ礼拝堂の天井に壁画を描いた画家は誰か。
(6) フィチーノは,フィレンツェのある有力者の庇護を受けてプラトンの著作をラテン語訳した。当時,この都市で学芸を保護した有力な一族の名を記せ。
(7) このことを何と呼ぶか。

[19] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルターが,95箇条の改革意見書を公表して始まったヨーロッパの宗教改革は,信仰の実践と教会のありかたについて,真摯な問い直しをおこなって多くの支持者を集め,ヨーロッパに新たな生活の指針や社会の原理を提供した。しかしそれは同時に,宗教的な対立にもとづく迫害や戦乱を引き起こす原因ともなり,また政治的な抗争の口実として利用されることにもなる。1524年に西南ドイツの農民が起こした反乱に,最初ルターは好意的であった。だが,(1)反乱が中部ドイツに拡大して再洗礼派の影響の下に急進化すると,ルターはこれを非難し,以後ルター派の運動は領邦君主や都市の市民と結びついて支持を得た。1529年,神聖ローマ帝国皇帝はシュパイエルの国会でルター派の布教を禁止したが,諸侯・都市はそれに抗議し同盟を結成して皇帝に対抗した。ドイツにおける宗教問題は,(2)1555年のアウグスブルクの和議で一応の決着をみたが,(3)対立はその後もつづき,1618年には,べーメン(ボヘミア)で王の即位に反対した新教徒を,皇帝の軍隊が弾圧したことをきっかけに三十年戦争が開始された。この戦争は,(4)新教徒擁護を口実とした外国勢力の介入を招いて長期化し,とくに戦争末期にはフランスまでもドイツに遠征して皇帝の軍隊と戦った。
 フランス国内では16世紀に,救済は予定されていると説いたジュネーヴの改革者ジャン・カルヴァンの教義が,都市の商工業者を中心に支持を拡大し,宮廷にも勢力をもつにいたった。ここでも新旧の信仰は,貴族間の対立と結びついて30年以上にも及んだ(5)ユグノー戦争を引き起こした。この戦乱のなかでフランスの[ a ]朝は断絶し,あらたに即位したブルボン家のアンリ4世は,自らカトリックに改宗するとともにナントの勅令を発してユグノーの信仰を承認し,混乱を収拾することに成功した。
 イギリスではすでに,ヘンリー8世と議会がカトリック教会から制度的に離脱して国教会制度を誕生させていたが,改革は比較的穏健なままにとどまっていた。(6)カルヴァンの改革の影響はイギリスにも及んで改革を先鋭化させ,教会のありかたにあきたらない諸勢力は多くの教派をうみだした。国教会に対する批判はやがて国家と国王に対する反抗となって共和政の実現をもたらした。革命で議会軍を指導した独立派のオリヴァー・クロムウェルは,政治上の実権を掌握すると,禁欲的倫理にもとづいた厳格な神政政治を実施し,またカトリック教徒の多く住む[ b ]ヘの軍事遠征をおこなった。共和政が短期間で終了した後,(7)1673年に制定された審査法は,新王のカトリックヘの復帰を警戒した議会による立法であったが,同時に非国教会諸教派の権利をも抑圧することになった。

問(1) この反乱を指導したドイツの宗教改革者は誰か。
(2) この和議によって,帝国内の宗教問題はどのように決着したか。簡潔に説明せよ。
(3) 19世紀に成立したドイツ帝国においても,カトリック,プロテスタントの対立は顕在化した。この時期のカトリック教徒を代表した政党の名は何か。
(4) この戦争に介入したプロテスタント国1つの国名と,その国王の名を記せ。
(5) この戦争中の1572年,多数の新教徒が殺害された事件を何と呼ぶか。
(6) スコットランドではカルヴァン派は何と呼ばれたか。
(7) この法律が19世紀に廃止された際の経緯を簡潔に記せ。

[20] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 コロンブスが現在の西インド諸島に到達した1492年は,[ a ]が陥落し,イベリア半島に残った最後のイスラム王朝が滅びた年でもある。すでにこれより先かつての(1)カスティリヤとアラゴンの両王国は統一されてスペイン(イスパニア)王国を形成していたから,大西洋岸のポルトガル王国と,北部のピレネー山脈に近いバスク地方の(2)ナバラ王国と合わせ,イベリア半島には3つのキリスト教国が存在した。
 イベリア半島における再征服の運動は,単に失地回復にとどまらず,この地方から始まるキリスト教世界の外に向かっての拡大の引き金となった。(3)ポルトガルによるアフリカ沿岸の探検航海にはキリスト教徒の王が支配すると信じられた伝説上の東方の王国を発見し,イスラム教徒を挟撃する目的があったといわれる。このようなポルトガルに対し,教皇は,異教徒を征服し,奴隷となし,土地を没収する権利を与える内容の教書を発した。また,コロンブスによる,いわゆる新世界の発見をうけて,早くも1493年には,(4)新発見の領土を子午線にそった大西洋上の一線の東西で,ポルトガル,スペインの両国が分割する提案を,教皇アレクサンデル6世が行っている。
 スペインは,植民地とした西インド諸島や,メキシコ,南アメリカ大陸で,(5)先住民のインディオに労働を強制して酷使し,人口の著しい減少をさえ招いたが,同時に彼らの間でキリスト教の布教を積極的に行なった。宣教師の中には,インディオに対する白人の苛酷で非人道的な扱いを批判した[ b ]のような人も現れた。
 1516年にスペインの王位を継承したハプスブルク家の[ c ]は,神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねルターらによる改革の運動に対してカトリックの信仰を擁護する立場にあった。宗教改革に対抗するカトリック側の運動のなかで結成されたのが,16世紀の半ば以降,海外伝道にとくに大きな役割をはたしたイエズス会である。イエズス会は,中南米のスペイン領土だけでなく,北アメリカのフランス植民地や,ポルトガルが進出した(6)インド以東のアジアでも布教に活躍したが,布教にあたって(7)現地の宗教や習俗・習慣を取り入れることも多く,とくにラテン・アメリカには,カトリックと土着の宗教が融合した独自のキリスト教信仰が発達した。

問(1) この統一はどのような経緯によったか。一文で簡単に記せ。
(2) 現在のフランス,スペイン両国にまたがったこの王国からは,1589年,フランス王となる人物が現れた。この王が,1598年にフランス全土に対して発した勅令の名を記せ。
(3) これを推進したポルトガルの王子の名を記せ。
(4) この提案にあった分界線をさらに西に移動することに,ポルトガル,スペインが同意して,1494年に両国の間で結ばれた条約は何か。
(5) この労働力は,どのような目的に使われたか。代表的なものを2つ記せ。
(6) インドにおける布教活動の拠点となった都市はどこか。
(7) このことが原因で,18世紀の中国において起こった問題を何というか。

[21] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 16世紀後半オランダ独立戦争の舞台となったネーデルラントは,中世後期以来,経済的にヨーロッパの最も先進的な地域の一つであり,遠隔地商業や毛織物工業の発達による(a)都市の繁栄がみられた。政治的にはネーデルラントは,長らく小都分立の状態にあったが,14世紀末から15世紀にかけて[ 1 ]公国の支配下に統一されて行き,ついで15世紀後半,婚姻関係から[ 2 ]家の統治下に入った。またこの地方では,(b)ルネサンス文化が早く開花し,16世紀の中ごろには,[ 3 ]派の新教が急速な普及を示した。
 1556年スペイン王位についた[ 4 ]は,カトリック的絶対主義の立場からネーデルラントに対して政治的宗教的抑圧を強化したため,同地方の貴族と商工業市民層は,[ 5 ]を指導者として独立戦争を起こした。カトリック教徒の多い(c)南部諸州は,まもなくスペイン国王に帰順したが,北部7州は,1579年[ 6 ]を結成して抗戦をつづけ,1609年スペインと休戦条約を結んで(d)事実上の独立を達成した。

問(a) 16世紀にヨーロッパ国際商業の最も重要な結節点として栄えたネーデルラント都市をあげよ。
(b) ネーデルラントの出身で,16世紀最大の人文主義者といわれる人物は誰か。
(c) この時スペイン領としてとどまったネーデルラント南部は,その後スペイン継承戦争の講和条約によって他の国の支配下に入った。その国名を記せ。
(d) ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を正式に承認した国際条約は何か。

[22] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 [ a ]川下流の北海に面する低地地方は,古くから[ b ]工業と中継貿易によってさかえた。15世紀の後半,この地方はハプスブルク家の帝国の一部となり,1556年にはスペイン領となった。しかし,(1)スペイン王の専制をきらったこの地方の住民は,信仰の自由と自治の回復を叫んでスペインに抵抗し,やがてそれは独立戦争に発展した。カトリック教徒の多かった南部は後に戦線を離れたが,北部7州はユトレヒト同盟を結んで結束し,1581年には独立を宣言する。1585年に南部の港湾都市[ c ]がスペインに占領された時,多くの[ b ]業者が北部に亡命し,この地方の工業の発展の基礎を築いた。
 1609年のスペインとの休戦によって事実上の独立が達成されたが,それより早くこの国は1602年に東インド会社を設立して東南アジアに本格的に進出し,やがて先行したポルトガルを駆逐して(2)香料貿易の独占をはたした。同じころ,イギリスもまた東南アジアヘ進出をはかったが,当初協力的であった両国の関係は(3)1623年の事件をきっかけに悪化して,イギリスは香料貿易から撤退し,またこの国とならんで日本の平戸に置いていた商館も同じ年に閉鎖した。この国は,新大陸にも進出して,(4)北アメリカやブラジルなどに植民地を拓き,砂糖をはじめとする新大陸物産の輸送を行なって巨大な利益をあげ,ヨーロッパ最大の海上貿易国として,その首都は世界の金融市場の地位にあった。また1652年にはアフリカ南部に[ d ]植民地を建設し,東西の貿易路を結ぶ中継基地とした。
 この国の繁栄は,(5)30年戦争後のウェストファリア条約で独立が正式に国際的な承認を受けたころに頂点にあったといえよう。1651年にイギリスのクロムウェルが発した[ e ]は,イギリスの植民地貿易からこの国の船舶を排除することを目的としていた。イギリスとこの国の対立は,やがて17世紀後半の三度にわたる戦争に発展し,イギリスとの戦争に最終的に敗れたこの国は海上権を失い,衰退は急速であった。

問(1) この王は誰か。
(2) この国が香料貿易の拠点を置いたのはどこか。都市名とその都市のある地域名を下から1つずつ選び,その組合せを記号で答えよ。
 都市名─1.シンガポール 2.ゴア 3.マカオ 4.マニラ 5.バタヴィア
 地域名─6.インドシナ半島 7.ジャワ島 8.フィリピン群島 9.マライ半島 10.モルッカ諸島
(3) この事件を何というか。
(4) この国が北米大陸に建設した都市の,現在の名は何か。次の1〜5から1つ選び記号で答えよ。
 1.ケベック 2.モントリオール 3.ニューヨーク 4.ボストン 5.ニューオーリーンズ
(5)当時のこの国の正式の名称は何か。

[23] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 イギリス,オランダ両国が東南アジアの海域に進出したのは16世紀の末のことである。(1)1581年に本国スペインに対して独立を宣言し,リスボンヘの入港を禁止されたオランダは,胡淑・香料の直接入手をはかって1595年にはジャワ島のバンテンに到達,その後ポルトガル人の貿易拠点を奪って香料貿易の実権を獲得した。フランドル地方のアントワープが,1585年にスペインの軍隊によって包囲・破壊された後,スペインとの対立を深めオランダを軍事支援していたイギリスも,追随して東南アジアヘの進出をはたした。
 オランダは当初,港市ごとに会社が乱立し貿易競争をくりひろげたが,(2)1600年にイギリスで東インド会社が設立されると,オランダも連合東インド会社を発足させ,アフリカ南端からアジアを経て南米大陸南端にいたるまでの領域における貿易の独占権をあたえた。東インド会社は,軍隊をもち,各地に要塞を築いて,武力にまもられて貿易を行った。両国の東インド会社ははじめ協調していたが,しだいに関係は悪化し,1623年に起きた[ a ]事件をきっかけに,イギリス東インド会社は香料貿易から撤退して活動の中心をインド亜大陸に移した。インドでは,イギリスは先行したポルトガル,オランダの勢力範囲を避け,最初北西インドのスラトに商館を置いた。これはイギリスにとっては幸運であった。というのはこの地方は,後に(3)インドからの最大の輸入品となった製品の主要な産地のひとつであったからである。
 イギリス東インド会社はやがてインドにおける拠点をマドラス,ボンベイと拡大し,17世紀末には,後にインド最大の植民地都市となる[ b ]の建設を開始した。インドでは,イギリス東インド会社は,(4)フランスの東インド会社と権益を争ったが,(5)1757年のプラッシーの戦いで在地の権力と結んだフランス東インド会社軍を破り,フランスを圧倒した。1765年にはムガル帝国皇帝からベンガル地方の徴税権を獲得し,イギリス東インド会社は事実上の政府として領土の支配を開始した。このような東インド会社をイギリスの議会・政府は,(6)1773年と1784年の2回の議会立法を通じて統制下に置き,そのことでインドの一部を間接的に統治することになった。さらに(7)いくどかの戦争を通じてインドにおけるイギリスの支配領域は拡大する。19世紀に入ると,(8)イギリス国内では東インド会社の貿易の独占に反対する声がしだいに強まり,1813年の新特許状では,[ c ]の取引の特権を残して独占が廃止され,1834年以降は会社の商業部門を廃して,東インド会社は統治機関としての性格をいっそう強化した。

問(1) 独立の主体となった同盟は何か。
(2) これに関連し,スペインが行っていた対アジア・アメリカ貿易の形態の特徴を簡単に説明せよ。
(3) この製品は何か。
(4) 活動を停止していたフランス東インド会社を,1664年に再組織したフランスの財務長官は誰か。
(5) この戦争と同じ時期に,ヨーロッパで行われていた戦争は何か。
(6) この2つの年の間に,北米大陸で進展した事態について,60字以内で説明せよ。
(7) これに該当する戦争の名を2つ記せ。
(8) この背景を簡単に説明せよ。

[24] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 1479年アラゴン,カスティリャ両国が合同して成立したスペイン王国は,1492年イベリア半島におけるイスラム勢力の最後の拠点[ 1 ]を攻略し,国土の統一を達成する一方,海外植民地の建設と経営にも積極的に乗り出した。1516年スペイン王位についたハプスブルク家のカルロス1世が,1519年フランス王[ 2 ]を破って神聖ローマ皇帝に選ばれカール5世となると,その領土はスペイン,ネーデルラント,ドイツ,イタリアからアメリカ大陸にまでひろがり,ヨーロッパ最大の勢力としてのハプスブルク帝国が出現した。1556年カール5世の退位後,ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系とにわかれたが,スペイン王位をついだフェリペ2世は,(a)反宗教改革の先頭に立ってフランスの宗教内乱に干渉し,1571年には[ 3 ]でオスマン帝国艦隊を破り,さらに1580年には王統の絶えたポルトガルとその海外領土をもあわせて「太陽の没することのない」大帝国をつくりあげた。また16世紀後半には,(b)アメリカ植民地の経済開発の進展の結果,膨大な量の貴金属とりわけ銀がスペイン本国へもたらされた。しかし,フェリペ2世によるカトリック信仰の強制は1568年以降ネーデルラントの反乱をまねき,また1588年には無敵艦隊が[ 4 ]治下のイギリスによって撃滅されるなど,王の治世末期にはスペインの国威の低下が明らかになった。
 フェリペ2世の死後17世紀に入ると,スペインの衰退は一層急速になった。三十年戦争中,スペインは旧教側に立って戦い,(c)1659年ようやくフランスとの長年にわたる戦争を終結させたが,この時点でヨーロッパにおけるスペインの政治的優位は完全に失われた。その後スペインは,(d)17世紀末までにヨーロッパの覇権を求めるフランス王ルイ14世の侵略戦争によってその領土のいくつかを奪われたが,18世紀初頭,カルロス2世死後の王統断絶がもとで起こったスペイン継承戦争は,スペイン帝国の一層の縮小をもたらすことになった。すなわち,(e)この戦争の講和条約はスペイン,フランス両国が合体しないことを条件にプルポン家によるスペイン王位継承を認めたが,これと引きかえにスペインは,イギリスにたいして地中海の要地,[ 5 ]とミノルカ島を割譲し,またオーストリアにたいしてもネーデルラント南部とイタリアのナポリ,ミラノなどを与えなければならなかったのである。
〔問〕
(a) このフランスの宗教内乱は何と呼ばれるか。
(b) アメリカ産の銀の流入以前にヨーロッパにおける銀の主産地であったのはどの地域か。
(c) この時のフランスの宰相は誰か。
(d) この時期のルイ14世の侵略戦争を1つあげよ。
(e) 1713年に講和条約が結ばれたのは,どの国の何という都市か。

[25] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 イギリスでは,17世紀の王政復古期に(1)国教会の体制が樹立され,(2)以後ながらく国教徒以外の者はこの体制のもとで差別をうけることになった。だが,19世紀に入ると,プロテスタント非国教徒の勢力が増大し,また(3)カトリック教徒の政治運動もたかまってきたために,(4)議会は彼らにたいする差別の除去にのり出した。時代をくだって第一次世界大戦中には,(5)非国教徒の政治家が首相となってイギリスを勝利にみちびいたが,ここにも非国教徒の地位の上昇がうかがわれる。
 ドイツでは,三十年戦争に終止符をうった17世紀半ばの講和条約によって宗教平和が回復された。この条約では,(6)およそ一世紀前に結ばれた宗教和議の原則が再確認されたが,同時に宗教的寛容へむかっての一歩も踏み出された。17世紀のドイツ諸侯のなかでとくに(7)ホーエンツォレルン家のフリードリヒ=ヴィルヘルム(大選帝侯)は柔軟な宗教政策をとり,(8)フランスを追われたユグノーを自国に迎え入れた。18世紀には,(9)フランス啓蒙主義の影響をうけたプロイセンのフリードリヒ2世が,信教の自由をみとめる政策をとった。しかし,19世紀後半の帝国統一後のドイツでは,(10)ビスマルクによってカトリック教会にたいするはげしい弾圧が行われたことを忘れてはならない。
問(1) イギリス国教会が最初に成立したのは16世紀前半のことだが,そのときの国王の名を記せ。
(2) この点で1673年に議会によって制定された法律が重要だが,その法律は何と呼ばれるか。
(3) 1801年にイギリスに正式に併合された地域におけるオコンネル(オーコンネル)らの運動がとくに有名だが,その地域はどこか。
(4) 1820年代に議会がこの方向にそってとった2つの重要な措置は,何と何か。
(5) 誰を指すか。
(6) この宗教和議はふつう何と呼ばれるか。
(7) 同家が15世紀以来支配し,のちの強国プロイセンの中心部分をなしてゆく選帝侯国の名を記せ。
(8) この点でルイ14世が1685年にくだした決定が重要だが,それはどんな決定か。
(9) フリードリヒ2世が自国に招き,その影響をうけたフランスの代表的な啓蒙思想家の名を記せ。
(10) この弾圧は非開化主義にたいする闘いの意味をこめて何と称されたか。

[26] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 (1)ヨーロッパの多くの国々には,近代的な国民代表制の議会の出現に先立って,中世に起源をもつ身分制議会が存在した。(a)イギリスの場合には,1265年に大貴族と高位聖職者のほかにはじめて州と都市の代表を加えた集会が開かれ,これが身分制議会の起源となった。また(b)フランスでは,14世紀初頭に,教皇と争っていたフィリップ4世によって最初の身分制議会が召集された
 (2)(c)イキりスでは17世紀に入って議会と国王との間で対立・抗争がくり返され,ピューリタン革命と王政復古をへたのち名誉革命によって議会の国王にたいする優位が確立された。そして,(d)18世紀には責任内閣制が樹立され,さらに19世紀から20世紀にかけて数次にわたる選挙法改正や議会改革がおこなわれるなどして,中世以来の議会が根本的な断絶をへることなしに漸次的に近代的な議会へと変身をとげていった。(e)イギリスでは17世紀後半の党派の対立に由来する2大政党体制が長らく持続し,また,普通選挙制の実用がフランスなどにくらべて遅れたのも,こうした事情と無関係ではない。
 (3)フランスでは,17世紀および18世紀に国王の力が強大化する過程で14世紀以来の身分制議会は長期にわたって召集されなくなり,(f)貴族の力も抑えこまれた。そして,(g)18世紀末の大革命とともに身分制議会は最終的に姿を消し,大革命を境に新しい議会の歴史がはじまることになった。このように中世以来の身分制議会と近代の議会との間に断絶が生じたために,(h)その後,普通選挙制の導入にかんしてはフランスがイギリスに先んずることになったと見ることもできる
 (4)ドイツでも,中世以来の身分制議会である帝国議会と近代の帝国議会との間には,大きな断絶があった。前者が(i)神聖ローマ帝国の崩壊とともに姿を消してから半世紀以上もへて,後者が誕生した。この新しい帝国議会は,同時代のイギリスやフランスの議会にくらべてその権限は低く抑えられていたが,(j)ともかくも普通選挙制によって選ばれることになっていたことは忘れてはならない

問(a) このとき大きな役割を演じた貴族の指導者の名前を記せ。
(b) この身分制議会はふつう何と呼ばれ,どのようなグループから構成されていたか。
(c) この過程で起こった次の諸事件を年代順に並べよ。ただし,記号のみを記せ。
 (ア)議会による審査律の制定
 (イ)チャールズ1世の処刑
 (ウ)クロムウェルの護国卿就任
 (エ)ウィリアム3世とメアリ2世の即位
 (オ)ジェームズ1世による王権神授説の主張
(d) 最初の首相としてこの制度を創始したのは誰か。
(e) 17世紀後半に議会に出現した2つの党派はそれぞれ何と呼ばれたか。また,これら2つの党派は19世紀にはそれぞれ何という政党名を称するようになったか。古い党派の呼び名と新しい政党名との関係がはっきりわかる仕方で解答せよ。
(F) 17世紀半ばに王権の強大化に抗して貴族が起こした反乱はふつう何と呼ばれるか。
(g) 1789年に召集された身分制議会からどのようにして国民議会が生まれたか。その経緯を60宇以内で述べよ。
(h) 次のフランスの議会のなかから普通選挙制によって選ばれた議会をすべて拾い出し,記号で答えよ。
 (ア)1791年,憲法にもとづく立法議会
 (イ)1792年に召集された国民公会
 (ウ)1795年憲法にもとづく議会
 (エ)7月王政下の議会
 (オ)1848年4月に選出された議会
 (カ)1875年憲法下の議会(下院)
(i) このことともっとも直接的な関係のある事項を次のなかから1つ選び出し,記号で答えよ。
 (ア)ライプチヒの戦い
 (イ)北ドイツ連邦の成立
 (ウ)フランクフルト国民議会
 (エ)普墺戦争
 (オ)ライン同盟の結成
 (カ)オーストリア=ハンガリー帝国の成立
(j) 晋通選挙制のもとで帝国議会に進出し,第一次世界大戦直前に第一党になった政党名を記せ。

[27] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ヨーロッパの18世紀は戦争とともに始まった。スペイン王カルロス2世が継嗣のないまま没したことがその発端である。遺言で(1)フランス国王の孫,ブルボン家のフィリップが王位継承者に指名され,1700年スペイン王フェリペ5世として即位した。ヨーロッパ諸国は,フランスがスペインを併合し,(2)ヨ一ロッパにおけるその領土と広大な海外植民地とを獲得して,国際秩序に対する脅威となることを警戒した。そのためイギリス,オランダ,オーストリアは同盟を結んでフランスに宣戦,スペイン継承戦争が開始された。この戦争は,(3)ヨーロッパのほとんどの国が参加し,大規模な国際戦争として戦場もスペインのみならず,イタリア半島,ドイツ,オランダに拡大,さらに海外植民地での英仏の衝突をともなった。
 同盟を呼びかけたのは(4)イギリス王ウィリアム3世であった。ウィリアムはオランダの [ a ]家の出身で,1688年の名誉革命にさいしてイギリスに招かれ王位についた。ウィリアムはそれ以前,総督としてフランスによる侵略からオランダを防衛し,さらに(5)領土拡張政策をつづけるフランスを包囲するため,1686年には,自ら中心となって,オーストリア(神聖ローマ帝国)皇帝,ドイツ諸侯,スペイン王とともにアウグスブルク同盟を組織した。1688年に勃発した[ b ]継承戦争は,このアウグスブルク同盟とフランスとの戦いであった。ウィリアムを王に迎えたイギリスはそれ故,フランスとの対立を決定的に深めることになる。こうして17世紀の末にイギリスは,国際商業の覇権を争って(6)17世紀中に3度にわたって交戦したオランダとの対立関係を解消し,かわって英仏の対立が,その後1世紀以上にわたってヨーロッパの国際関係の一つの基軸として維持された。
 スペイン継承戦争の戦況は,フランスの不利のままに終始したが,1711年に皇帝ヨーゼフ1世が死去し,対フランス同盟がスペイン王に擁立していたカール大公が皇帝に即位したため,今度はハプスブルク家の勢力の強大化を懸念したイギリスが,戦争継続の意志を喪失,1713年のユトレヒト講和をもって終息した。講和条約はフェリペ5世の王位を承認したが,スペインのヨーロッパにおける属領は分割された。イギリスは条約によって(7)地中海や新大陸に新たな領土を獲得したが,さらにアシエントと呼ばれる[ c ]貿易の独占権をスペインから譲渡されたことは,その後のイギリス経済に多大な影響を与えた。

問(1)この王は誰か。
(2)スペインが本国以外にヨーロッパに有した領土を1つ記せ。
(3)皇帝側にたって参加したブランデンブルク選帝侯はその功績によって,王に任じられた。その王の名と王国の名を記せ。
(4)ウィリアム3世時代の1701年に制定された王位継承法は,次期国王のアン女王の後は,ドイツのある選帝侯領の君主がイギリス王位を継承すべきことを定めた。この選帝侯領とはどこか。
(5)ライン左岸で,この時期にフランスによって併合され,その後19・20世紀になってもフランス・ドイツ間で帰属が争われた2地域はどこか。
(6)この戦争の原因となったイギリスの立法は何か。
(7)地中海・新大陸にイギリスが獲得した領土をそれぞれ1つずつ記せ。

[28] 次の文章を読み,下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 ヨーロッパでは,(1)中世末から16世紀にかけてイギリス,フランス,スペインなどで国王が諸侯や騎士をおさえて権力を強化する一方,教皇の権威の低下や宗教改革によってラテン・キリスト教文化圏の精神的な一体性が揺らぎ始めた。こうした動きを背景に,個々の国家が独立した政治的主体として国際秩序の形成に関与する主権国家体制が生みだされた。そのきっかけとなったのは,(2)1494年に始まった国際戦争であった。この戦争では,ハプスブルク家とフランスのヴァロワ家とがヨーロッパの覇権をめぐって争い,イギリス,ヴェネツィア,ミラノなども加わって複雑な外交をくりひろげた。最終的に1559年のカトー=カンブレジ条約によって講和が成立するまでの間に,旧教国であるフランスはハプスブルク家に対抗するためにドイツの新教勢力や(3)東方の非キリスト教国とも同盟を結んだ。こうして,(4)特定の一国が強大とならないように各国が主義や体制の違いをこえて同盟し,互いに牽制し合うことによって国際維持しようとする考え方が生まれた。(5)17世紀前半の三十年戦争においてもフランスは,ハプスブルク家の強大化をおそれてデンマーク,スウェーデンなどの諸国とともに新教徒側を支援した。その後,ヨーロッパの国際関係は.大陸ではフランスとハプスブルク家との対抗関係を基軸に展開する一方,海外では植民地の支配をめぐってオランダとイギリス,次いでイギリスとフランスとの対立が強まり,ヨーロッパ本土の戦争と海外の植民地争奪戦はしばしば密接に結びつきながら進行した。(6)18世紀にはいると中・東欧でプロイセンとロシアが台頭し,ヨーロッパ大陸の国際関係にも変化が生じた。18世紀末にはポーランドがロシア,オーストリア,プロイセンの領土拡張の犠牲となり,また,(7)フランスで革命が勃発すると,革命に反対する諸国とのあいだで戦争が始まった。革命によって主権在民の原則が確立されたフランスでは,諸外国からの干渉に対する戦いは,王朝の利害に基づく従来の戦争とは異なり,市民的軍隊による国民戦争の性格を帯びた。列強の軍事的包囲を持ちこたえたフランスはやがて攻勢に転じ,ナポレオンは国民軍を率いて大陸制覇に乗り出した。この戦争によって革命の理念が大陸の諸国に拡大する一方,(8)諸国民のあいだではフランスの軍事的支配に対する反発も生まれた。ナポレオンの没落後,革命前の王朝を正統とする復古的な考え方に基づいて国際秩序の再建が図られたが,(9)自由主義やナショナリズムの勃興によってこの体制も徐々に崩壊に向かった

問(1) ばら戦争後のイギリスで集権化を推し進めた王朝の初代の国王は誰か。
(2) 1.この戦争の名を記せ。
2.この戦争の危機に対処するためには,宗教や道徳にとらわれずに行動する政治指導者が必要であると説き,近代政治学の先駆者となった思想家は誰か。
(3) この国が1535年にまずフランスに認め,その後イギリスやオランダにも与えた特権は何と呼ばれるか。
(4) この考え方の核となる概念は何か。
(5) この戦争の惨禍を見て,国際間で守られるべき法規の確立を主張したオランダの法学者は誰か。
(6) プロイセンの勢力拡大に直面したオーストリアはついに宿敵フランスと同盟を結び,孤立したプロイセンはイギリスと結んで戦争を起こした。この戦争の名を記せ。
(7) フランス革命による国際関係の変化をふまえて,恒久平和の達成こそが国際政治の中心的課題であり,そのためには自由な国家間の連合が必要であると説いたドイツの哲学者は誰か。
(8) スペインでもナポレオンの支配に対する民族主義的抵抗が起こった。この抵抗運動を主題とする『5月3日の処刑』をはじめ,民族文化をふまえて幻想的・風刺的作品を描いたスペインの画家の名を記せ。
(9) この体制にいち早く打撃を与えたのは,ラテン・アメリカ諸国の相次ぐ独立てあった。この時期,アルゼンチン,チリ,ペルーなどの独立運動を指導した人物の名を記せ。

[29] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 近代初期のヨーロッパにおける芸術家や思想家の活動は,しばしば権力者の宮廷の世界と密接に結びついていた。聖俗の有力者は,自らの威信を高めるために学芸を保護し,芸術家や学者のパトロンとなった。たとえばルネサンス期のフィレンツェでは,(1)メディチ家がブルネレスキ,ボッティチェリ,ミケランジェロなどすぐれた建築家や画家に活動の場を提供し,また(2)人文主義者によるギリシア古典の研究を援助した。イギリスでも,(3)16世紀後半から17世紀初頭にかけて,エリザベス1世の宮廷を中心に,詩人エドモンド=スペンサーや劇作家シェイクスピアらが活躍した。17・18世紀には,各国の王権は,絶対君主としての威光を示すために宮廷に文化人を集め,その才能を積極的に活用した。(4)絵画の分野では,フランドル派のルーベンスやファン=ダイク,スペインのベラスケスらが宮廷画家として活躍した。フランスでは,ルイ13世が登用した宰相[ a ]によってアカデミーが設立され,フランス語の統一がはかられた。つづく(5)ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を造営し,「太陽王」としての絶対的な権力を演出するために多くの画家や文筆家を動員した。コルネイユ,ラシーヌ,モリエールらの劇作家が活躍し,フランスの古典主義文学が最盛期を迎えたのは,この時代である。
 18世紀にはいると,造形芸術の分野で,前の時代にくらべてより繊細で優美なロココ様式が流行した。宮殿建築としては,(6)フリードリヒ2世がポツダムに建てた[ b ]宮殿やマリア=テレジアが完成したウィーンのシェーンブルン宮殿が,その代表的な例である。理性を重視し,非合理的な慣習を批判した啓蒙主義者たちも,宮廷の世界と無縁ではなかった。フリードリヒ2世や(7)エカチェリーナ2世ら啓蒙専制君主たちは,ディドロやヴォルテールと交際し,新しい思潮をとりこみながら国力の強化に努めた。19世紀に市民社会が成長し,新たな文化の担い手となるにつれて,宮廷に代わる新たな学問・芸術の場が形成されていった。しかし,宮廷文化のなかで発達した礼儀作法は,宮廷の外で暮らす一般の人びとにも部分的に浸透し,市民社会のマナーとなって受け継がれていくのである。

問(1) この家の出身の教皇が,サン=ピエトロ大聖堂の改築費用をまかなうためにドイツで販売を許可したものは何か。
(2) 人文主義者の活躍はアルプスの北でもみられた。ギリシア・ローマの古典や聖書を研究する一方,聖職者の道徳的堕落をたくみに風刺して名声を博したロッテルダム出身の人文主義者は誰か。
(3) この時代のイギリスでは,ルネサンス的な宮廷文化が開花する一方で,経済的な変化にともなって職を失って移動する人びとも増大した。この問題に対処するために制定された法の名を記せ。
(4) これらの画家たちに共通する様式を何と呼ぶか。
(5) 財政面では,ルイ14世は財務長官コルベールを重用して,国力の強化をはかった。コルベールの行った政策の内容を簡潔に説明せよ。
(6) フリードリヒ2世は,マリア=テレジアによるハプスブルク家の家督継承に異議を唱え,そのために戦争が起こった。この戦争の結果,フリードリヒ2世がハプスブルク家から獲得した領土はどこか。
(7) 西欧の先進的な文化に強い関心を示したエカチェリーナ2世は,他方でロシアの伝統的な農奴制を強化した君主でもある。彼女の治世下に勃発し,鎮圧された大規模な農民反乱の指導者は誰か。

[30] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[新潟・改題]

15世紀末から新大陸への渡航が始まり,16世紀から新大陸アメリカの植民地経営が開始された。北アメリカでは,イギリスによるニューイングランド植民地,フランスによるケベック植民地,ルイジアナ植民地などの経営が,17世紀初めから大規模に進められた。イギリスは,17世紀はじめから北アメリカで,活発な植民活動をおこない,18世紀前半に東部海岸地域で南北にわたって,[ 1 ]の植民地を建設した。これらの植民地は,イギリス本国の[ 2 ]主義政策のために,商工業を中心とする経済の自立的な発展を制約されていたが,植民地議会などの自治制度をもち,自由な民主的な気風が強かった。イギリスは,フランスと長いあいだ,植民地戦争をくり返しておこない,17・18世紀にわたって植民地を東部海岸地域で獲得したが,とくに,[ 3 ]年に終結した植民地七年戦争の結果,[ 4 ]講和条約で,英仏間の植民地領域の再編成がおこなわれた。これにより北アメリカ東部海岸地域に,最終的にイギリス領植民地が確立した。イギリス領植民地の北部では,自営農民による農業がおこなわれ,商工業も発達したが,南部では,おもに黒人奴隷を使用する[ 5 ]が発達した。七年戦争ののち,イギリス本国は,アメリカ植民地への課税政策を強化し,ことに1765年の[ 6 ]条令は,植民地住民の政治的権利を侵害する法律として激しい不満をひき起こしたこの条令は翌年,廃止されたが,なお課税政策は強められたので1774年,第一回[ 7 ]会議が開かれ本国の政策に対して植民地住民の代表者は激しく抗議した。翌年の1775年から独立戦争が始まり,[ 8 ]年,イギリスは国際条約でアメリカ合衆国の独立を承認した。

設問(1) 北アメリカに植民地を建設したヨーロッパの国家のうち,イギリス・フランス以外の国家を二つあげよ。
設問(2) 植民地住民の本国に対する抵抗運動に大きな影響を与えたとされるイギリスの思想家の名を記せ。

[31] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 つぎの〔ア〕〔イ〕は,元徒刑囚を主人公とする(1)(2)フランスの歴史小説(1862年刊)から引用したものである。〔ア〕は,登場人物の一人マリユスが,1827年17歳の時,復古王政支持者からナポレオン支持者へと転向をとげる場面を描いている。〔イ〕は,その約1年後,マリユスが,共和主義者に論争を挑んだあげく論破され,ナポレオン崇拝熱から冷めていく様子を描いている。

〔ア〕 マリユスは屋根裏の小さな自分の部屋にひとりでいた。ナポレオン軍の公報を読んでいた。ときどき亡父の名が出できたし,皇帝の名はしょっちゅう出てきた。大帝国全体が彼の目の前に現れた。ときどき,父親が息吹きみたいにそばをとおりすぎ,耳もとに話しかけるような気がした。彼はだんだん妙な気持ちになってきた。太鼓や大砲やラッパの響きや,軍隊の整然とした歩調や,騎兵隊のかすかな遠い早がけの響きが聞こえるような気がした。胸がしめつけられるようだった。感動で身をわななかせて, あえいだ。ふいに,心のなかでなにが起こったのか自分がなにに服従しているのかわからないままに,立ちあがって両腕を窓のそとに突きだし,闇や,静けさや,暗い無限や,永遠のひろがりをじっとみつめて叫んだ。
「皇帝ばんざい!」
 この瞬間で,すべてが決まった。皇帝は,崩壊を建てなおす驚異的な建築家であり,シャルルマーニュや,ルイ11世や,アンリ4世や,リシュリューや,ルイ14世や,(3)公安委員会などの後継者だった。あらゆる国民に,フランス人を「大国民」とほめさせる使命をになった人物だった。いやそれ以上だった。剣をにぎってヨーロッパを,光りを放って全世界を征服するフランスの化身そのものだった。マリユスは(4)ボナパルトのなかに,つねに国境にすくっと立って未来を見守る,まぶしくかがやく幽霊を見た。
〔イ〕 「いったい,きみたちは,皇帝を賛美しないとすれば,だれを賛美するんだ! 彼にはすべてがそなわっていた。完全だった。ユスティニアヌスのように法典をつくり,カエサルのように命令し,談話では,タキトゥスの雷撃にパスカルの稲妻を混じえた。歴史をつくり,歴史を書いた。(5)ティルジットでは皇帝たちに尊厳をおしえた。このような皇帝の帝国に住むことは,国民としてなんとすばらしい運命だろうか。しかもその国民はフランスの国民であり,フランスは自分の天才をこの男の天才につけ加えたのだ! 山が四方にワシを放つように,地上のあらゆる方面に軍隊をとびたたせ,征服し,支配し,粉砕し,勝利をつぎつぎに勝ちとってヨーロッパのいわば金色にかがやく国民となり,歴史をつらぬいて巨人のファンファーレを鳴りひびかせ,征服と眩惑によって二度世界を征服する。これは崇高なことだ。これより偉大なことが,いったいあるだろうか?」
 「(6)(7)自由ていることだ」とコンブフェールが言った。
こんどはマリユスが顔を伏せた。この簡単な,冷たい言葉は,鋼鉄の刃のように,彼の叙事詩のような熱弁をつらぬいた。彼は心のなかで熱情が消えさるのを感じた。(辻昶訳 訳文は一部省略した)

問(1) 小説名(ア)と,作者名(イ)を記せ。
(2) (ア)作者は,古典主義と啓蒙主義を批判するかたちで19世紀前半に隆盛した文芸思潮を代表している。その文芸思潮名を記せ。(イ)また,その文芸思潮の特徴を,批判内容に言及したうえで,引用文を参考にしながら簡潔に説明せよ。
(3) 公安委員会がおこなった土地改革を10字程度で説明せよ。
(4) ボナパルトが1802年にイギリスと結んだ協定を何と呼ぶか。
(5) このときに結ばれた条約の結果として建国され,フランスの従属国家となった国を1つ記せ。
(6) 自由主義の精神は,1820年代,ヨーロッパ各地に広がっていった。ロシアにおいて自由主義を掲げ,1825年に立憲君主制確立などを唱えて蜂起した人びとは何と呼ばれているか。
(7) 1820年代当時のブルジョワジーがよりどころにした自由主義経済学は,前世紀にイギリスで誕生した。この経済学の体系的創始者名(ア)と,その主著名(イ)を記せ。

[32] 次の文章を読み下線部について下の設問に答えよ。[北海道・改題]

 ナポレオンの没落後,ウィーンにおいて国際会議が開かれ,ヨーロッパ各国の支配体制の再編成と国際関係の調整が行われた。この会議の結果,神聖同盟と四国同盟(のちに近国同盟)が結成され,ウィーン体制が成立した。この体制は,フランス革命とナポレオン戦争以来の自由主義・民族主義の運動に対して国際的抑圧機構の役割を果たすことになり,1820年代には,スペインや(1)イタリアの革命に対する武力介入がなされた。
 しかしながらその後,5大列強間には利害の対立が発生する。イギリスは中南米の独立運動に際して,(2)アメリカ合衆国とともにヨーロッパ列強の軍事介入に反対しこれを阻止した。イギリスでは他国に先がけて産業革命が始まっており,この地域への市場の拡大を意図していたのである。その後は「世界の工場」として世界市場の制覇に乗り出す一方,国内政治においては議会政治が定着し,数次にわたる選挙法改正によって選挙権が拡大された。
 ドイツにおいては,ウィーン会議後に多数の君主国と少数の自由都市とでドイツ連邦が形成された。ドイツの統一への動きは,自由主義運動を抑圧しつつ,プロイセンの主導のもとに進められる。まず1830年代に(3)経済面における統一のための体制が準備され,1840年代からは産業革命が進展した。また三月革命の結果として全国規模の議会が開かれ,国家統一の方式や憲法草案の討議もなされているが,実を結ばなかった。その後のプロイセンでは,ビスマルクのもとで国家統一の事業が押しすすめられ,オーストリアおよびフランスとの戦争をへて1871年に(4)ドイツ帝国が成立した。
フランスでは王政の復古以後もいくたびか政治的激動を経験する。(5)七月革命以後には社会主義思想の台頭と労働運動の進展がみられ,1848年には第二共和政が成立した。しかし1851年にはルイ=ナポレオンがクーデタを起こし,帝政が復活した。この国で制度としての共和政が定着するのは,第三共和政の成立以降である。フランスの産業革命は,19世紀前半にまず繊維工業部門で本格化した。ついで鉄道建設が行われ,第二帝政期には重工業部門の産業革命も進展した。
1870年代以降,ヨーロッパ列強は独占資本主義の段階に入り,植民地の獲得競争はますます激しくなった。この結果,アフリカ・アジア・太平洋諸島は列強の支配下に組み込まれて,第一次世界大戦は各国の「世界政策」の衝突という性格を帯びた。
〔設問〕
1.この国では19世紀初頭に専制君主打倒と自由・平等を唱える秘密結社が組織され,1820年と21年に革命を起こした。この結社の名を記せ。
2.この国が1819年にスペインから買収した領土の名を記せ。
3.この経済体制の名を記せ。
4.この帝国の成立に先だってプロイセン主導の君主連合体が形成されている。この連合体の名を記せ。
5.この革命の影響でベルギーが独立を達成する。ベルギーはウィーン体制のもとでどの国に併合されていたか。

1.カルボナリ 2.フロリダ 3.ドイツ関税同盟 4.北ドイツ連邦 5.オランダ

[33] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 19世紀後半のドイツ統一の中心となったプロイセン王国の歩みは屈曲に満ちている。プロイセンという名称の由来する地は,今日のポーランド東北部,リトアニア西部,および飛び地の[ a ]領を含む地方であり,中世初期にはプルシというバルト系の住民が居住していた。13世紀にドイツ[ b ]がプルシ(ドイツ語でプルッセン,プロイセンの呼称はここに由来)を制圧し,ドイツ人を入植させて[ b ]国家をつくった。16世紀には[ b ]の長アルブレヒトがプロテスタントに改宗し,ポーランド王と主従関係を結んでプロイセン公国が成立した。
 1618年に[ c ]家のブランデンブルク選帝侯がこのプロイセン公国を相続し,ブランデンブルク=プロイセンが成立する。ブランデンブルクは今日のドイツ北東部にあり,プロイセン公国とは同君連合国家を構成した。1701年にプロイセン公国は王国に昇格したが,やがて[ c ]家領全体がプロイセン王国の名で呼ばれるようになる。しかも,国の中心がブランデンブルクにあったことから,絶対王政の確立とともに,旧プロイセン公国領はたんに東プロイセン州と呼ばれるにすぎなくなっていく。
 18世紀後半,啓蒙絶対君主として名高いフリードリヒ2世が,軍人王と呼ばれる父の残した強力な常備軍をてこに,オーストリアからシュレジエンを奪うとともにポーランド分割を行って領土を大幅に拡大し,ヨーロッパの強国に名をつらねた。19世紀初頭には(1)ナポレオンに敗れ,一時はエルベ河以西の領土を失い国土は半減したが,ナポレオン失脚後の(2)ウィーン体制下でラインラントを獲得するなど,再び勢力を回復した。
 19世紀後半,ビスマルクの登場とともに富国強兵に成功したプロイセンは,デンマーク,(3)オーストリア,フランスをあいついで撃破し,悲願のドイツ統一を果たす。(4)1871年に成立したドイツ帝国において,プロイセンは領土の3分の2を占め,プロイセン国王はドイツ皇帝となった。しかし,プロイセンがドイツを制覇したこの過程は,逆にプロイセンがドイツに解消されてしまう過程でもあった。第一次世界大戦での敗戦と革命で[ c ]家は帝位と王位を失い,プロイセンはドイツ共和国の一つの州となる。さらに第二次大戦後は州としても解体されることとなった。「軍国主義と反動」の象徴の解体というわけである。ちなみに東の方,旧プロイセン公国の地は,ドイツ領ですらなくなっている。

問(1) ナポレオンの大陸制覇はドイツ諸領邦の全面的再編をもたらした。1806年におけるドイツの国家連合の変容について簡潔に説明せよ。
(2) ウィーン体制は反動復古体制といわれているが,既成事実を容認したことがらも少なくなかった。旧に復さなかった事象を二つあげよ。
(3) オーストリアが,プロイセンのようにドイツ民族主義を旗印とした統一運動に主導権をとれなかった理由を簡潔に述べよ。
(4) 1871年1月18日,ドイツ皇帝即位式がヴェルサイユ宮殿で行われていたころ,パリの状況はどうであったか。

[34] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 15世紀末,フランスは,それぞれ領土をめぐって争いのあったイギリス,および神聖ローマ帝国と和を結び,ブルターニュ,ブルゴーニュ両地方を併合して,フランスのほぼ全域の統合に成功した。同じ頃,イベリア半島では,スペインが,最後に残ったイスラム支配地の[ a ]を陥落させ,レコンキスタを完成する。国土の統一後,両国はさらに対外的な領土拡大の鉾先を,イタリア半島に向けた。1494年,フランス王シャルル8世は,1482年以来,スペインのアラゴン王家の支配下にあった半島南部の(1)ナポリ王国の王位継承権を主張して,イタリアヘの遠征を開始した。
 こうして始まったイタリア戦争は,16世紀の半ばまで4次にわたってくりかえされ,およそ半世紀間,イタリアは外国の軍隊による戦場と化した。1527年には,(2)皇帝の軍隊によって,教皇庁のあるローマが包囲され,破壊と略奪にさらされる事件も起きた。こうした戦乱は,絶頂期にあったルネサンス期のイタリアをしだいに衰退に導いた。また,イベリア半島の2つの国による,新たなアジアヘの航路の開拓は,それまでイスラム圏の商人との取引を通じて,東方貿易を独占してきた北イタリアの商人の経済的な地位を,相対的に引き下げることにもなった。1571年には,スペインを主力とした,教皇,[ b ]共和国との連合軍が,オスマン帝国の海軍を[ c ]の沖で破り,スペインによる東地中海の制海権が確立した。こうして,イタリアはヨーロッパの歴史の新しい展開から取り残されることになる。
 いっぽう,イタリア戦争の開始にさいし,フランスの軍事行動がイタリアの政治秩序を混乱させることを懸念したスペインや神聖ローマ帝国は,教皇やイタリア諸都市と結んで軍事同盟を結成し,征服したナポリ王国からのフランスの撤退を迫った。ところが,イタリア北部で[ b ]共和国の勢力が強大化すると,こんどはフランスを取り込んだ新たな同盟を結成することになる。勢力の均衡維持のために,情勢の変化に応じてつぎつぎと国家間の関係が再編される,近代的な国際関係の原理が,(3)北イタリアの諸都市国家で育まれてきた徹底した世俗的国家観ともあいまって,ここに開始されたといえよう。
 18世紀の末,イタリアは再びフランスの軍隊の侵入にさらされる。ナポレオンの遠征である。イタリア方面軍司令官に任命されたナポレオンは,ロンバルディアを征服,ミラノ,ジェノヴァ,ローマに従属共和国を樹立し,さらにエジプトに転進する。(4)イタリア,エジプトでの軍事的成功は,ナポレオンに国民的人気をもたらし(5)1799年のクーデタで,彼が政権を奪取するひきがねとなった。1801年にナポレオンは,フランス革命以来とだえていたフランスと教皇庁との関係を,宗教協約(コンコルダート)によって修復し,翌年には(6)教皇領を復活して,イタリアに新秩序を築くことになった。

問(1) この王国の領土に,12世紀,ノルマン人が建国した国を何というか。
(2) この神聖ローマ帝国皇帝は誰か。
(3) これについて,国家における君主の役割を中心に論じたイタリアの思想家は誰か。
(4) この軍隊が,イタリア,エジプトで戦った主要な国は,それぞれどこか。
(5) このクーデタを何というか。またクーデタによって倒された政府は何と呼ばれたか。
(6) 1859年のイタリア統一戦争以後の,イタリア統一過程における教皇領の位置について簡潔に記せ。

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