4. 現代史

1.現代史

[1] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 19世紀に入ると,清王朝はあらたな局面を迎えることになる。西方資本主義の発展の帰結として,その市場拡大要求の波が中国にもおしよせてくる。清王朝は(1)(2)(3)アヘン戦争の敗北の結果として締結された条約によって開国を余儀なくされ,その現実的意味をほとんど理解できないまま世界の資本主義体制の一環に組み入れられたのである。一方,1851年の(4)(5)太平天国の出現は,内外の諸矛盾が激化する中で,抑圧された民衆の強烈な反撃であった。その心情は,素朴な絶対平等主義の主張をもりこんだ[ a ]という文書の中に明確に反映されているが,しかし,それも現実性という点からいえば,単なるユートピア思想の域を出るものではなかった。
 1860年代にはじまった[ b ]は,軍事を中心として他の分野にも及ぶ西洋文明の受容という様相を呈していた。しかし,これは基本的には動揺する王朝体制の補強をめざしたものにすぎず,真の意味の近代化運動としてとらえることはできない。
 中国の知識人が王朝という枠をこえて,国家・国民・民族という近代的意識を基盤とする政治・経済・社会の変革をめざすようになるのは,日清戦争の敗北という大きな代償をはらって以後のことである。しかし,[ c ]らを指導者とする(6)改良主義の運動は,保守勢力の反撃によって敗退し,一方,(7)孫文らの革命運動は,1905年の[ d ]の結成によって革命諸派の連合を実現したものの,経済・社会の変革をともなわないまま,大勢として王朝体制と満州支配の打倒をもって事成れりとする姿勢に矮小化されてしまった。
 中国再生への道は,(8)中華民国成立後の混乱の中で,旧思想を徹底的に批判する(9)新文化運動,ついで外からの侵略とこれを容認する軍閥政権とたたかう五四運動の高揚の中から出発する。1921年の[ e ]の結成,1924年の[ f ]の改組は,こうした再生・自立への流れの延長線上に位置したといえよう。

問(1) アヘン戦争の結果として締結された中英間の条約は何と呼ばれるか。
(2) この条約が締結されたのは西暦何年のことか。
(3) この条約によって,これまでの一部特許商人による対外貿易独占の制度が廃止された。この特許商人の組合のことを何というか。
(4) 太平天国の最高指導者は誰か。
(5) 太平天国の出現を準備した宗教的結社は何と呼ばれるか。
(6) この運動を圧殺したクーデタ事件は何と呼ばれるか。
(7) 孫文は自己の革命理論を何と名づけたか。
(8) 孫文のあとをうけて中華民国大総統となった人物は誰か。
(9) 「青年雑誌」(のちの「新青年」)を創刊してこの運動を推進した人物は誰か。

[2] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 清はアヘン戦争に敗北しながら,その外交姿勢をほとんど変えなかった。南京条約の結果,(1)ホンコンを割譲するなど大きな犠牲を強いられたにもかかわらず,清はイギリスとの交渉を相変わらず「実務」と呼び続けた。「夷務」とは,野蛮人相手の仕事という意味である。
 イギリスはこのような態度を不満とするとともに市場の一層の拡大をめざし,フランスを誘って[ a ]戦争を起こした。この戦争の過程で,イギリス・フランス連合軍が北京に迫ったため,清朝皇帝は熱河に避難せざるをえず,さらには郊外の離宮である[ b ]を破壊された。このように国都をも巻き込んだ戦争は,アヘン戦争の時とは比較にならないほど大きな衝撃を清に与えた。これまで外交事務を司っていたのは,理藩院と六部のなかの[ c ]部であったが,1861年には[ d ]という官庁を新設し外交に当たらせることになった。これ以後,清ははじめて外国を対等な国家として交渉するようになるのである。
 欧米列強に対しては,1860年ごろを境として大きく外交姿勢を変えたものの,清は(2)ヴェトナムや朝鮮など近隣アジア諸国に対しては,従来どおり宗主国として君臨し,朝貢関係を維持し続けた。1884年に清仏戦争が勃発したのは,フランスがヴェトナムを支配下に置こうとしたのに対して,清がこの国に対する宗主権を主張したからであったし,1894年に日清戦争が起きたのも,(3)清と朝鮮とのあいだで朝貢関係が依然として続いているにもかかわらず,日本が朝鮮を支配下に置こうとしたためであった。

問(1) 1984年の中国・イギリス共同声明によって,ホンコンは何年にイギリスから中国に返還されることになったか。
(2)当時,ヴェトナムは中国名で何国と呼ばれていたか。
(3)清のどの皇帝の時代に,清と朝鮮との朝貢関係が始まったか。

[3] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 シベリアを東進してカムチャッカ半島に達したロシア勢力は,17世紀半ばになると,一転して南進を開始した。これに対して強盛を誇った当時の清は,大軍を発してこれを押し返し,1689年,ネルチンスク条約を結んで[ a ]をもって国境線とし,ロシア商人に対しては朝貢形式をとることを条件に貿易を行うことを許した。しかし,アヘン戦争以後になると,両者の力関係は大きく変わった。(4)内憂外患の迫る中で,清はロシアの要求に屈し,1858年,愛琿条約を結んで(5)国境線の大幅な南下を容認した。さらに2年後,清はロシアとのあいだに[ b ]条約を締結し,(6)愛琿条約で共同管理地と定めた地域をも手放すことを余儀なくされた。
 以後もロシアの南下政策は積極的に進められたが,弱体化した清には,それを押し返す力はすでになかった。19世紀末,(7)ドイツの侵略から中国を防衛するという口実のもとにロシアが旅順・大連を占拠すると,清は,ロシアの要求を全面的に受け入れ,1898年,旅順・大連および遼東半島の租借と,[ c ]鉄道の旅順・大連への延長を承認した。

問(4) 当時の清は対外的にも,対内的にもきわめて困難な状況に置かれていた。ここでいう「内憂外患」とは,具体的にはどのような事実を指すか。
(5) この条約で定められた北方国境線はどこか。
(6) 愛琿条約で共同管理地とされたのは,どの地域か。
(7) ここでいう「ドイツの侵略」とは,どのような事実を指すか。

[4] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 孫文は中華民国を創始した人物として,また国共合作を進めた人物として有名である。
 彼は早くから武力による清朝の打倒を主張し,1905年には反清諸党派を結集して(1)中国同盟会を組織し,民族・[ a ]・民生の三民主義を掲げて建国の指針とした。ついで辛亥革命が起こると中華民国の臨時大総統となったが,革命派が弱体であったため,清朝皇帝を退位させることを条件としてその地位を袁世凱に譲った。
 ところが袁世凱は(2)皇帝を退位させて大総統の地位につくと,独裁権力を強めて革命派を弾圧した。このため孫文は倒袁運動を起こしたが失敗に終わった。袁世凱が死去すると,その後は[ b ]が抗争する不安定な時代が続いた。孫文はこの間に(3)護法運動を唱えたが,これまた成功を収めなかった。
 彼の革命運動に大きな転機をもたらしたのは,ロシアで起こった社会主義革命と中国全土で広範な民衆が参加して繰り広げられた五四連動であった。(4)中国共産党がその後間もなく結成され,労働運動も各地で盛んとなった。この情勢を見た孫文は1924年に中国国民党第一回全国大会を開き,[ c ]・容共・扶助工農の三大方針を定めて(5)国共合作を宣言した。彼の革命運動は,ここに大きな変化を遂げるのである。

問(1) 中国同盟会の機関誌は何か。
(2) この時に退位した皇帝は誰か。
(3) 護法運動でいう法とは,具体的に何を指すか。
(4) 中国共産党の第一回全国代表大会は,どの都市で開かれたか。
(5) この時の国共合作を第一次国共合作と呼ぶ。では第二次国共合作が始まったのは何年か。

[5] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ後の問に答えよ。[京都・改題]

 辛亥革命によって清朝は打倒されたが,革命派の力は十分ではなく,軍閥勢力との妥協を余儀なくされた。しかし,1919年,[ a ]で日本の21九条要求撤回を求める中国の主張が無視されたことから,広範な民族運動が起きた。1921年,孫文は広州に中国国民党の新政権を樹立して北京の軍閥政府に対抗し,同年には上海で陳独秀らによって中国共産党も結成された。1924年,孫文は国民党を改組し,連ソ・[ b ]・扶助工農の三大方針を採用して第1次国共合作が成立した。1926年,[ c ]を司令官とする国民革命軍は軍閥打倒と中国統一をめざす北伐を開始し,1928年にはほぼ統一を完成したが,この間,上海でのクーデタで共産党を弾圧し,国共は分裂した。

問(1) 辛亥革命時に革命派が妥協を余儀なくされた軍閥勢力の中心人物は誰か。
(2) 1919年の民族運動を何というか。

[6] 次の文章を読んで,以下の問に答えよ。[埼玉・改題]

 第一次大戦中に提唱された民族自決主義は,列強の支配下にあったアジアの諸民族にも大きな影響を及ぼしたが,その道は決して平坦ではなかった。
 まず,中国の様子を見てみよう。中国では1911年の辛亥革命の後まもなく[ a ]は孫文らの革命派から中華民国の実権を奪い取り,その死後も彼の配下の軍人たちによる政権が続いていた。しかし,軍閥統治下の中国においても,新しい社会を求める動きは弱まってはいなかった。それは,第一次大戦中,(1)露骨な利権拡大政策を打ち出す日本に対する反対運動や,(2)文学革命と呼ばれる啓蒙的な文化運動など様々なかたちで現れた。また,1919年,大戦後に開催されたパリ講和会議において,日本の侵略を抑止しようとする中国側の要求が列強によって拒否されると,[ b ]と称される大規模な反帝国主義・反封建主義運動がまきおこり,軍閥政府や列強諸国に衝撃を与えた。
 一方,捲土重来を期していた孫文は,この年あらたに中国国民党を組織するとともに,結成されて間もない中国共産党との合作を断行した。彼は1925年に志半ばにして病死するがその遺志を継いで,[ c ]において樹立された国民政府は,北京の軍閥政府を打倒するために北伐を開始した。北伐は知識人や民衆の支持を受けて順調に進み,1928年,国民政府は全国統一を達成した。しかし,その過程で国民政府内各派の路線対立が激しくなっていき,共産党もまた国民党と袂をわかつこととなった。(3)以後,中国の政局は,国共両党の対立と抗日戦争の二つを軸として,さらなる激動期を迎えるのである
 さて,インドでは(4)第一次大戦前から国民会議派による反英運動が続けられてきており,イギリスは第一次大戦後には自治権を与えることを公約せざるをえなかった。ところが大戦後の1919年,イギリスは[ d ]法を施行してインド人の政治活動を弾圧しようとし,また同年に出されたインド統治法でもインド人に部分的な自治しか与えなかった。これに憤った人々は各地で反英活動を展開したが,なかでも[ e ]の指導する非暴力非服従運動の影響力は大きかった。その後もイギリスのインド政策は改まらなかったため,1929年の[ f ]で行われた国民会議派大会において,プールナ=スワラージが決議された。イギリスもこのような動きを無視できないようになり,1935年,各州に自治権を与える新インド統治法が制定された。しかし,これも完全な自治にはほど遠いものであり,その後もインド独立を求める運動は根強く続けられていった。
 また,西アジアにおいても様々な動きがあった。第一次大戦においてドイツ側に立ったオスマン帝国を牽制するため,連合国側はアラブ人のオスマン帝国からの独立運動を支援した。これをうけてメッカの太守フサインを中心にアラブ人の独立運動が行われた。ところが,戦後締結されたサンレモ条約によって,イギリスはイラク・(5)パレスティナ等をフランスは[ g ]をそれぞれ委任統治することが決められ,アラブ人の独立は抑制されてしまった。しかし,(6)アラブ人の独立運動はさらに続き,独立を達成する国々が相次いだ。一方,敗戦国となったオスマン帝国では大幅に領土が縮小され,崩壊寸前にまで追い込まれたが,ムスタファ=ケマル=パシャの活躍によって,1923年に新生トルコ共和国が樹立され,また[ h ]条約で共和国の国際的承認と不平等条約の撤廃を勝ち取った。

問1.空欄a〜hに適語を入れよ。

問2.下線部(1)に関連して,第一次大戦中及び大戦後における中国と日本との関係を述べた文として誤っているものを,次のイ〜ニのうちから一つ選べ。
イ.大戦中,日本は北京政府に対して二十一カ条の要求を行なった。
ロ.大戦中,日本は日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告し,ドイツが権益を持っていた広州湾を占領した。
ハ.ワシントン会議において締結された九カ国条約により,中国における権益に関する日米間の取り決めである石井=ランシング協定が破棄された。
ニ.上海などにおける日本人経営の工場でおこったストライキをきっかけに,大規模な反帝国主義運動である五・三○運動が展開された。

問3.下線部(2)に関連して,文学革命の内容について述べた文として正しいものを,次のイ〜ニのうちから一つ選べ。
イ.知識人に多大な影響を与えた『新青年』は,陳独秀が刊行したものである。
ロ.胡適らが推進した口語文学の普及活動は,三・一運動と称された。
ハ.李大キンはマルクス主義を中国に紹介し,中国共産党の初代委員長となった。
ニ.魯迅の小説『阿Q正伝』は,伝統的な中国の国民性を擁護したものである。

問4.下線部(3)に関連して,北伐以後の中国情勢について述べた文として正しいものを,次のイ〜ニのうちから一つ選べ。
イ.ショウ介石は中国統一後,新首都を北京に置き,ここを拠点に様々な改革を行なった。
ロ.中国共産党は国民党軍の激しい攻撃を受けたため,本拠地延安を捨てて長征を行なった。
ハ.中国共産党は八・一宣言を出して,抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。
ニ.東北軍閥出身の張作霖は,西安に赴いたショウ介石を監禁して抗日を訴えた。

問5.下線部(4)に関連して,第一次大戦前に,イギリスがインドの独立運動を分断するために行なった政策を簡潔に述べよ。

問6.下線部(5)に関連して,この時,イギリスの委任統治に入ったパレスティナにおいては,ユダヤ人の入植がさかんに行われた。ユダヤ人のパレスティナ復帰運動を何と称するか。

問7.下線部(6)に関連して,第一次大戦後のアラブ人諸国家の建設について述べた文として誤っているものを,次のイ〜ニのうちから一つ選べ。
イ.サウード家はヒジャーズ王国のレザー=ハーンを倒して,サウジアラビア王国を樹立した。
ロ.イラクでは,イギリスの委任統治下でフサインの子ファイサルがイラク国王となった。
ハ.エジプトでは第一次大戦後,イギリスからの独立を求めるワフド党による民族運動が押し進められた。
ニ.イギリスはエジプトの独立を認めたが,スエズ運河にはその後も駐留しつづけた。

[7] 次の文章を読み,下記の設問に答えよ。[新潟・改題]

 第二次世界大戦後,ショウ介石指導下の[ ア ]政府は,国際的には国連安全保障理事会の常任理事国として重要な位置を占めるにいたったが,国内では汚職がはなはだしく,急激なインフレーションで経済も悪化し,民衆の反発を招いていた。
 一方,毛沢東指導下の中国共産党についてみると,日中戦争勝利後の1945年10月に毛沢東が重慶にショウ介石を訪問して[ イ ]を結ぶなど,国共合作維持の姿勢をとっていたが,国民党の独裁傾向が強まると,1940年以来唱えていた[ ウ ]革命の旗を掲げてショウ介石政権批判を強め,46年後半から激化した内戦に勝利をおさめた。
 1949年9月,北京に集結した共産党と民主諸党派は[ エ ]会議を開催して共同政治綱領を作成し,中華人民共和国を樹立した。政府主席には毛沢東が就任したが,副主席には民主同盟の張瀾,孫文夫人宋慶齢など共産党外の人士も含まれていた。
 アメリカは中華人民共和国の樹立を認めなかった。毛沢東はモスクワを訪問して[ オ ]条約を締結し,ソ連との提携を強化した。

設問 空欄[ ア ]から[ オ ]に適当な語句を入れよ。

[8] 次の近現代期中国に関する文章を読み,設問に答えなさい。[東京芸術・改題]

 中華人民共和国の建国後,抗日戦争や内戦によって疲弊した国力の復興が大きな課題となった。はじめはゆるやかな経済政策が実施されたが,1958年に始まる第二次五カ年計画からは,鉄鋼・エネルギー・食料などの生産力を急速に発展させるための政策が採用され国をあげての(a)大増産運動が行われた。しかし,これはかえって経済的な混乱を招き,[ (1) ]に代わって[ (2) ]が国家主席となった。しかし,[ (2) ]の政策に不満を抱いた[ (1) ]は,文化大革命(文革)を発動させ,権力を奪い取ろうとした。およそ10年にわたる文化人革命は農工業生産を停滞させただけではない。その後の中国が解決しなければならない問題をも引き起こし,それを深刻なものにした。[ (1) ]の死後,政権を引き継いだ[ (3) ]は[ (1) ]の夫人の[ (4) ]等「四人組」を打倒したが,経済政策のつまずきから失脚し[ (5) ]が政治の実権をにぎり,(b)「四つの現代化」のスローガンを引き継ぎ,近代化を目指し大胆な経済政策を行った。

問1 [ (1) ]から[ (5) ]に入る人物名を漢字で記せ。
問2 下線部(a)の運動を何と称するか。運動名を記せ。また,このとき農村である組織が作られたが,その名称を記せ。
問3 下線部(b)の四つの分野をすべて書け。
問4 中国は文革期に,それまで敵対的な関係だった西側のある二つの国と外交関係の樹立を果たそうとした。相手の国名と,その国の指導者名とをそれぞれ記せ。
問5 文化大革命の発動以降に,中国は外国との戦争を二回行っている。その相手の国はそれぞれどこか。国名を記せ。

[9] 第二次世界大戦後,日本の植民地,半植民地,または占領下にあった国々が独立したが,独立後の国家建設のあゆみはいずれも順調であったとはいえず,国内対立,内乱,他国との戦争などを多く経なければならなかった。これらのことについてのべた次のA〜Cの文を読み,以下の問いに答えよ。[東京芸術・改題]

A 1945年10月,毛沢東とショウ介石は[ (1) ]を結び,大戦後の中国の平和的・民主的統一を約束したが,半年あまりのちには対立が生じ,やがて内戦へと発展した。農村に解放区を作り,土地改革を進めて農民の支持を得た中国共産党は 介石を台湾に追いやり,1949年に中華人民共和国を樹立し,毛沢東を国家主席,[ (2) ]を首相とした。当時は新民主主義の第二段階として社会主義への過渡期の諸政策が進められたが,1957年以降,反右派闘争,大躍進政策が強力に進められ,農業の共同化のための[ (3) ]の設立が強引に行なわれたことから,様々な矛盾が生じてきた。1960年代には中ソ対立が表面化してソ連からの技術援助もなくなり,やがて1960年〜70年代の混乱期へと進んでいった。

B 日本の敗戦直後から朝鮮では南北の対立が生じ,北にはソ連に支えられて[ (4) ]を首相とする朝鮮民主主義人民共和国,南にはアメリカに支えられて[ (5) ]を大統領とする大韓民国が成立した。両者は1950年に衝突して朝鮮戦争が勃発した。両者には外国の軍隊が支援に入り,内戦から国際的な戦争へと発展したが,1953年,板門店での会議によって一応の休戦協定が成立した。しかし南北の対立は現在にいたるも解決されていない。

C 日本の進出に対して,ホー=チミンは[ (6) ]を組織し,日本の敗戦後ハノイにヴェトナム民主共和国を樹立した。しかしインドシナ支配の回復をはかるフランスはこれを攻撃し,南部には[ (7) ]を主席とするヴェトナム国を作り,インドシナ戦争が展開された。1954年,(ジュネーヴ休戦協定が成立したが,ヴェトナム国とアメリカはこれに調印せず,南北の対立は以後も続くとともに,アメリカが新たにヴェトナムに介入してくることになった。

問 空欄(1)〜(7)のそれぞれに入るべき語句を記せ((6)と(7)以外は漢字で記せ)。

[10] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 [ a ]は,すでに14〜15世紀のうちにバルカン半島の広汎な地域を支配下におさめたが,(1)16世紀には,さらに(2)[ b ]・[ c ]・[ d ]・[ e ]など地中海の東部および南部の沿岸地域にも支配圏をひろげた。また,(3)1538年には,[ f ]・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り.地中海の制海権も掌握した。[ a ]の艦隊は,なるほど(4)1571年の海戦では[ f ]・ヴェネツィアなどの連合艦隊に敗北を喫したものの,その後も地中海を自由に航行しつづけ,この状態は17世紀末まで基本的には変化しなかった。
 18世紀には,地中海地域における[ a ]の勢力が衰えを見せる一方,ヨーロッパ列強のこの地域への関心がいちだんと増大した。(5)18世紀初頭の[ f ]の王位継承をめぐる戦争も,列強の地中海への関心と深く絡まりあっていた。列強のなかでもとくに[ g ]は,この戦争に終止符を打った1713年の和約でミノルカのほかに(6)[ h ]を手に入れ,地中海の要衝を抑えることにならた。また,1713年の和約で[ f ]の王位を認められた[ i ]家も1735年には(7)シチリアとナポリの相続権を獲得するなど,地中海地域における勢力の拡大につとめた。さらに18世紀後半には(8)[ j ]の艦隊もバルト海から地中海に回航し,[ a ]の艦隊を撃破した。
 19世紀には[ a ]の衰退が一層すすみ,それとともに地中海地域におけるヨーロッパ列強の行動がますます活発化した。[ g ]は,とくに19世紀後半の(9)[ k ]の株式の買収と[ c ]の事実上の保護国化によって,地中海地域における地位を強化した。また[ l ]は,すでに19世紀前半に地中海に面する(10)[ e ]を直轄領土としたが,1881年にはさらに隣接する[ d ]を保護国としてこの方面で勢力を拡大した。[ j ]は,19世紀を通じて何度も地中海地域への接近をはかり,(11)1853〜56年の戦争では[ g ]・[ l ]などの列強を敵にまわして戦ったが,所期の目的を達しなかった。
 20世紀に入ると,[ l ]は,1912年に[ e ]の西隣の地域を保護国化し,さらに第一次世界大戦後に[ b ]を委任統治領とした。また,[ g ]も大戦後に[ b ]の南隣の[ m ]を委任統治領とした。もっとも,[ g ]は,大戦中に[ m ]にかんして矛盾する約束を2つの民族グループに別々に与えていたために,大戦後この地域をめぐるはげしい民族抗争を招くことになった。他方,第一次世界大戦に途中から参戦した[ n ]は,戦勝国になったものの,大戦後の地中海地域における体制には大いに不満であった。(13)1936年に[ f ]で内乱が勃発すると[ n ]はこれに積極的に介入したが,それも第一次世界大戦後の体制に抗して地中海地域で自己の地位を強化しようとする意図に出たものであった。

問(1) 16世紀に40年以上にわたって[ a ]を統治し,[ a ]に最盛期をもたらした支配者の名を記せ。
(2) [ a ]に先立って[ b ],[ c ]を支配していたのは何という王朝か。
(3) この時点での[ f ]の国王は誰か。
(4) この海戦はふつう何と呼ばれるか。
(5) この戦争で[ f ]の王位継承を主張して相争った2つの王朝の名を記せ。
(6) [ h ]はどこを指すか。
(7) 後にこれらの地域を[ i ]家の支配から最終的に解放したイタリア人の名を記せ。
(8) [ j ]は18世紀初頭にどこの国と戦ってバルト海の制海権を手に入れたか。
(9) これを実行したgの首相は誰か。
(10) [ e ]が[ l ]から独立を達成したのはいつか。次の年号のなかから該当するものを選び,符号で答えよ。
(イ)1929年 (ロ)1935年 (ハ)1945年 (ニ)1951年 (ホ)1962年 (へ)1973年
(11) この戦争は[ j ]の[ a ]にたいする開戦から始まったが,開戦にさいして[ j ]が掲げた名分は何であったか。
(12) [ g ]・[ l ]の両政府はこの内乱にかんしてどんな政策をとったか。

[11] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れよ。[京都・改題]

 イラン(ペルシア)はさまざまな国の干渉を受け,近代化が遅れた。16世紀初頭に[ 1 ]派イスラム教を国教とするイラン民族国家として再興された[ 2 ]朝は18世紀には衰退し,ロシアの南下政策に圧迫され,国内は混乱し,滅亡した。60年後の1796年に[ 3 ]系の[ 4 ]朝が成立した。やがて国王の専制政治に対する批判が強まり,立憲運動が高まった。それに対しイギリスとロシアは1907年に英露協商を結んで干渉し,立憲革命を挫折させた。
 第一次世界大戦には,イランは中立を宣言したが,しかし戦中・戦後にわたり,イギリス,ロシア,トルコに国土を踏みにじられた。この国難を救ったのが,[ 5 ]であった。彼はそれまでの王朝を倒し,1925年にイラン民族の[ 6 ]朝を開いた。彼のもとでイラン民族主義が勃興し,近代化がすすめられ,イギリス勢力の排除がはかられ,1935年に国号がイランと定められた。しかし国内の石油の利権はなおイギリスの手中にあった。
 第二次世界大戦には,イランは再び中立を維持しようとしたが,失敗し,1941年に王は退位した。このあと王位を受け継いだ彼の長男はイギリスおよびソ連と同盟を結んで,危機を乗り切った。戦後,民族主義の高揚のなかで,1951年にイランは石油の国有化を決定し,[ 7 ]政権は[ 8 ]会社を接収したので,一時イギリスと対立したが,やがて対英関係は好転し,1955年にはイランは[ 9 ]条約機構に加盟した。1960年代には新王は西欧的近代化を推し進めたが,これをめぐって左右両派が対立し,1979年には新王は亡命し,かわって[ 10 ]が帰国して,事実上の指導者となった。

[12] 次の文章を読み,設問に答えよ。[高崎経済・改題]

 アフリカ大陸はかつて「暗黒大陸」と呼ばれ,若干のキリスト教の布教活動や探検活動を除けば,前世紀まではヨーロッパ人の関心を引く対象ではなかった。近代以前には,エチオピアのアクスム王国,西アフリカのガーナ王国,マリ王国,そしてインド洋貿易によって繁栄した,ザンベジ川流域の( a )等の古王国が存在したが,その後これらのいずれもが消滅した。
 ヨーロッパ人に先駆けてアフリカに進出していたのは,オスマン帝国である。1299年小アジアから興ったオスマン帝国は( 1 )の戦いでティムール帝国に敗れて一旦断朝したが,後に復活して次第に西方に拡大し版図を広げた。1453年にビザンツ帝国を滅ぼすと,1517年( 2 )はエジプトの( 3 )朝を滅亡させ,北アフリカをその版図に加えた。この征服以降,オスマン帝国皇帝は(A)「マホメットの後継者」を意味する称号を同時に名乗るようになる。
 しかし,17世紀以降,オスマン帝国の勢力は衰退の一途を迫ることになる。オスマン帝国は伝統主義への固執と支配層の腐敗等により国力を弱め,1683年の( 4 )の失敗に代表されるキリスト教との対立や支配地域・属領での民族主義運動の活発化によって,ヨーロッパとアフリカから完全に撤退せざるを得なくなった。その後,19世紀にはエジプトの諸改革の影響から,オスマン帝国でもアブデュル・メジト1世などによって(B)西欧化政策が実施されたが,それほど成果をあげることはできなかった。
 19世紀未に本格化したヨーロッパ列強のアフリカ進出において,主役を務めたのはイギリスとフランスであった。イギリスでは,保守党の( 5 )首相がスエズ運河を買収し,さらには植民相ジョセフ・チェンバレンは南ア戦争を指揮した。フランスは普仏戦争後,ビスマルクの外交手腕(いわゆる「ビスマルク体制」)のせいで国際的に孤立したため,ひとまず対独復讐を棚上げして,国民の不満を逸らすために植民地獲得へと乗り出した。イギリスが縦断政策を推進し,フランスが横断政策を企てたため,両国は1898年にスーダンの( 6 )で激突した。しかし,現地に展開する兵力の点でも(C)国内に重大な政治問題を抱えていたという点でも,フランスはイギリスに対抗する余裕はなく,最終的には外交的に譲歩した。こうした動きは,やがて英仏協商へと発展を見ることになる。
 ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は「世界政策」を掲げ,北アフリカで唯一支配権の確立していないモロッコを手中に収めようと食指を伸ばした。1905年には自ら( 7 )に上陸し国際会議を要求した。その翌年アルヘシラス会議が開催されたが,ドイツの意向は通らなかった。1911年,なおもドイツは( 8 )に軍艦を派遣してフランスに圧力をかけたが,1912年にモロッコはフランスの正式な保護国と決まった。
 後発国のイタリアは,19世紀末にエリトリアとソマリランドを獲得し,ついで孤高の独立国( b )に進軍したが失敗した。しかし,この国は,1935年からイタリアの攻撃を受け,結局1936年に占領されることになる。

問1 空欄の1〜8に入る語句を解答欄に記入せよ。
問2 ( a )( b )に当てはまる国名をそれぞれ次の選択肢から選び記号で答えよ。
(ア)メロエ王国 (イ)チャド王国 (ウ)モノモタパ王国 (エ)マダガスカル王国 (オ)エチオピア王国 (カ)リベリア (キ)オレンジ自由国 (ク)ケニア王国
問3 下線部(A)について。その称号を記入せよ。
問4 下線部(B)について。この西欧化政策は何と呼ばれているか。その政策名を記入せよ。
問5 下線部(C)について。これは,あるユダヤ系将校にかけられたスパイ容疑が政治問題化し,ひいては当時の体制の正統性を大きく揺るがした事件である。あるユダヤ系将校とは誰のことか。その人物名を記入せよ。
問6 同じく下線部(C)について。その事件の際,ある新聞紙上に「私は弾劾する」と題する有名な告発文を掲載したのは誰か。その人物名を記入せよ。
問7 第2次世界大戦後には,アフリカ諸国が相次いで独立を果たした。その年に17ヵ国が独立を果たしたことから,「アフリカの年」と呼ばれている年がある。その年号(西暦)を記入せよ。

[13] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 18世紀半ばから徐々に進んだイギリスのインド支配は,19世紀半ばに一つの画期を迎えた。1858年,イギリスによる(1)シパーヒーの反乱の鎮圧とともにムガル帝国は滅亡し,1877年には全インドが,[ a ]を皇帝とするインド帝国に再編された。インドの完全な植民地化であった。その後のインドでは,輸出向け商品作物の栽培など農業の商業化が進むなかで,伝統的な農村は以前にもまして崩れ,深刻な飢饉にたびたびみまわれた。民衆の困窮のなかから,イギリスの植民地支配に抵抗する新しい民族意識が芽生えていった。
 第一次世界大戦にさいし,イギリスはインドに対して戦後の自治を約束し戦争協力を求めた。しかし,自治の約束は戦後十分に果たされなかった。1919年,イギリスはインド統治法を制定したが,実質はなお総督の独裁であった。第一次大戦後,帝国政府との衝突をとおして国民会議派は,インドの完全な独立を方針に掲げていった。1930年代末から第二次世界大戦の時期には,国民会議派の他,イスラム教徒の政治団体である[ b ]などが独立の要求を掲げた。
 イギリスがようやくインドに独立を認めたのは第二次世界大戦後であった。1947年7月,(2)イギリス政府はインド独立法を制定し,その年の8月,インドと[ c ]の独立が実現した。
 独立したインドの初代首相に就任したのは,ネルーであった。ネルーは1920年代後半からソ連の社会主義建設に関心を寄せ,国民会議派内では急進派に属した。インド独立後,ネルーが目指した方向も,公的所有をおさえ市場メカニズムを保持しながら,計画経済化を進め,さらには土地改革を行うなど,社会主義型社会の建設であった。しかし,結局彼の構想は,土地改革の不徹底や,第2次五か年計画のつまずきなどによって挫折した。
 独立後のネルーの行動で最も輝きをみせた活動は,1955年,非同盟主義を掲げてインドが会議招聘国の一つとなった,[ d ]の開催であった。その前年,ネルーはインドシナ問題を討議した(3)ジュネーヴ会議の休会中に,中国の[ e ]と会談した。建国間もない中華人民共和国の指導者とインド首相との会談は,世界に大きな影響を与えるものであった。事実,両者がその会談で発表した平和五原則は,東西対立の中で対ソ「封じ込め」の(4)冷戦政策を進めるアメリカに対して,武力によらない話し合いによる平和を呼びかけていた。また,平和の達成のために,アジア・アフリカの国々が積極的な役割を果たし,また協力することを訴えたものとして,第二次大戦後の第三勢力の台頭をよく表現した声明でもあった。
 1954年から55年にかけて,こうして大きな影響を与えたネルーの外交政策であったが,しかしその後,1962年,ネルー首相下のインドは[ f ]をめぐって中国と戦争状態に入った。両国の戦争は,20世紀のアジア・アフリカ諸国にとって民族の独立ばかりか,独立後の自立への歩みや相互の協力という願いが,多くの困難を伴う道であったことを示唆している。

問(1) ムガル帝国の都であり,1857年9月の陥落まで反乱の中枢となった都市はどこか。
(2) この時期,イギリスで政権の座にあった政党は何か。
(3) この会議の直前,フランスがインドシナで敗れた戦いは,何というか。
(4) 1953年以降,アイゼンハワー政権のもとで国務長官を務め,この時期の冷戦政策を推進した人物は誰か。

[14] 次の文章を読み,下記の問いに答えよ。[北海道・改題]

 マレー半島南部とスマトラ・ジャワ両島とを含む地域では,古来海上貿易が盛んであった。この地域では,海上交通がもたらしたインド文化の影響のもとで,7世紀にスマトラ東部にシュリーヴィジャヤ,8世紀半ばにジャワにシャイレーンドラという広域を支配する王国があいついで現れた。この地域へのインド文化の影響を伝える最後の広域国家は,13世紀末に元朝の侵攻を退けてジャワに成立したマジャパヒ(イ)ト王国であった。しかしその13世紀には,ムスリム(イスラム教徒)商人たちが来航して活動しはじめ,15世紀にマラッカ王国の統治者がイスラム教を受容して以来,イスラム教がこの地域にひろく浸透するに至った。ジャワでも16世紀にはマジャパヒ(イ)ト王国は衰え,ムスリムによるマタラム王国が形成された。
 16世紀にはポルトガル人がマラッカを制覇し,ヨーロッパ勢力の進出期に入る。17世紀にはオランダ東インド会社がジャワ北西にバタヴィア(いまのジャカルタ)を建設してこの地域の植民地経営を始めた。同社の解散後もオランダの支配は続き,20世紀初頭までにスマトラから西イリアンに及ぶ領域をその統治下に置いた。
 オランダ人ははじめ香辛料の独占を目標としたが,18世紀以降には農産物である砂糖,コーヒー,染料の藍(インディゴ)を貿易品目として重視するようになり,19世紀後半にはジャワ島に多数のプランテーションを経営するに至った。
 ところで,この広大な領域をオランダ人は「オランダ領東インド」と呼称したが,多数の民族集団からなる在地の人びとのあいだには,この全域をいいあらわす共通かつ固有の呼称がなかった。1911年に結成された大衆的民族運動組織が,「イスラム同盟(サレカット=イスラム)」と称したのは,キリスト教徒であるオランダ人や華僑に対して,在地の人びとの狭い地域や民族集団の相違を超える共通の自己規定をイスラム教に求めたためであろう。しかし1920年代に入ると,ヨーロッパ人の地理学用語であった「インドネシア」を,かれら自身とその国との呼称として用い,かって交易の共通語として普及しオランダ行政当局も利用していたマレー語を,国語「インドネシア語」として改良し普及させるようになった。
 インドネシアは第2次世界大戦中日本軍に占領されたが,日本の敗戦の直後に独立を宣言し,その後オランダに対する独立戦争に勝利して,独立国家としての国際的地位を確立するに至った。

問1.古代インドの文化要素のなかで,「生まれ」にもとづくとされる身分制度は,インドネシアには浸透しなかった。この身分制度の名称を記せ。

問2.唐代の中国人でシュリーヴィジャヤにも長く滞在し,著述によってこの国の仏教の繁栄を伝えた僧侶がいた。その人物の名を漢字で記せ。

問3.マラッカ王国の成立から発展に向かう15世紀前半,中国の明朝は前後7回にわたり鄭和を南海諸国に巡航させた。最初に鄭和を派遣した皇帝の名を漢字で記せ。

問4.東インド会社発足時のオランダはスペインのハプスブルク家に対する独立戦争の途上にあり,1581年に独立を宣言した「ネーデルラント連邦共和国」の統治下にあった。
(1) オランダ独立戦争初期に結成されたネーデルラント北部7州の盟約組織の名称を記せ。
(2) オランダの独立をヨーロッパ諸国が承認した1648年の国際条約の名称を記せ。

問5.ジャワ島のプランテーションで,大量の農産物を低価格で生産するために採用された農業制度の呼称を記せ

問6.1927年に「インドネシア国民党」を結成し,独立後初代の大統領となった人物の名を記せ。

問7.問6の大統領は,民族主義,宗教,共産主義の協力による安定した国家体制の建設を掲げた。この体制の呼称を記せ。

問8.独立したインドネシアは,ユーゴスラヴィア,エジプト,インドなどとともに,アメリカ,ソヴィエト両国の対立を中心とするいわゆる東西冷戦構造のなかで,独自の国際路線をとった。その路線の呼称を記せ。

問9.インドネシアの国内・国際政治体制は,1965年に軍が共産党を壊滅させた事件によって激変した。この事件の呼称を記せ。

[15] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れよ。[京都・改題]

 イギリスは1757年のプラッシーの戦いののち,東インド会社を統治機関として急速にインドの植民地化を進めていった。イギリスはまずムガル皇帝からベンガル地方の徴税権を奪ってこれを支配下におき,ついで18世紀末から19世紀初頭にかけて南インドの[ 1 ],中部インドの[ 2 ]との戦争を通じて領土を拡大し,さらに1840年代にはパンジャーブ地方の[ 3 ]を撃破して,ほぼインド全域をその勢力下におさめた。イギリスの植民地支配はインド社会に深刻な変動をもたらし,これに対する反抗として1857年[ 4 ]が起こったが,イギリスはこれを機会に東インド会社を解散してインドを本国政府の直接統治下におき,1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国の成立を宣言した。
 このようにイギリスは,19世紀中葉までにインドの植民地化を完了していたが,1870年代以降,帝国主義時代の到来とともに,アフリカに対しても積極的に進出を試みるにいたった。1869年フランス人[ 5 ]によってスエズ運河が開かれると,イギリスはエジプトヘの進出をはかり,1875年首相[ 6 ]は財政難に陥ったエジプト政府から運河会社の株の約半数を買収し,さらにフランスとともにエジプトの財政管理権を握った。ついで1881〜82年,外国の干渉に反対する[ 7 ]が起こると,イギリスはこれを鎮圧してエジプトを事実上の保護国とした。イギリスはさらに南のスーダンに侵入し,[ 8 ]の反乱と呼ばれる住民の激しい抵抗にあったが,ようやく1899年この地を支配下においた。アフリカ縦断をめざすイギリスは,南方でもケープ植民地を根拠地にして着々と領土を拡大していった。1890年ケープ首相となった[ 9 ]は,トランスヴァール共和国の征服を企てて失敗したが,イギリスは1899〜1902年,植民相[ 10 ]が指導した南アフリカ戦争によってブーア人を屈服させ,トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合した。

[16] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 第二帝政崩壊後のフランスでは,1871年のパリ=コミューンの動乱を経て,75年共和国憲法が制定され,第三共和政が正式に発足したが,その後も王党派と共和派の争いがつづき,さらに共和派内部の穏健派と急進派の対立が加わって,政局は不安定であった。1880年代末には対独復讐をとなえる[ a ]がクーデタを企て,ついで90年代には(1)ドレフュス事件をめぐって国論を二分する対立がおこるなど,共和政は危機にさらされた。しかし20世紀に入ると,急進派を中心とする共和左派が主導権を握り,共和政はようやく安定した。1902年に成立した急進派内閣は,政教分離などの改革をすすめる一方,19世紀末に植民地問題で対立関係にあったイキりスに接近し,(2)1904年英仏協商を結んだ
 フランスは第一次世界大戦で大きな災害をこうむったため,戦後に成立した保守派の政府はドイツに対して強硬な態度をとり,1923年には賠償支払いの遅れを理由にルール地方を占領した。しかし24年に代わって登場した[ b ]政府は,対外協調策をとってルール撤兵やロカルノ条約締結をおこなった。29年アメリカにおこった大恐慌は31年頃フランスに波及し,不況が深刻化したが,35年ファシズムの脅威が増大するなか,急進社会党・社会党・共産党の連合によって人民戦線が結成され,翌36年には社会党の[ c ]を首相とする人民戦線内闇が生まれた。(3)この内閣は種々の改革を実施したが,結局,経済危機の打開に失敗し,また(4)スペイン内戦に対して不干渉政策をとって人民戦線内部の亀裂を深めた。第二次世界大戦勃発後,40年フランスがドイツに降伏すると,国土の北半分と西南部はドイツ軍の占領下に置かれ,中・南部はペタンを国家主席とする[ d ]が統治することになり,第三共和政は崩壊した。

問(1)この事件に際して,ドレフュス擁護の論陣を張った作家を1人あげよ。
(2)英仏協商における最も重要な協定事項は何か。
(3)人民戦線内閣が成立させた重要な労働・社会立法を1つあげよ。
(4)フランス政府が不干渉政策をとった理由を簡単に記せ。

[17] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 20世紀のイタリアの歴史には,ヨーロッパにおける(a)国民国家形成の動きにおくれを取り,経済的にも,先に工業化を達成したイギリス・フランスなどとの激しい競争にさらされた国としての,複雑な足取りがうかがえる。
第一次世界大戦に際し,イタリアは三国同盟を破棄して連合国側から参戦した。これは[ 1 ]と呼ばれた地域をイギリスとの密約で併合することが目的であった。しかし,戦勝国にはなったものの講和会議ではその領土要求が十分に満たされず,国内では激しい国家主義的な世論が強まる。また戦債による財政難や大ストライキもあり,イタリア政治は危機に瀕した。こうした状況のもと,(b)強力な政府の登場を期待する人々の支持を得たムッソリーニが,ファシスタ党を率いて大示威行進を行い,政権の座についた。彼はその後,国内において暴力的な支配の仕組みを作り上げ,また[ 2 ]条約でローマ教皇庁と和解する一方,1924年にフィウメを獲得するなど(c)対外進出で国威を高めようとした。
 1930年代の世界恐慌は,一党独裁下にあったイタリアにも深刻な経済混乱をもたらした。ムッソリーニは状況を打開するため対外侵略の道を選び,1935年にエチオピアヘ侵入する。国際連盟はこれに[ 3 ]を課す決議を挙げたものの,ドイツはこれに同調せず,孤立しつつあったイタリアを救った。ドイツはこの後ロカルノ条約を破棄し,ヴェルサイユ体制の空洞化を進めていく。イタリアも1936年にはエチオピア併合を宣言して英仏との対立を強め,スペインで内戦が始まるやドイツと共に反乱側から公然と介入を開始した。この共同介入で(d)両国の接近は決定的となり,そのおよそ1年半後,イタリアは国際連盟から脱退する。
 第二次世界大戦が始まると,イタリアはドイツ軍の優勢をみて参戦した。しかし国内社会の危機はさらに深まる。1943年に連合軍がシチリアヘ上陸するとファシズムは動揺し,ムッソリーニ政権が倒れた後,イタリアは[ 4 ]政権の下で9月に降伏した。もっとも,ムッソリーニを救出したドイツ軍はその後もなお北イタリアを支配する。これに対する抵抗を経て,国民がファシズムから完全に解放されたのは,1945年のことだった。
 翌年には国民投票によって王制が廃止され,イタリアは共和国として再出発を果たす。そして,経済的には1952年に他の西欧諸国5カ国とともに(e)新しい西欧一体化の組織を発足させ,政治的には,大戦中のレジスタンスの中心であり,後に西欧最大の勢力をもつにいたった共産党が,複数政党制の承認をはじめとする新しい考えを盛り込んだ[ 5 ]を主張するなど,冷戦の波にもまれはするが,西欧の一員として成熟した社会を発展させていく。

問(a) イタリアにおいてその大きな契機になった1859年の戦争を何と呼ぶか。
(b) この主力になった階層を3つ挙げよ。
(c) これに関連して,1926年にイタリアが保護国化した,かってのオスマン=トルコ領であった国はどこか。
(d) この両国の提携を何と呼ぶか。
(e) EC(ヨーロッパ共同体)の原点の1つであるこの組織の名称を記せ。

[18] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 19世紀後半のロシアでは,(1)農奴解放が部分的に行われ,世紀末までに工業化もある程度進行していたが,専制政治への不満が高まっていた。このような背景のもと,1905年には日露戦争を契機としてロシア第一次革命が勃発した。しかし,まもなく首相となった[ a ]は,革命の結果開設された国会を抑制し,富農育成を目指す農業改革を行ったため,社会的不満は解消されなかった。一方,19世紀を通じて,ロシアは南下政策を試みていたが,イギリスやトルコの抵抗に遭い,数度の挫折を経験した。ロシアを取り巻くこのような国際情勢は,世紀末から徐々に変化し始める。欧州の勢力均衡に腐心していたドイツの帝国宰相ビスマルクが,海外への勢力拡大を企図する皇帝[ b ]と対立して辞職したことから,(2)ドイツ・ロシア間の条約は更新されなかった。ドイツの勢力拡大を危惧するロシア,フランス,イギリスは徐々に外交的に接近し,1907年に(3)英露協商が締結されたことで三国協商が成立する。この間,ロシアが南下政策をなお推進しようとし,ドイツ,オーストリアを中心とする勢力とのバルカン半島を巡る緊張が高まったことが,第一次世界大戦勃発の背景となった。
 弱体化していたロシアの支配体制は,総力戦となった第一次世界大戦を生きぬくことができなかった。1917年の三月革命によって帝政は倒れたが,革命で成立した臨時政府は戦争を継続し,このことが十一月革命の大きな原因となった。十一月革命で成立したソヴィエト政府は,ドイツとの単独講和を結んだ。ソヴィエト政府は,反革命勢力の抵抗と列強による軍事干渉を耐えぬき,その後は国内経済の発展に努めた。1928年には(4)五カ年計画が開始された。ソ連は徐々に(5)国際社会における孤立を脱しつつあったものの,世界経済からの孤立が逆に幸いして(6)世界恐慌の悪影響を受けなかったため,数次の五カ年計画のもとでソ連経済は発展した。国力を蓄えたソ連は,第二次世界大戦勃発とともに,周辺諸国に武力で侵攻した。(7)ヴェルサイユ体制の下で新たに誕生していたヨーロッパの独立国の多くが,ソ連とナチス・ドイツによって再び独立国家の地位を奪われることになった。

問(1) 1861年に農奴解放令を発した皇帝の名前を記せ。
(2) この条約名を記せ。
(3) この協定によって,イギリスとロシアは,ある国における,それぞれの勢力範囲の設定に合意した。この国の名を記せ。
(4) 第1次五カ年計画で重点的に推進された政策を簡潔に説明せよ。
(5) ドイツは,1922年にソヴィエト政府とラパロ条約を締結し,列強の中でいちはやく革命政府との外交関係を樹立した。この理由を簡潔に述べよ。
(6) 世界恐慌の悪影響を緩和すべく,ドイツの賠償支払いの一時猶予を行ったアメリカ大統領の名前を記せ。
(7) これらの中で,第二次世界大戦勃発までに,ドイツが一部領土を併合し,残る領土を保護国化した国の名を記せ。

[19] アメリカ合衆国の対外政策に関する次の文章を読み,問いに答えよ。[北海道・改題]

 第5代大統領モンローによる[ A ]年のモンロー宣言(教書)提出に代表されるように,アメリカ合衆国は独立後,はやい時期から国境の外側に視線を向けてきた。1898年2月,[ B ]のハバナ港でアメリカ戦艦メイン号が撃沈される事件が起こると,この機に乗じて共和党の[ C ]大統領は[ B ]の宗主国であったスペインに対して同年4月に宣戦布告した。しかし,わずか4か月でアメリカ合衆国の圧倒的勝利に終わったこの戦争は,スペインの圧政から[ B ]を解放するという表向きの大義とは裏腹に,極めて拡張主義的なアメリカ合衆国の対外戦略の一部をなしていた。開戦直後,当時香港にあったアメリカ艦隊はフィリピン群島に向かい,スペイン艦隊を破ってマニラを占領した。同時に,フィリピンヘの海上輸送路の確保という名目で太平洋上の独立国であった[ D ]を併合した。それ以外にも,[ B ]が事実上アメリカ合衆国の保護国とされたほか,パリ講和会議により,スペイン領であったグアム島とカリブ海に浮かぶ[ E ]のアメリカ合衆国への割譲と,2000万ドルでのアメリカ合衆国によるフィリピン買収が決められた。
 西方,つまり[ D ]からグアム島,フィリピンへ連なる「太平洋の橋」の彼方にアメリカ合衆国が見据えていたのが,無限の潜在力を持った中国市場であった。1899年および1900年,国務長官[ F ]が発した門戸開放宣言はその具体的なあらわれである。
 また,南方へのアメリカ合衆国の強い関与は,[ C ]大統領暗殺のあと副大統領から大統領に昇格したセオドア=ローズヴェルト(ルーズヴェルト)による,海兵隊の力を後ろ盾とした中南米およびカリブ海地域に対する「棍棒外交」のなかに見ることができる。アメリカ合衆国によるパナマの分離独立運動に対する支援とパナマ運河の永久租借権の獲得はそうした外交手法の典型である。なお,同運河は1904年に着工され,1914年に完成した。

問 空欄AからFに適当な数字ないし語句を埋めよ。

[20] 次の文章を読み,問いに答えなさい。[北海道・改題]

 1914年,帝国主義列強間の植民地争奪などを背景として,第一次世界大戦が勃発した。戦争が長期化すると,交戦国は総力戦体制をとり,(1)植民地からも兵員や物資を動員した。また,各国で反戦・反政府の動きが強まり,1917年にはロシアで革命が起こった。この革命によって誕生した新政権は,(2)「平和に関する布告」を出し,全交戦国に講和を呼びかけた。それに対し,アメリカ合衆国の[ A ]大統領は,「十四ヵ条の原則」を発表して,新しい国際秩序構想を示した。
 1919年に開かれたパリ講和会議は,英・仏の勢力圏の調整を優先し,(3)ドイツに対して厳しい制裁を科した。また,この会議で設立が決定された(4)国際連盟にアメリカ合衆国が加盟しないなど,戦後の国際秩序は不安定要因をはらんでいた。ただし,(5)アメリカ合衆国が経済的繁栄を謳歌したこともあって,大戦後は(6)国際協調の気運の高まりが見られた。
 しかし,1929年に世界恐慌が始まると,資本主義諸国の経済は麻痺し,(7)各国は自国経済の建て直しに総力をあげた。そのため国際協調の気運はすたれ,孤立主義的な風潮が広まった。そのようななか,後発資本主義国は,領土拡大による現状打破を目指した。1935年にイタリアは[ B ]に侵入し,ドイツは1938年にオーストリアを併合した。その後も膨張を続けるドイツは,1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶと,9月には[ C ]に侵攻し,ここに世界は再び世界戦争へ突入することになった。

問1 空欄A〜Cに適当な語を入れなさい。

問2 下線部(1)について,この動員のためにイギリスはインドに自治を約束したが,それに反して一旦戦争が終結するとインドの民族運動を弾圧した。インドの民族運動を弾圧するためにイギリスが1919年に制定した法律の名を答えなさい。

問3 下線部(2)について,この布告が呼びかけた講和は,どのような原則に基づくものであったか,答えなさい。

問4 下線部(3)について,(ア)フランスに割譲された地域の名を答えなさい。(イ)非武装化された地域の名を答えなさい。

問5 下線部(4)について,この組織の本部が置かれた都市の名を答えなさい。

問6 下線部(5)について,1920年代に三人のアメリカ合衆国大統領を輩出した政党の名を答えなさい。

問7 下線部(6)について,この気運を代表するものとして,1928年に結ばれた不戦条約がある。アメリカ合衆国国務長官ケロッグと共にこの条約を提唱したフランス外相の名を答えなさい。

問8 下線部(7)について,(ア)アメリカでニューディール政策を断行した大統領は誰か答えなさい。(イ)1932年にイギリスが自治領内でブロック経済を形成するために開催した会議が開かれた都市の名を答えなさい。

[21] 次の文章を読んで,以下の問い(1〜11)に答えよ。[高崎経済・改題]

 第二次世界大戦は1942年後半から43年初めにかけて転機を迎えた。ヨーロッパ戦線では、(1)ドイツ軍が大打撃をこうむった43年2月以降,三国同盟側の劣勢は覆いがたくなった。アメリカ,イギリスの連合軍は,43年夏,イタリア半島に進攻し,これにともなって(2)ファシスト政権が倒れイタリアは降伏した。東欧,バルカンを次々に解放するソ連軍にたいして,44年6月連合軍はようやく(3)フランス本土に上陸,パリを解放へと導いた。東西から攻勢をうけてドイツが屈伏したのは翌年5月のことである。
 戦局の優勢が明らかになるとともに,連合国首脳の関心は(4)戦後処理の問題へと移り,戦後の国際秩序に関わる構想も具体性を帯びていった。こうした動きを踏まえて,日本降伏の直後,はやくも国際連合が発足し,(5)国際通貨体制に関する諸機関が整備された。
 1947年,(6)アメリカの大統領は西側陣営を再建してソ連の影響拡大に備えることを宣言した。(7)ヨーロッパ経済復興計画,北大西洋条約機構(NATO)などを通して,西欧諸国へのてこ入れをおこなうとともに、低開発地域での貧困の克服を唱えながら,(8)同盟の網の目を世界的規摸ではりめぐらした。ソ連もまた(9)東欧諸国などとの関係を強化して対抗し,東西対立の情勢は明白なものとなった。そのようななかで,ドイツ,ヴェトナム,朝鮮に分断国家がうまれた。
 東西冷戦の進行はしばしば国際的危機をもたらしたが,(10)1956年のスターリン批判以降,緊張緩和へむけて米ソ接触の機会はふえていった。一方,(11)新興アジア,アフリカ諸国の声が力をもつようになり,世界情勢に新たな要因がつけ加わった。

問1.下線部(1)について,半年間にわたった独ソ間の戦いの名称を記せ。
問2.下線部(2)の政権の首相名を記せ。
問3.下線部(3)について,以下の設問(a〜c)に答えよ。
(a)上陸作戦の敢行されたフランスの地方名を記せ。
(b)上陸作戦を指揮した連合国軍最高司令官の名前を記せ。
問4.下線部(4)について,戦後の東西対立を決定づけたとされる,1945年2月の首脳会談の名称を記せ。
問5.下線部(5)に該当する国際機関名を一つ記せ。
問6.下線部(6)の大統領名を記せ。
問7.下線部(7)は一般に提案者の名前をとって呼ばれている。その呼称を記せ。
問8.下線部(8)について,北大西洋条約機構(NATO)以外の同盟の名称を一つ記せ。
問9.下線部(9)について,関係の強化をしめす国際組織名を一つ記せ。
問10.下線部(10)をおこなったソ連の最高指導者名を記せ。
問11.下線部(11)について,以下の設間(a〜b)に答えよ。
(a)第1回アジア・アフリカ会議が開催された国名を記せ。
(b)この会議をリードした政治家の一人である,開催国の首相名を記せ。

[22] 次の〔1〕から〔3〕の各文章の[ 1 ]から[ 8 ]の空欄を埋めて,それぞれ下線部の問いに答えよ。また,〔1〕から〔3〕の各文章のなかのA,B,Cの文章を古い順に並べ替えよ。[ 東京芸術・改題]

〔1〕
A.ドイツのヒトラーとソ連の[ 1 ]は,独ソ不可侵条約を結んで,世界に大きな衝撃を与えた。
B.ドイツは,ラインラント非武装地帯に進駐することで,[ 2 ]条約とヴェルサイユ条約を最終的に破棄した。
C.ドイツ人の住むチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合に乗り出したドイツに対して,イギリスとフランスは,ドイツに譲歩して併合を認める[ 3 ]協定を結んだ。

〔2〕
A.ソ連共産党第20回大会で,[ 4 ]第一書記は,資本主義諸国との平和共存を強調し,秘密報告で[ 1 ]批判をおこなった。
B.(a)この年,東ドイツのホーネッカー議長が退陣させられ共産党政権が倒れ,「ベルリンの壁」が崩壊した。
C.チェルノブイリ原子力発電所で起きた事故は,ソ連の[ 5 ]書記長に,グラスノスチ(情報公開)などの改革の必要性をより一層強く認識させることになった。

問1 下線部(a)について,この年に起きたのではない出来事を次の(ア)から(オ)の中から二つ選べ。
(ア)中国政府は,民主化を要求する学生を中心とした民衆運動を弾圧する天安門事件をおこした。
(イ)ポーランドでは「連帯」が勝利して,非共産党政権が生まれた。
(ウ)チェコスロヴァキアでは,ドプチェク第一書記の指導のもと,「プラハの春」という自由化の動きがみられた。
(エ)西ドイツのブラントは,東側との関係改善を図る「東方外交」を始めた。
(オ)ルーマニアでは,指導者であったチャウシェスク夫妻が銃殺された。

〔3〕
A.サライェヴォで,オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が,大[ 6 ]主義の民族主義者によって暗殺された。
B.露土戦争後の国際対立を緩和するため,ビスマルクは,ベルリン会議を開催したが,ここでオーストリア=ハンガリーは,[ 7 ]2州の行政権を獲得した。
C.オスマン帝国においてアブデュル=ハミト2世の専制に対する[ 8 ]革命が起きた時,オーストリア=ハンガリーは,[ 7 ]2州を併合した。

[23] 次の文章を読み空欄に適切な語句を補い,下線部に関する設問に答えよ。[新潟・改題]

 今,ヨーロッパが国家の枠を超え一つのまとまりを形成しつつある。こうした動きの理念的起源をたどれば,800年の[ 1 ]戴冠にまで遡るかもしれないが,現実の国際情勢の中でヨーロッパ統合の動きが顕著になるのは第二次世界大戦以後のことである。アメリカとソ連という2大国の台頭と(1)ヨーロッパ諸国の活力の低下のため,ヨーロッパ諸国が結集してその伝統的な地位を保持しようとしたのである。このヨーロッパ統合の歴史を概観すると1948年の(2)西ヨーロッパ連合条約のように軍事的目的によるものもあるが,経済開発や資源利用を目的とする関係が目立つ。たとえば,(3)西ヨーロッパ6ケ国によるヨーロッパ石炭鉄鋼共同体があげられ,これは後に(4)ヨーロッパ経済共同体へと発展した。また同じ6ケ国が構成するヨーロッパ原子力共同体もあり,これらは1967年に統合した形で[ 2 ]を成立させる。これに対抗して1960年にイギリスを中心に発足したのが[ 3 ]であるが,1973年にそのイギリスが脱退し,[ 2 ]に加入したことによって[ 2 ]中心のヨーロッパ統合の動きがより一層強まる。1980年代後半以降のヨーロッパ情勢の大変動を経てその動きをより強固にし,それに政治的な統合を加味しようとしたのが1992年の[ 4 ]といえる。現在では(5)通貨の統合など,いろいろな面でヨーロッパが一つにまとまりつつある。

設問(1) 第一次世界大戦の状況を見て,『ヨ一ロッパの没落』を書いたドイツの哲学者の名前を記せ。
設問(2) これは東ヨーロッパのある国の政変に対処するために作られたものであるが,その国はどこか。
設問(3) 6ケ国のうち3つ国名を記せ。
設問(4) これの略称を記せ。
設問(5) ヨーロッパ共通の通貨をなんというか。

[24] 次の文章を読んで,以下の問1から問6に答えよ。[東京都立・改題]

 20世紀は科学技術の進展が巨大な成果を生んだ世紀であるが,科学技術開発に軍事技術の果たす役割が大きくなった世紀でもある。
 たとえば物理学の分野では,飛躍的に進展した原子物理学は核兵器開発に利用され,1945年7月にはアメリカが核実験に成功し,その結果は広島・長崎に投下された[ a ]としてあらわれた。核兵器の開発は第二次世界大戦後も続けられ,(1)のちに核実験に一定の歯止めがかけられたが,(2)核兵器保有国の増加によってこの問題の解決は残されたままとなっている。一方,第二次世界大戦後には原子力発電が実用化されて核エネルギーの平和利用の道が開かれたほか,医療分野などでも原子物理学の成果が応用されている。しかし,(3)1986年にはソ連邦ウクライナ共和国で[ b ]原子力発電所事故が発生するなど,核エネルギーの安全管理には多くの課題が指摘されている。
 また科学技術の分野では,[ c ]が人類初の動力飛行に成功して以来,航空機は進化して長距離大量輸送に貢献するとともに,(4)戦争にも大規模に用いられた。さらに第二次世界大戦中に[ d ]軍が兵器として開発した[ e ]は,宇宙科学分野や気象・通信分野でも利用されている。とくに宇宙開発の進展はめざましく,1957年にソ連が世界初の[ f ]打ち上げに成功して以来,ソ連とアメリカは宇宙開発競争を展開し,アメリカは1969年に[ g ]で初めて人類を月に送り込んだ。しかしこの背景には,(5)ミサイル兵器の開発競争が存在したことを見落としてはならない。
 このように現代の科学技術は,平和利用が図られると同時にそれ自体がすでに巨大な破壊力を持つまでになっており,その暴走を防ぐことは21世紀に向けての大きな課題となっている。

問1 空欄a〜gにあてはまる語句を記せ。
問2 下線部(1)について,この目的のために1963年8月にアメリカ・イギリス・ソ連が調印した条約名を記せ。
問3 下線部(2)について,これを阻止する目的で1968年7月に56カ国が調印した条約名を記せ。
問4 下線部(3)について,(ア)この時のソ連共産党書記長の名を記せ。(イ)この事故の後に本格化した,停滞したソ連社会の改革を目指した政策の名称を記せ。
問5 下線部(4)について,航空機が初めて戦闘に利用された戦争の名称を記せ。
問6 下線部(5)について,1962年10月にこの兵器をめぐってアメリカとソ連のあいだで生じた紛争を何というか。

[25] 次の文章を読み,[  ]内に最も適当な語句を入れ,かつ下線部についての後の問に答えよ。[京都・改題]

 19世紀の後半から20世紀の初めにかけて,欧米諸国では自然科学や技術の進展とあいまって,急速に工業が発展した。いわゆる(1)第二次産業革命である。その成果は社会生活の発展に役立てられたが,同時にそれに伴って経済や社会の構造が大きく変わり,現代文明とされるものが形成されてくる。卑近な例を挙げてみる。例えば1880年代にドイツで実用化された[ a ]は,アメリカ合衆国の企業家[ b ]が第一次世界大戦前に考案したベルトコンベヤーを用いた大量生産方式と結び付き,世界の人々の生活スタイルを変える大きな力になった。また,19世紀には[ c ]という新しいエネルギーを利用する道が開かれたが,これも,たとえば1920年代にアメリカで一般化した[ d ]というマスメディアの形で人々の生活や文化を大きく変えた。
 科学技術はその後もさらに発展し,第二次世界大戦中の1942年には,アメリカでフェルミらが新エネルギーを取り出す装置,[ e ]を開発して新兵器に道を開いたが,戦後そのエネルギーは冷戦状況の中で兵器としての意味を一段と強め,人々を不安に陥れた。1957年の[ f ]は,そうした流れに危機感を募らせたラッセルらによって提唱された科学者たちの新しい動きであった。
 19世紀末の工業発展は欧米諸国の人々の生活を変えただけではない。当時の急激な工業生産の拡大により,列強諸国の間には,工業原料供給地や工業製品販売市場,さらには資本の投下先として国外の支配地域を拡大する動きが生まれ,国際関係に大きな変化が起きた。ここに生じた帝国主義列強相互の対立は,やがて第一次世界大戦を引き起こすことになる。そしてその戦争は,交戦諸国が国民の総力を投入するすさまじい規模のものとなり,兵器にしても,当時の最先端の工業技術を用いた(2)新開発のものがいくつも登場した。
 大戦終結に当たっては,アメリカが1918年1月にいわゆる(3)14ヵ条を提案して新しい国際秩序を求め,植民地は自治・独立を求めたが,イギリスやフランスなどの列強は植民地体制の維持を優先したため,結局それらは部分的にしか実現しなかった。大戦後のアメリカは大量生産・大量消費による繁栄を誇ることになるが,その高関税政策などのために世界の貿易は不安定で,やがて大恐慌,第二次世界大戦という新たな緊張が訪れるのである。

問(1) 第一次のものと比較したときのその特色を,一文で簡単に記せ。
(2) その代表的な例を2つ挙げよ。
(3) 14カ条の中から,アメリカが主張して来た通商の在り方を直接示す項目を挙げよ。



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