1. 中国テーマ史

1.制度史

[1] 次の文の[  ]に最も適当な語を下記の語群から選び,その記号をマークせよ。[駒沢・改題]

 中国ではA皇帝による専制政治が二千年余にわたって続いたが,その実情は時代によって一様ではなかった。皇帝の独裁権力がとくに強まったのは,宋代以後のこととされる。このことは政治組織,皇帝権力を支えた中央官制の変化のなかによくみてとれる。唐の政治制度は歴代王朝のなかでもっとも整備されたものであった。中央には詔勅の起草を担当する[ 1 ],それを審議する[ 2 ],そして執行機関としての[ 3 ]の三省と六部,官吏の監察をおこなう機関などがおかれ,またB法典も集大成された。しかし,三省のうち,審議機関としての[ 2 ]は,当時実権を握っていた[ 4 ]勢力によって独占され,かれらに都合の悪い政策はチェックされたから,皇帝の権力はそれだけ制約をうけた。しかし,この勢力もC唐末におこった民衆反乱により没落した。
 宋代に入ると,創設者の太祖[ 5 ]はそれまでの武断政治の風潮をおさえるため,[ 6 ]の方針をとり,D地方の軍事長官に欠員がでると文官をこれに充て,また皇帝直属の親衛軍を強化するなどして,中央集権の確立につとめた。中央の三省は宋代には[ 2 ]が廃止されて二省だけになった。また科挙制度において,E皇帝自らが試験官となっておこなう最終試験の方式がはじめて実施されたが,これも皇帝権力をおおいに強めた。元代になると,上記二省のうち,さらに[ 3 ]がなくなり,[ 1 ]のみとなった。
 そして,明代になると,創設者の太祖[ 7 ]は,ついにこの一省も廃止して,六部を皇帝の直属とした。ここにいたって,皇帝独裁の専制支配体制は確立をみた。しかし,皇帝一人で全ての政治をおこなうことはできなかったから,これを補佐する機関として,3代目の[ 8 ]の時に内閣大学士がおかれ,さらに清代に入り,[ 9 ]の時に[ 10 ]がおかれ,政治の最高機関としての役割を果たした。

[語群]
あ.朱元璋 い.形勢戸 う.趙紫陽 え.趙匡胤 お.官戸 か.貴族 き.豪族 く.都察院 け.尚書省 こ.門下省 さ.中書省 し.枢密院 す.安禄山 せ.阿骨打 そ.御史台 た.藩 鎮 ち.文治主義 つ.楊炎 て.朱全忠 と.府兵制 な.平和主義 に.永楽帝 ぬ.張士誠 ね.ヌルハチ の.懐柔政策 は.順治帝 ひ.正統帝 ふ.軍機処 へ.雍正帝 ほ.乾隆帝 ま.康熙帝 み.白蓮教

[設問] 下線の部分を読み,これに関連する下記の設問に答えなさい。
A.中国の専制政治の基礎を形作った最初の人物は誰か,漢字3文字で答えなさい。
B.唐代に集大成された法典を総称して何というか,漢字4文字で答えなさい。
C.唐末におこった民衆反乱の指導者の名を何というか,漢字2文字で答えなさい。
D.唐代後半,地方の各地に設置された軍事長官の名称を何というか,漢字3文字で答えなさい。
E.宋代,皇帝自らが試験官となっておこなった科挙の新しい制度を何というか,漢字2文字で答えなさい。


[2] 次の文章を読み,下線部について後の設問に答えなさい。ただし,答えは全て漢字で書くこと。[東京女子・改題]

 中国における官僚制を柱とした(1)君主独裁の全国的な支配体制は,秦の始皇帝に始まった。その具体的内容は,時代の経過とともに徐々に変化したが,この支配体制は20世紀初頭まで存続した。その思想的基礎としては(2)儒教(儒学)が重視された。儒学は,(3)漢代から始まる推薦制,その後の隋唐から主流となる試験制,つまり科拳による官吏登用法を通じて,支配者階級が身につけるべき不可欠の教養とされた。
 この君主独裁の官僚支配体制は,(4)宋代に科挙制度を整備することで強化された。モンゴル族の建てた元朝も,中国式の官僚制度を整え,(5)中央に中書省・枢密院・御史台をおき,(6)地方には中書省の出張機関を配した。これを継承した明は,中書省と宰相を廃止し,六部など行政その他の執行機関を皇帝直属とすることで,皇帝親政体制をつくりあげた。
 だが,親政により皇帝自身の負担が増大し,補佐機関が必要とされた。そのため,永楽帝は内閣大学士を設けた。その筆頭は,その後しだいに地位を高め,明代後半には実質的に宰相の役割をになった。また,永楽帝は宦官を重用し,後の宦官専横を招いた。こうして,明代の皇帝親政の官僚支配体制はその実体を失い,(7)16世紀末から宦官・官僚の政権をめぐる派閥抗争が続き,大きな政治的混乱におちいった。
 明に代わった満州民族の清王朝は明の制度をほとんど継承した。しかし,清独自の制度ともいうべき内務府を設置して宦官を統轄し,宦官の弊害除去につとめた。また,行政面では,内閣の権能を縮小し,権能の多くは(8)軍機処に集中された。地方においては,省制を確立し,その長官として総督・巡撫を常置した。こうして,清は,明で確立された皇帝親政体制を,さらに制度的に充実させた。

問1 下線部(1),秦が施行した全国的な支配制度は何と呼ばれているか。
問2 下線部(2),(a)儒学の開祖は誰か。(b)宋学を大成し,明代に官学とされた儒学の一学派は,それをとなえた儒家にちなみ,何と呼ばれたか。
問3 下線部(3),推薦制による官吏登用法は,(a)漢代におこなわれた制度,(B)魏晋南北朝時代におこなわれた制度,とに大別される。それぞれ何と呼ばれているか。
問4 下線部(4),この時,科挙は3段階に整えられたが,その最終段階では,皇帝自らが試問した。この最終段階の試験を何というか。
問5 下線部(5),この三つの機関のうち,軍事を司ったのはどれか。
問6 下線部(6),この出張機関は何というか。
問7 下線部(7),この派閥抗争において,宦官の専横に対抗し,政治改革を主張した党派を何というか。
問8 下線部(8),この機関を設けた皇帝は誰か。


[3] 次の文の[  ]に適当な語句を後の語群から選び,その記号をマークせよ。[駒沢・改題]

 古来,中国社会は農業を基本に成立してきた。それゆえ,歴代王朝にとって,支配の基礎は土地とそこで耕作する小農民におかれた。この小農経済体制は一見安定しているようにみえるが,現実は決してそうではなく,豪族や地主による土地兼併がすすむなかで,小農民の没落,離農が進行した。歴代政府はこれを防ぐために大きな関心を払った。そこにおいて,政府の土地政策のモデルとなったのが,[ 1 ]の時代に存在したとされる[ 2 ]制であった。後漢末以後動乱が続くなかで,たとえば魏では[ 3 ]制が,西晋では[ 4 ]制が,そして北朝の[ 5 ]から隋唐にかけて[ 6 ]制が施行されたが,これらは土地の均等支給により離散農民の定着をはかり,均等の税負担を課すことによって,支配基盤の安定をはかろうとしたものであった。
 しかし,唐の中葉以後,こうした土地税制の上に大きな転換がおこった。[ 7 ]以後,[ 6 ]制が崩壊したため,宰相の[ 8 ]により[ 9 ]が実施された。この税制はもはや土地の所有額を制限せず,実際に所有している[ 10 ]の額に応じて徴税するものである。これ以後,政府の財政政策は異なる負担能力に応じていかに効率的に税を徴収するかという方向に傾いた。
 唐末以後,清代までの税制の展開,推移をみると,土地税のほかに[ 11 ]・関税・商税など,[ 12 ]からの税収の比重が増大したこと,また現物納や直接の労役負担から[ 13 ]ヘの転換がおこなわれていったこと,そしてそれにともない雑多な税負担がしだいに一本化され,土地税に繰り込まれていったこと,などが特色としてあげられる。明代後期の16世紀におこなわれた[ 14 ]や,清代中期の18世紀におこなわれた[ 15 ]などの税制改革はこうした方向に沿って施行されたものであった。

[語群]
あ.五代十国の争乱 い.黄巣の乱 う.安史の乱 え.西魏 お.東晋 か.北魏 き.貨幣納 く.均税法 け.両税法 こ.牙税 さ.鉄税 し.塩税 す.王安石 せ.周 そ.金・銀 た.劉晏 ち.殷(商) つ.地丁銀制 て.楊炎 と.資産 な.盛世滋生人丁 に.公田 ぬ.占田・課田 ね.屯田 の.永業田 は.井田 ひ.均田 ふ.金花銀法 へ.一条鞭法 ほ.天朝田畝制度 ま.生産 み.流通・消費

[4] 問題文の空欄( a )〜( i )を埋めるものとして,また下線部についての設問( ア )〜( ウ )の解答として,最も適当なものを語群の中から選び,その番号をそれぞれ解答に記入しなさい。[慶応・改題]

 興亡を繰り返してきた中国の歴代王朝では,軍制を整備して強力な軍事力を維持・運用することが,対外的にも対内的にも政権にとって重要であった。殷では都市国家群や遊牧民との戦闘ですでに戦車が用いられ,周では各地を治めた諸候に軍役の義務が課された。戦国時代になると戦争の規模は拡大し,騎兵や農民歩兵が活躍した。
 (ア)秦の始皇帝は民間の武器を没収する一方,徴発された兵士に武器を支給した。後漢の農民は田租等の他に兵役の負担を強いられ,辺境防衛のために派遣された守備兵は集団で耕作を行っていた。
 その後五胡十六国時代を経て( a )では,その宰相宇文泰によって府兵制が始められた。これは兵農一致に基づく兵制であり,北周に受け継がれ隋でも行われた後,唐で完成したといわれる。唐では丁男3人に1人が選抜され,3年に1回農閑期に,最も多いときで630余か所に設けられた( b )で軍事訓練が施されて都の警備や辺境の防術を担った。その間は租庸調等を免除されたが,武器や衣服は自弁であったため負担は重かった。しかし社会の変化に伴って土地制度に困難が生じると,高宗は( c )といわれる職業軍人を雇用した。その後玄宗は723年に12万人の傭兵を募り,ついに749年に府兵制は廃止された。
 この頃,周辺異民族に対する防衛のために設けられた節度使は(イ)藩鎮ともいわれ,強大な権限を与えられたことで,次第に各地で力を得るようになった。唐の滅亡後は各地の節度使が割拠する分裂時代となったため,北宋では皇帝直属の( d )が正規の国軍として強化され,文治主義による中央集権化が推進された。その中で軍政を扱う機関として( e )が置かれた。しかしながら対外的な軍事力の低下によって遊牧系民族の圧迫に苦しむようになった北宋では,(ウ)王安石による新法で富国強兵を図った
 北方異民族が建国した金では,兵農一致の部族制的軍事体制である猛安・謀克制がとられた。ちなみに唐代に発明されたといわれる火薬は,宋代に軍事面にも利用されるようになり,火薬矢,火砲,火球,霹靂砲等が現れたが,兵器として本格的に実戦に用いられたのは12世紀後半のようである。モンゴル帝国では( f )と呼ばれる軍事・行政組織がしかれ,強力な軍事力の基盤となった。
 明では( g )が行われ,兵役の課せられた軍人の家は民間人の家と区別された。また中央における軍事の最高機関は五軍都督府といわれ,地方においては( h )が軍事を担当した。女真族のヌルハチは17世紀初め,八旗と呼ばれる軍事行政組織を編成し,清のホンタイジ(太宗)は蒙古八旗,漢軍八旗を編成した。さらにこれらを補うために緑営が編成され,漢人による常備軍として地方の治安維持任務に当たった。雍正帝によって設置された軍機処は軍事における最高機関であったが,のちに国家の最高政務機関となった。しかし清の衰退とともに地方官や郷紳は,義勇軍である( i )や郷勇を組織するようになる。清末の内憂外患に際してはこれらが清の正規軍にかわって活躍し,私兵的性格を有して近代における軍閥へ成長するものもあった。

設問
(ア) 秦の中央で軍事を統括する最高官を何というか。
(イ) 彼らの有した私兵を何というか。
(ウ) 彼の行った改革のなかで,民兵を組織する政策は何か。
〔語群〕
01.衛士 02.衛所制 03.駅伝制 04.牙軍 05.課田法 06.官戸 07.御史台  08.禁軍 09.均輸法 10.軍戸 11.軍屯 12.健児 13.工部 14.冊封体制 15.市易法 16.湘軍 17.新軍 18.神策軍 19.進士 20.枢密院 21.斉 22.西魏 23.西晋 24.青苗法 25.折衝府 26.千戸制 27.宋 28.総理衙門 29.楚軍 30.太尉 31.大夫 32.団練 33.陳 34.東魏 35.東晋 36.都護府 37.都察院 38.都指揮使 39.屯田制 40.兵家 41.兵戸 42.平準法 43.兵部 44.防人 45.募役法 46.北魏 47.北周 48.北斉 49.北洋軍 50.保甲制 51.保甲法 52.募兵制 53.保馬法 54.里甲制 55.理藩院 56.梁 57.淮軍

2.反乱史

[1] 次の文章をよく読み,下記の設問(1〜2)に答えなさい。[明治・改題]

 中国の農民反乱は,その規模の大きさ,数の多さ,かつ王朝の交替に絡むことで,よく知られている。しかし,農民反乱は,歴代王朝の側からみれば,謀反であり,犯罪であり,反乱者は匪賊であり,罪人であった。中華人民共和国成立後,そのような歴史評価は大きく変わることになる。農民反乱は中国革命の源流をなすものとして積極的に評価されることになった。
 歴代農民反乱の最初は,秦末の陳勝・呉広の乱である。陳勝と呉広は北辺を守る兵士として徴発されたが,期間内に目的地に到着できず,斬罪にとわれるところであった。二人はやむをえず,同行の兵士とともに挙兵し,国号を張楚とした。小さな反乱者の集団にすぎなかったが,秦の圧政下にあった農民の支持を得て勢力が急速に拡大し,全国的な反乱を呼び起こすことになった。中国最初の統一王朝である秦の命運を決定づけた陳勝・呉広の蜂起であったが,この反乱の時代を勝ち残ったのは,1(A斉 B呉 C越 D楚)の項羽と漢の劉邦であった。両者の争いは,劉邦の勝利に終わり,漢王朝が創立される。
 漢は前漢と後漢に分れる。前漢は紀元後8年,王モウによって簒奪される。だが王モウの新も,また緑林・銅馬・2(A徴姉妹 B赤眉 C八王 D西山党)などの反乱に悩まされ,その混乱の中,後漢にとって代わられる。後漢末,太平道の指導者3(A張魯 B張騫 C張角 D張衡)が民衆を率いて蜂起し,華北一帯に広がる大規模な農民反乱となった。曹操・劉備・孫堅など後漢末の群雄は,黄巾の乱を平定するために朝廷の呼びかけに応じてはせ参じたつわものたちであった。
 三国時代,五胡十六国時代,南北朝時代など,長い分裂期を経て,589年,隋の統一が実現する。この長い分裂期に,仏教が広がり,それに刺激されてア道教がかたちづくられた。その頃より,農民反乱には仏教と道教という二つの宗教の影響を受けるものが現れる。
 隋唐の交替期もまた群雄が覇を競う時代であった。群雄を抑え,新しい王朝を樹立したのは唐の李淵と,その子李世民であった。755年,唐の最盛期に起きた安禄山・史思明の乱も大きな混乱をもたらしたが,農民反乱としての性格は薄い。安禄山は4(Aウイグル Bモンゴル Cソグド D朝鮮)系の出身であり,北辺を守る節度使であった。唐最大の農民反乱は,唐末の黄巣の乱である。乱は約10年続き,その流寇的性格から影響は広い範囲に及んだ。反乱軍の一部将であった5(A王仙芝 B朱全忠 C李克用 Dトウ茂七)は,唐に降り,黄巣の乱の鎮圧に功をたてたが,907年,唐を滅ぼし,後梁を建てた。
 は6(A突厥 B契丹 C柔然 D渤海)・女真・タンダートなど北方や西方の民族に圧され,ついにウ南遷を強いられることになる。だが,南宋もまたモンゴル人の元によって滅ぼされる。元末,弥勒下生を信仰する白蓮教徒の乱が起こり,モンゴルの中国支配に終止符を打った。この反乱は,紅巾の乱とも呼ばれる。明を創立した朱元璋は,もと紅巾軍の指導者の一人であった。
 明代・清代には,華北から華中にかけ白蓮教系結社の反乱が続いた。また,清代初期以降,反清復明を掲げる秘密結社,エ天地会が華南・長江流域を中心に勢力を伸ばし,反清活動を続けた。白蓮教系・天地会系の諸結社の活動により,多数の蜂起が生じた。
 明末の李自成の乱は,陝西から起こり,流賊として勢力を拡大し,1644年,首都北京の攻略に成功する。皇帝7(A崇禎 B万暦 C正統 D宣統)帝は追いつめられて自殺する。だが,山海関に拠り,清軍に対峙していた明の守将8(A呉道玄 B呉承恩 C呉三桂 D呉敬梓)らは,清軍に投降し,山海関を開き,清軍を関内に招き入れた。清軍は大挙して南下し,李自成軍を北京から追い,農民軍を敗走させ,たちまちのうちに全土を平定した。
 清朝三代の治と呼ばれる康熙・雍正・乾隆の治世の直後,白蓮教徒の大反乱が起こる。8年に及ぶ反乱は,最盛期の清朝を震撼させ,清朝衰退の原因の一つとなった。アヘン戦争後,華南に起こったオ太平天国の反乱は,江南を席巻する。太平天国軍は9(A北京 B上海 C広州 D南京)を攻略し,そこを首都とした。一時,清朝をも転覆させる勢いをみせた太平天国軍は,内紛および清朝の反撃によって勢力を失う。ほぼ同じ時期,長江以北では10(A黒旗軍 B捻軍 C常勝軍 D東学)の活動が続き,清朝の支配を動揺させた。
 清末の義和団は,扶清滅洋を掲げているという点において,これまでの反乱軍とは異なっている。反乱の矛先が,むしろ中国侵出を強めていた帝国主義列強に向けられていたからである。義和団運動は,1900年,日・露など八カ国共同出兵によって鎮圧される。帝国主義時代の到来により,世界市場の枠組に組み込まれつつあった中国において,それは一種,農民の伝統文化や生活をまもるという自衛の側面をもっていた。

設問1 文中のカッコ(1〜10)のそれぞれの語句(A〜D)から最も適するものを一つ選び,その記号を解答欄にマークしなさい。

設問2 文中の下線部(ア〜オ)に関する下記の質問に答えなさい。
ア 後漢末,張陵によって始められた民間宗教であり,太平道とともに道教の源流となったといわれている宗教結社は何か,記しなさい。
イ 北宋末期,山東梁山泊を根拠地として活躍した豪傑の物語の名称を記しなさい。もともとは北宋末に華北で起きた宋江の乱を題材にしたもので,元代,明代と練り上げられた物語である。
ウ 宋と同盟して遼を滅ぼした金は,宋の違約を責め,1126年,宋の首都開封を占領した。1127年,金はキ宗・欽宗などを北方に連れ去り,北宋はここに滅亡した。この事件の名称を記しなさい。
エ 太平天国軍は長髪賊とも呼ばれていたが,それは彼らが満州人のある風習の強制に反抗したがゆえに,そう呼ばれたのである。その風習とは何か,記しなさい。

UP 次の問題へ

inserted by FC2 system