2.中国社会経済史

1.中国社会経済史

[1] 次の文章を読み,空欄[ 1 ] 〜[ 10 ]に最も適当な語句を入れなさい。また,下線部(1)〜(10)に対応する〔設問1〕〜〔設問10〕に答えなさい。解答は記述解答用紙の所定欄に記入しなさい。[専修・改題]

 中国は自然条件によって,淮河と秦嶺山脈を境にして,北を華北,南を華中,また南嶺山脈以南を華南に区分される。華北は黄河とその支流の流域による黄土地帯で,そこでは主として畑作によって穀物が生産される。長江流域の華中・亜熱帯気候の華南は,水稲栽培を主とする地域である。
 まず華北の黄土地帯をみると,現在のところ前5000年ころに農耕が開始されたと考えられている。これは新石器時代に属している。この地域の新石器時代は,その前半を[ 1 ]文化,後半を竜山文化という。このころの農耕は,水の確保が容易な場所で木製・石製のスキを使って,アワ・キビ・オオムギなどを栽培していた。それは農業生産がまだ黄河そのものの水や氾濫を直接利用する段階には到達しておらず,黄河の支流の扇状地や河岸平野を主たる農耕地としていたことを意味する。
 中国農業史において,春秋・戦国時代は第一の大きな転換期であった。前5〜4世紀ごろ[ 2 ]制農具が登場し,畜力を耕作などに使用する農法である[ 3 ]も出現したため,深耕が可能となり生産力の上昇がもたらされた。またこれらを利用することで,河川の水を引き広大な土地を開墾することも可能となった。
 この農業上の発展にともなって,農村の状況も変化した。農業経営が集落単位から徐々に小さくなり,階級分化が進行しはじめた。(1)前漢なかばころより貧農や奴婢を使役する豪族が出現すると,国家は土地に対するさまざまな支配権を行使する政策をとるようになる。前漢時代,失敗には終わったが哀帝の発布した[ 4 ]策は大土地所有を制限する法であった。その後の魏の屯田策や西晋の[ 5 ],さらには北魏の均田法などもこの土地政策の延長線上にあるといえよう。
 天水を利用する農法,いわゆる「華北乾地農法」は基本的には北朝期に完成した。これを体系的に記述し,後の農書に影響を与えたものに(2)北魏の賈思キョウの『[ 6 ]』がある。
 唐代の中期ごろより,華北のこの農法はさらに発展し,この生産力の上昇は,階級分化の拡大を抑止する方向性をもっていた(3)均田制を崩壊へと導いた。それが,宋代に荘園などを発展させる。
 (4)華中(江南)の水稲栽培は,現在のところ浙江省の[ 7 ]遺跡の発見によって,前5000年ころに存在したことが確認される。
 唐代から宋代にかけては,江南の水稲栽培の発展により中国農業史上の第二の大転換期となった。これ以降(5)ここが中国の農業生産の先進地域になってゆく。唐代には田植えが普及し,収穫量を急速に増加させた。またこのころ茶・漆などの商品作物の栽培も盛んになった。さらにこの時期には,江南デルタ地帯での新田開発が進展した。低地を干拓してできた新しい耕作地の代表的なものはウ田とか湖田とか[ 8 ]などとよばれていた。その新田では,日照りに強くじょうぶな稲の品種である[ 9 ]が利用されていた。(6)ここに荘園経営やその担い手である地主層が確立するのである。
 (7)明代中期以降,長江下流域の農業生産はいちだんと発展を遂げ,商業の発達にともなって商品作物の栽培も進展した。衣料用の作物として[ 10 ]がこのころから栽培されはじめ,都市を中心にして展開された織物業が農村にも広がった。海外にも知られた絹織物もあらわれ,唐代以降普及しはじめた茶の生産も一層の広がりをみせた。
 以上みてきたように,中国における農業技術の発達と農業生産力の上昇は,社会構造,とりわけ階級分化の進展と密接な関係をもちつつ,江南の開発などにみられるように,北方諸民族の圧力と華北王朝の対応という政治的な関係の影響なども関連して展開されている。

〔設問1〕前漢時代の新しい農法である代田法は,後漢時代に成った正史に記述されている。その正史の著者はだれか。
〔設問2〕この時,中国各地の河川にしたがって都城・古跡などの歴史や山水などの自然を記した地理書が成った。その書名はなにか。
〔設問3〕均田制の崩壊後に実施された両税法を献策した人物はだれか。
〔設問4〕江南の開発の起源は三国時代の呉の建国にある。この王朝の都をなんというか。
〔設問5〕長江下流域が穀倉の中心地帯となったことをあらわす言葉に「(   )熟すれば天下足る」がある。(   )にはいる語はなにか。
〔設問6〕この時期の荘園を手中におさめた新興地主層のもとに,没落した均田農民は荘園において小作料を支払う耕作者となった。かれらは,なんとよばれたか。
〔設問7〕明末にヨーロッパの科学技術も取り入れ,それまでの農書を集大成した『農政全書』を著わした人物はだれか。

[2] 次の文章を読んで,下線部分[1]〜[6]に関するあとの問いに答えよ。[立命・改題]

 唐から宋にかけて中国社会は大きく変化した。変化は政治・経済・社会・文化あらゆる方面にわたるものであったが,なかでも商業の隆盛には目をみはるものがあった。まず都市の中の商業活動をさまざまに制限していた制度的枠組みの「市制」「坊制」が崩壊した。例えば,それまで集居させられていた市区の坑内から出て,人通りの多い大街にむけて店舗を構える者や,交通の便の良い運河の近くに移り住む者も現れて,都市景観は一変した。
 坐賈と呼ばれ,店舗を構えて営業する商人だけでなく,各地の特産物を全国の市場を相手に販売する商人が活躍し,全国的規模で物資の流通に貢献した。[1]彼らは大きな資本力をもつ遠距離商人で,米穀や専売品などを扱った。[2]都市の商人や手工業者は同業種ごとに組合を結成して互いに助け合い,営業の独占をめざした。
 また城郭で囲まれた都市域以外の農村部でも都市化が進行した。[3]全国的に定期市が発生し,農民も売り手として参加することになった。定期市から発達して常設店舗,商人街などを備えた商業聚落が形成され,[4]やがて小都市に発展するものもあった。
 海外貿易も盛んに行われた。[5]海港に海外貿易担当官庁を設置し,外国船の来航に対応させた。外国船がもたらした商品は税相当分を徴収したのち,一旦政府が買い上げ,一部を商人に払い下げ,高価なものは政府財源とする専売の方式をとった。
 貨幣経済は一層進行したが,取り引きの決済手段の基本は従来通り銅銭であった。高額の取り引きや輸送にははなはだ不便であったので,金銀による決済のほか,[6]色々の方法が案出され,大いに行われた

[1] この大きな資本力の遠距離商人を何というか。

[2]
(a) 商人の同業者組合を何というか。
(b) 手工業者の同業者組合を何というか。

[3] この定期市を何というか。

[4]
(a) 農村に出現した中小商工業都市を何というか。
(b) 北宋の年号を名前に持つ,江西省にある窯業都市は何か。

[5]
(a) この海外貿易担当官庁を何というか。
(b) この官庁が置かれた海港で,マルコ・ポーロ『世界の記述』の中でザイトンという名前で紹介された都市は何か。

[6]
(a) 唐以来,遠方に送金するために使われた手形を何というか。
(b) 四川の金融業者が発行していたものを宋朝政府が引き継いで発行した,世界最初の紙幣を何というか。


[3] つぎの文を読み,後の問いに答えよ。[法政・改題]

 宋代以来,穀物生産の中心は長江下流域であったが,明代後半には穀倉地帯は[ a ]に移り,「[ 1 ]熟すれば天下足る」といわれるまでになっていった。長江下流域では16世紀頃から綿織物や絹織物などの家内手工業が盛んになった。華中や華南では茶の栽培が,景徳鎮に代表される[ b ]では陶磁器の生産も活発に行われた。商業や手工業の発達は,山西商人や新安商人などの地方商人の台頭を促した。山西商人は明初より政商として活躍したのち[ 2 ]を中心に全国的に活動し,新安商人は[ 3 ]として大きな利益をあげ,明代後半から清代にかけて中国経済の発展に貢献した。明代の中期以降,主要な都市では商工関係の同郷者や同業者の互助組織の拠点として,[ 4 ]や公所が盛んに建てられた。
 宋代以降,社会の支配層は,官僚,地主,大商人で構成されていたが,明代以降,在郷の科挙合格者や官僚経験者である[ 5 ]の政治的・社会的地位も増大した。これに対して一般の人々の生活は苦しく,福建では[ あ ]の乱のような[ 6 ]も激しくなっていった。明は[ 7 ]貿易を基本とし,[ 8 ]といわれる鎖国政策をとったが,[ 9 ]や密貿易が横行した。広東・福建方面の農民のなかには,生業をあきらめ,禁を犯して東南アジアなどに移住するものが激増していった。
 明代の中期以降,貨幣の流通が盛んになり,主要な貨幣として銀が流通するようになった。これは,活発な外国貿易の結果,大量の銀が流入したことに支えられていた。外国貿易は,18世紀半ばに交易港が[ c ]1港に限定されたのちも,特許商人の組合である[ 10 ]が独占して行った。一方で銀の流入は,税を銀で代納する税制を実現させ,これまでの[ 11 ]に代わって16世紀半ばには一条鞭法が,まず[ d ]で施行されたのち,[ い ]の時代には全国に普及した。清代の税制も当初は明の一条鞭法を受け継いだが,その後,土地税に人頭税を組み込んだ[ 12 ]が導入され,[ う ]の時代までには,ほぼ全国的に施行された。

問1 文中の空欄[ a ]〜[ d ]に最も適した地名・地域名をつぎの選択肢の中から一つ選び,解答欄にその記号をマークせよ。
ア.河北・山東 イ.湖南・湖北 ウ.山西 エ.江西 オ.江南 カ.四川 キ.安キ ク.広州 ケ.陜西

問2 文中の空欄[ あ ]〜[ う ]に最も適した人名をつぎの選択肢の中から一つ選び,解答欄にその記号をマークせよ。
ア.嘉慶帝 イ.乾隆帝 ウ.王夫之 エ.永楽帝 オ.崇禎帝 カ.トウ茂七 キ.顧炎武 ク.王直  ケ.順治帝 コ.雍正帝 サ.康煕帝 シ.万暦帝 ス.李自成

問3 文中の空欄[ 1 ]〜[ 12 ]に最も適した語句をつぎの選択肢の中から一つ選び,解答欄にその記号をマークせよ。
ア.民戸 イ.会館 ウ.海関 エ.公行 オ.茶商 カ.両税法 キ.塩商 ク.絹商 ケ.交子 コ.形勢戸 サ.郷紳 シ.行・作 ス.地丁銀制 セ.土木の変 ソ.客商 タ.里甲制 チ.改土帰流 ツ.抗租運動 テ.均田制 ト.回部 ナ.会党 ニ.抗糧運動 ヌ.海禁 ネ.豪族 ノ.民変 ハ.倭寇 ヒ.冊封 フ.織物業 ヘ.金融業 ホ.醸造業 マ.朝貢 ミ.内閣 ム.湖広 メ.江浙
ム.遷界令


[4] 次の文章のうち,〔 A 〕〜〔 J 〕に適当な語句を解答欄に記入し,1〜10についてa〜dのなかから適当なものを選び,マークしなさい。[日本女子・改題]

 近代以前の中国は農業国であり,人口の大部分は農民であった。農民の多数は土地をもたないか,僅かな土地しかもっていなかった。1〔a均田制 b限田制 c屯田制 d封建制〕が唐代末期に崩壊すると,〔 A 〕王朝の時代から2〔a租庸調 b佃戸 c保甲 d郡県〕制がとくに経済の発達した〔 B 〕地方を中心に盛んになった。この2制のもとでは農民は小作人として地主から耕地を借りて,収穫の5割以上を地主に納めなければならなかったから,生活は苦しかった。自作農もかなり存在していたが,重税のため生活が苦しいことには変わりはなかった。こうした事態を解決すべく,古来から極端な大土地所有を制限しようという実験・議論がなされてきた。19世紀末から革命活動を始めた〔 C 〕の3〔a民権主義 b民生主義 c民族主義 d滅満興漢主義〕も,土地を国有化した後に,能力や希望に応じて農民に土地を貸し出し,自由に経営させることをめざした。この理想は〔 C 〕在世中には実現できなかったが,〔 D 〕を党首とする中国共産党は,その根拠地で地主から土地を没収して農民に配分する〔 E 〕を実施した。日本との戦争中は地代減免にとどめていたが,〔 F 〕年の中華人民共和国建国後は〔 E 〕を全国的に実施し,農民の支持を得た。しかし,1950年代半ばから〔 D 〕は4〔a共産主義化 b社会主義化 cコルホーズ化 dソホーズ化〕を急ぎ,ついには〔 G 〕を設立するにいたった。〔 G 〕は所有・経営・労働のすべてを集団化し,農民の所有・経営の自由を奪うものであり,また,政治的機能と社会経済的機能とを合体するものであった。これでは耕地の配分を受けた意味はなくなり,農民の生産意欲は大いに減退した。1976年の〔 D 〕死後,個々の農家による生産請負制が導入されて個人経営が事実上復活し,1985年には〔 G 〕が正式に解体された。
 中国の農村では比較的早くから,商品貨幣経済が発達していた。〔 B 〕地方にはとくに明清時代に綿織物や養蚕製糸業の分野で農村地帯での手工業が盛んであった。18世紀以降には,5〔a生糸 b茶 c陶器 d綿製品〕のイギリスヘの輸出が増加し,イギリスからは大量の〔 H 〕が流入するにいたっていた。しかし,19世紀の〔 I 〕戦争の敗北により,なかば鎖国状態にあった中国は伝統的な農業・手工業の強い結合体をもったまま,世界資本主義のための市場として開放させられた。19世紀半ば以降,6〔a価格革命 b産業革命 c市民革命 d農奴解放〕を経過したイギリスの7〔a機械類 b毛織物 c石油 d綿製品〕を中心とする工業製品が中国市場に大量に流入するようになった。19世紀末になると欧米諸国は商品の輸出ばかりでなく,8〔a市場 b鉄道 c農場 d油田〕や鉱山の利権獲得・製造工場経営などを通じて,〔 J 〕の投下を盛んに行うようになった。この段階の主要な先進国は9〔a自由主義国 b資本主義国 c帝国主義国 d民主主義国〕とのちにいわれるようになる。先進国の輸出品や〔 J 〕投下と自国の保護政策の欠如によって,中国の工業化は順調には進まず,食糧・エネルギー源・原材料などを輸出し,製品を輸入する10〔a植民地 b属領 c半植民地 d保護国〕といわれる状態となった。このような時期には,外国の商品・〔 J 〕の中国への流入は10の状態を強化するものとして警戒されることが多かった。

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