5.宗教史

1.西アジア・インドの宗教

[1] つぎの文章(A〜C)は,ユダヤ人の歴史について述べたものである。文章中の空欄(1〜20)に入れるべきもっとも適当な語を下記の各語群から選んで,その記号を解答欄にマークしなさい。[中央・改題]

A ユダヤ教の正典である聖書は,後の新約聖書と区別されて旧約聖書とも呼ばれる。この旧約とは「旧い契約」の意味であり,それは,前( 1 )世紀に「出エジプト」をおこなったイスラエル人が,( 2 )山で預言者( 3 )の仲介によって神ヤハウェとのあいだに結んだ契約をさす。ユダヤ教の源となった古代イスラエルの宗教は,メソポタミア地方の宗教文化の影響を強く受けていた。たとえば( 4 )や( 5 )などの旧約聖書中の物語の形式・原型は,古バビロニア期に書かれた( 6 )のなかにみいだすことができる。半遊牧民であったイスラエル人の生活は不安定で,ひとたび旱魃が来れば生活の地を変えなければならなかった。飢饉があいついだときに,彼らはそれまでの定住の地カナンからエジプトヘと難を逃れ,そこに住み着いた。彼らの数の増加がエジプトの安全を脅かすことを恐れた( 7 )は,彼らに都市建設などの苛酷な労働を課し,その無力化をはかった。また,エジプトの宗教は( 7 )を太陽神の子ととらえており,それはイスラエル人の宗教観とあいいれないものだった。そこでイスラエル人は,彼らを解放する使命をヤハウェから負った( 3 )の指導のもとに「出エジプト」の挙に出て,ふたたびカナンの地にもどった。
B 「出エジプト」が可能だったのは,当時エジプトの( 7 )だった( 8 )が( 9 )の王ムワタリとカデシュで大会戦をおこない,その結果エジプトの国力が疲弊していたからである。旧約聖書の「出エジプト記」によれば,イスラエル人の後を追ったエジプトの軍勢はことごとく「葦の海」に沈み,奇跡的に彼らの脱出は成功した。その後,上述のように( 3 )は( 2 )山で神ヤハウェと脱出した民とのあいだに契約を結ばせて,これがその後のイスラエル民族の基礎となった。この契約締結にさきだってヤハウェが( 3 )に授けたのが,唯一神崇拝を命じ殺人,姦淫,盗み,偽証などを禁じた( 10 )である。ヤハウェの民となったイスラエル民族は,前11世紀に「海の民」( 11 )の襲撃を受けて崩壊の危機にさらされ,これを契機として王政をとるにいたった。王国は,前10世紀にダヴィデ,ソロモン両王のもとで隆盛をみたが,前922年頃に北の( 12 )と南の( 13 )とに分裂した。このうち( 12 )は前722年に( 14 )により滅ぼされた。( 13 )も( 14 )の支配下におかれた後,前586年に( 15 )によって滅ぼされ,イスラエル人は( 16 )となって( 15 )の首都へ連れ去られた。旧約聖書が編纂されてユダヤ教が確立したのは,この( 16 )の時期である。
C 前539年にキュロス2世ひきいる( 17 )が( 15 )の都を占領したとき,この地に囚われていたユダヤ人は,パレスチナの地にもどって自分たちの国を復興させることができると考えた。しかし,実際に( 17 )帝国がその支配下の諸民族に許したのは,神殿の再建や宗教的慣習の維持にとどまった。前4世紀にマケドニア出身のアレクサンドロスが( 17 )帝国を倒し,ギリシア,西アジアからインダス川流域までを含む大帝国をうちたてた。その後の諸王朝のうち,パレスチナの地を支配したプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアは,いずれもギリシア風の文化をこの地に広めようとした。これに迎合するユダヤ人もいたが,他方で自らの信仰を守り抜こうとするユダヤ人は頑強にこれに抵抗した。前63年以降,パレスチナはローマの支配下に入った。ローマは,ユダヤ人が( 18 )を中心とする伝統的慣習を守ることを認めていた。当時のユダヤ人社会を支配していたのは,日常生活における( 18 )の徹底を説く( 19 )派と,おもに祭司層や地方貴族・地主から成る( 20 )派の人々だった。両派の支配は,貧しさゆえに( 18 )を守ることのできないユダヤ人下層民衆を差別するという結果を招いた。1世紀初頭にイエスが活動を始めたのは,このようにしいたげられた人々の多かったガリラヤ地方においてだった。

〔語 群〕
(1) あ.11 い.12 う.13 え.14
(2) あ.シオン い.シナイ う.ゲリジム え.ヘルモン
(3) あ.モーセ い.サムエル う.アモス え.イザヤ
(4) あ.バベルの塔 い.天地創造 う.カインとアベル え.族長物語
(5) あ.アブラムの旅立ち い.ハガルとイシュマエル う.イサクの誕生 え.大洪水
(6) あ.ギルガメシュ叙事詩 い.死者の書 う.アマルナ文書 え.ロゼッタストーン
(7) あ.ラー い.アメン う.アトン え.ファラオ
(8) あ.トトメス3世 い.アメンホテプ4世 う.ラメス2世 え.ラメス3世
(9) あ.ヒッタイト い.ヒクソス う.フルリ え.カッシート
(10)あ.福音 い.預言 う.十戒 え.山上の垂訓
(11)あ.カナン人 い.アラム人 う.シュメール人 え.ペリシテ人
(12)あ.イスラエル い.ユダ う.キリキア え.エラム
(13)あ.イスラエル い.ユダ う.キリキア え.エラム
(14)あ.新バビロニア い.ペルシア う.アッシリア え.メディア
(15)あ.新バビロニア い.ペルシア う.アッシリア え.メディア
(16)あ.アヴィニョン捕囚 い.エクバタナ捕囚 う.ニネヴェ捕囚 え.バビロン捕囚
(17)あ.新バビロニア い.ペルシア う.アッシリア え.メデイア
(18)あ.福音 い.習俗 う. 預言 え.律法
(19)あ.パリサイ い.サドカイ う. エッセネ え.敬虔
(20)あ.パリサイ い.サドカイ う. エッセネ え.敬虔

[2] 文中の(a)〜(v)についてはもっとも適切な語句を選んでその番号を解答欄に記入しなさい。また文中の[ 1 ]〜[ 3 ]については適当な語句を解答欄に記入しなさい。[同志社・改題]

[1] (a)(1.ホスロー1世 2.アルデシール1世 3.シャープール1世)はアケメネス朝の古都ペルセポリス付近にササン朝をおこした。彼は,(b)(1.イスラム教 2.ゾロアスター教 3.バラモン教)を国教に定めて,国の統一をはかった。第2代の皇帝(c)(1.ホスロー1世 2.アルデシール1世 3.シャープール1世)は,「イラン人および非イラン人の諸王の王」という称号を用いて世界帝国の建設をはかり,最初,侵入した(d)(1.ローマ 2.ビザンツ 3.パルティア)軍を撃退し,のちにシリアに遠征して同軍を破り,皇帝を捕虜とした。
[2] ササン朝は,イランの民族的宗教を国教とし,この王朝のときに経典(e)(1.『アヴェスター』 2.『リグ=ヴェーダ』 3.『マヌ法典』)が編集された。このほかに仏教やキリスト教もおこなわれ,3世紀のある宗教家は,これらの宗教を融合して[ 1 ]をおこした。この宗教は国内では異端として弾圧されたが,西方では北アフリカ,東方では中央アジアのウイグル人によって信仰された。一方,5世紀に西方のローマ教会が開催した(f)(1.エフェソス 2.ニケーア 3.クレルモン)の公会議で異端とされたネストリウス派のキリスト教は,ササン朝の領内では比較的自由な活動が許され,唐代の中国にも[ 2 ]の名で広まった。
[3] バラモン教の奥義書である(g)(1.『マハーバーラタ』 2.『ラーマーヤナ』 3.『ウパニシャッド』)には,内面的な思索を重視する哲学思想が語られているが,そこには従来の祭式万能に対する反省がこめられていた。一方,ガンジス川流域の王国では,(h)(1.シュードラ 2.ヴァイシャ 3.クシャトリヤ)の権力がバラモンをしのぐようになり,その時代に呼応するあたらしい思想がおこってきた。ジャイナ教は,(i)(1.ガウタマ=シッダールタ 2.ヴァルダマーナ 3.ハルシャ=ヴァルダナ)によってひらかれた教えで,バラモンの権威を否定し,人間は苦行によってのみ救済されると説き,不殺生主義を徹底させてきびしい戒律を定めた。
[4] 仏教がおこったころ,北インドではいくつかの国が対立していたが,やがてガンジス川中流域にあったマガダ国と(j)(1.コーサラ 2.バクトリア 3.パルティア)国が有力となった。その後,前者が後者を破ってガンジス川流域の大部分を支配し,仏教・ジャイナ教を保護した。(k)(1.アレクサンドロス 2.チャンドラグプタ 3.チャンドラグプタ1世)は前4世紀の後半に西北インドに攻めいり,一時この地方を領土に加えた。そのころガンジス川流域では,マウリヤ朝がひらかれた。マウリヤ朝をひらいた王は(l)(1.アジャンター 2.ナーランダー 3.パータリプトラ)を首都にして,東はガンジス川流域の諸国を平定し,西はインダス川流域のギリシア人勢力を一掃して領土を広げた。さらに彼はパンジャーブに侵入した(m)(1.プトレマイオス朝 2.ササン朝 3.セレウコス朝)シリアを撃退し,アフガニスタン・バルチスタンの地を掌握した。
[5] クシャーナ朝時代の仏教は,(n)(1.クシャトリアの救済 2.個人の救済 3.万人の救済)を目的としたことに特徴がある。2〜3世紀ころの(o)(1.ガウタマ=シッダールタ 2.ナーガールジュナ 3.カニシカ王)は,この仏教の理論を確立した学者として知られている。仏教徒は最初,仏像をつくらなかったが,(p)(1.オリエント 2.ペルシア 3.ヘレニズム)文化の影響をうけて,このころから仏像をつくるようになった。
 マウリヤ朝がインドの大部分を支配したため,仏教やジャイナ教などアーリヤ人の文化が南インドにも伝えられた。その影響のもとに建国された(q)(1.チョーラ朝 2.パーンディヤ朝 3.サータヴァーハナ朝)はデカン一帯を支配した。また半島南端部にも王朝がおこり,そのもとで(r)(1.スワヒリ語 2.サンスクリット語 3.タミル語)の文学が発展した。
[6] 3世紀に入るとクシャーナ朝はおとろえ,北インドは分裂状態が続いたが,(s)(1.3世紀後半 2.4世紀前半 3.4世紀後半),ガンジス川中流域に勢力を確立した(t)(1.チャンドラグプタ 2.チャンドラグプタ1世 3.ハルシャ=ヴァルダナ)が,グプタ朝をひらいた。この王朝の最盛期には,東晋の(u)(1.法顕 2.玄奘 3.義浄)がインドをおとずれた。グプタ朝では,仏教とならんで当時民衆のあいだに浸透しはじめていた[ 3 ]教が信奉された。この宗教では,かつてのヴェーダの神々にかわり,(v)(1.ミトラ神 2.ラー神 3.シヴァ神)やヴィシュヌ神などが崇拝された。


[3] つぎの文章を読んで,下記の設問に答えよ。[成城・改題]

 多くの宗教には信徒が信仰のよりどころとする教典がある。(A)[ a ]語で書かれたイスラム教の教典コーランは,神自身の言葉を集大成したものとされている。そのため,翻訳は禁止され,[ a ]語がイスラム教徒の礼拝および神学・法学の共通語となった。
 7世紀末,イスラム教徒の政治的指導者としての地位である[ b ]の継承をめぐって,イスラムは多数派の[ c ]派と(B)少数派の[ d ]派に分裂し,内部対立がおこった。しかし,さまざまな内部対立にもかかわらず,教典の言語や信仰・儀礼の共通性,特に巡礼は,民族を超えたイスラム教徒の連帯と人的交流を促した。
 イスラム教では,すべての信徒は直接神に帰依すべきものであるとされ,神の権威を代行する聖職者も礼拝の場所も存在しないとされた。しかし,現実には[ e ]という指導者が集団礼拝を指導し,モスクという礼拝場所がつくられた。
 預言者ムハンマドは[ f ]と呼ばれるイスラム教徒の信仰共同体を建設した。(C)異教徒たちは,[ g ]と呼ばれる人頭税を払えば,この共同体のなかで宗教的自由を保証された。理想の[ f ]はごく初期にしか実現されなかったが,8世紀半ばに成立した[ h ]朝初期に,[ i ]と呼ばれるイスラム法によってこの理念が具体化された。
 このイスラム法による統治がそれぞれの政権に引き継がれていったが,12〜13世紀頃から民衆の間に[ i ]の形式主義化に対する反動として,[ j ]と呼ばれるイスラム神秘主義が盛んになった。

問1 文中の空欄a〜jを埋めるのに最も適切な語句を記せ。
問2 下線部(A)について,こうしたイスラム教の教典コーランに対し,キリスト教の新約聖書はイエスの死後,信徒たちがまとめたものである。それは当時の国際語で,東方で広く使われていた言語で書かれていた。ローマ帝国においては,4世紀になっても,その言語による文化が支配的であった。この言語の名前を記せ。
問3 下線部(B)について,今日,この宗派が支配的な国はどこか。国名を記せ。
問4 下線部(C)について,
(1) 当初,この制度の対象になったのは異教徒のなかでも,キリスト教徒とユダヤ教徒に限られていた。彼らのことをイスラム教の側からは何と呼ぶか。
(2) その後この制度はササン朝ペルシアの国教であった宗教の信徒にも,キリスト教徒とユダヤ教徒に準じて適用された。その宗教の名前を記せ。
(3) イスラム圏の拡大に伴い,服従したすべての異教徒がその制度の対象となった。さらにインドでは16世紀半ば,ある皇帝によりヒンドゥー教徒は人頭税を支払わなくても,宗教的自由を保証されることになった。この皇帝の名前を記せ。


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2.中国の宗教

[1] 次の文章を読んで下記の設問に答えなさい。[慶応・改題]
 周王朝は封建制度を基盤とし,それを支える規範として( ア )を重んじていたが,春秋時代になり封建制度が崩れると,その規範も力を失い,社会は混乱した。この時代の小国魯に生まれた孔子は,( a )主義に基づく周の政治を理想として( ア )の復興を目指し,とくに家族愛,人間愛としての( イ )を実践することで社会の秩序が保たれると説いた。この思想は,孔子の孫であり『中庸』の作者とされる( b )や,(1)「天命が有徳者に移る」という説を理論化した( c )などの儒家に受け継がれて発展し,その後の中国の政治や文化に大きな影響を与えた。
 儒家の思想は,秦の時代に一時弾圧されたが,漢の時代に公認の学問とされると,中央の太学には五経博士がおかれ,教義の統一がはかられた。儒学が官学として保護,奨励されたことで,学者たちは秦代に失われた古書の復元や経典の字句解釈に努めるようになり,(2)後漢の学者( d )やその弟子鄭玄によって訓諸学が確立された
 (3)後漢末になると,国家秩序の崩壊とともに儒学も衰退し,魏晋南北朝時代には( e )思想を信奉する阮籍らによって(4)超世俗的で現実逃避的な論議が流行した。しかし唐代に帝国が再び安定すると,儒学では経典解釈の統一が目指され,( f )の勅命により孔穎達や( g )が編纂した( h )は,儒学の公式の解釈として科挙の試験のよりどころとされた。
 宋代になり,社会の指導層がそれまでの貴族から(5)科挙出身の官僚に移ると,儒学の性格も大きく変化した。宋学と呼ばれるこの新儒学は,『太極図説』を著した( i )を祖とし,南宋の朱熹によって大成された。そのためこれは朱子学ともいわれる。
 朱子学では,( ウ )と( エ )による二元論的な世界観,物事の道理を窮めて自己の知識を完成させるという( j )説,人間本性に関するテーゼとしての( オ )即( ウ )説,(6)中国古来の思想である華夷の区別や君臣関係のあり方を説く( k )論が唱えられ,以後帝国の秩序を維持するための理論として,清代初期にいたるまで儒学の正統とされた。
 その一方で朱子学に不満をもつ者は,( オ )即( ウ )説に対するアンチテーゼとしての( カ )即( ウ )説や,実践によって真の認識にいたるという( l )説を唱える陽明学を支持した。しかし,陽明学が次第に空論化し,また産業や商業の発展を背景に明代中頃から実学への関心が高まってくると,『宋元学案』などの著作のある( m )らが,実証的,実用的な立場から儒学の革新を試み,考証学の基礎を築いた。
 この学問は,清の( n )帝とその子( o )帝の時代に全盛期を迎えたが,清の厳しい思想統制のために,学者たちは危険を避けて墳末な研究に走り,当初目指された経世致用の学としての性格は次第に失われた。そのため,清末にはこうした考証学に代わって(7)公羊学がさかんになった。
【設 問】
[A] 空欄( ア )〜( カ )を埋めるもっとも適切な漢字1字を所定の解答欄に記入しなさい。

[B] 空欄( a )〜( o )を埋めるもっとも適切な語句を以下の語群から選び,その番号を所定の解答欄に記入しなさい。
[語群]
11.永楽帝 12.王夫之 13.格物致知 14.嘉慶 15.顔師古 16.顔真卿 17.韓非子 18.乾隆 19.康煕 20.高祖 21.高宗 22.黄宗義 23.顧炎武 24.五経正義 25.五経大全 26.子思 27.四書集注 28.実践躬行 29.周敦頤 30.荀子 31.順治 32.讖緯 33.神仙 34.銭大キン 35.先知後行 36.曾子 37.尊王攘夷 38.大義名分 39.太宗 40.知行合一 41.忠君愛国 42.程頤 43.天人合一 44.董仲舒 45.徳治 46.馬融 47.文治 48.法治 49.孟子 50.雍正 51.陸九淵 52.李斯 53.劉向 54.老荘

[C] 下線部(1)〜(7)に対応する以下の設間の答を所定の解答欄に記入しなさい。
(1) この説を何というか。
(2) このころ古典を読む助けとなる字典が作られた。1.その書名と2.作者を答えなさい。
(3) この時代に儒家が弾圧された事件を何というか。
(4) この論議を何というか。
(5) 科挙の制度は宋代に改革され整備された。この改革で導入された皇帝自ら試験官となる最終試験を何というか。
(6) 1.当時南宋が臣下の礼をとっていた国はどこか。2.またこの国を建てた民族は何か。
(7) 『孔子改制考』を著し,この学問を理論的根拠として政治改革運動を行った人物はだれか。


[2] 次の文章は,漢代から唐代にかけての道教と仏教の展開について述べたものである。これを読んで( A )から( J )までの空欄に最も適切な語句を記入しなさい。また,下線部(1)〜(5)に関する設問に答えなさい。なお解答は数字をのぞき,すべて漢字で表記しなさい。[慶応・改題]

 道教は,中国古代に流行した神秘思想である( A )思想などの民間信仰が混ざりあってできたものである。( A )思想が秦の始皇帝や漢の武帝に強い影響を与え,彼らを不老不死の追求に走らせたことは,古くから人々に知られた事実であろう。これに対し仏教は,言うまでもなく中国の外部から流入した宗教である。仏教の伝来ルートとしては,漢の武帝の匈奴討伐によって開かれた,いわゆるシルク・ロードが,その初期には主要な道筋であったが,のちにはインドからマレー半島,ベトナムを経由して,中国の南部の広州や,長江下流域の揚州に到達する南海ルートも,大きな役割を果たすようになった。
 道教が組織化され,仏教が中国に受容されたのはともに後漢の時代と考えられる。道教の組織は,後漢後期の不安定な社会情勢の中で次々と反乱を起こしたが,なかでも( B )が四川省で結成した五斗米道による反乱や,( C )が創始した太平道が( D )年に起こした黄巾の乱は王朝の屋台骨をゆるがせた。なお,五斗米道は病気の呪術的な治癒をこととし,その代償に米五斗を出させたことにその名の由来がある。他方,太平道の名前は( C )が信奉した経典である『太平清領書』によっている。
 さて,このような時代,仏教は道教の神秘思想にもたれかかる形で広がっていったものの,魏晋南北朝時代にはいると,次第にその独自の形を整えはじめた。これには後趙につかえた( E )や,中国人僧侶である(1)慧遠とも交遊のあった( F )らの外国人僧侶による仏典の翻訳などが,あずかって力があった。また慧遠は中国南方の盧山で極楽往生を説いたが,仏教と道教の二道は山岳と密接な関係をもち,道教にあっては東晋のカッ洪が『抱朴子』のなかで,山中での修業の重要性を説き,さらに実際に嵩山で修業した( G )は新天師道をひらいた。『魏書』によると,嵩山で修行にはげむ彼のもとに老子が竜にまたがって降臨して教えを授け,それによって彼は,新天師道をひらくことを決意したといわれている。なお中国には古くから,中国の東西南北と中央の五つの地点に,神聖な山岳を配してこれを尊ぶ習慣があった。なかでも嵩山は中国の中央に位置する中岳として人々の崇拝を集めていたから,ここが道教の聖地となったのも,まことに自然ななりゆきと言えよう。
 南北朝時代には仏教の隆盛にともなって,各地で仏寺や石窟がさかんに造営された。ただし興味深いのは,江南ではわずかな例外をのぞいて,石窟寺院は営まれなかったことである。そこでここでは中国北部の例をみてみよう。たとえば北魏では太武帝の治世に大規模な(2)廃仏政策がとられたものの,それもやがて終息した。文成帝が僧侶の曇曜に命じ,都の( H )から15キロメートルのところに掘削させた雲崗石窟はとくに有名である。ただしこの石窟の造営は,( I )が採用した積極的な漢化政策のあおりを受けて,都が洛陽に移った時点で終わりを告げた。雲崗石窟の最終的な規模は大小四十窟あまりであり,仏像にはガンダーラ・グプタ様式の影響が濃厚ににじみ出ているとされている。
 続く隋唐時代には,仏道二教は国家宗教的な体裁をとりながら,一部の時期を除いて共存共栄の関係を維持し続けた。まず道教であるが,唐代には国教化されるにいたった。さきに新天師道のところでみたように,老子は道教の始祖として,道教のなかで重要な地位を占めており,さらに(3)唐の皇帝の姓が老子の姓と一致していたため,唐の皇帝は老子の子孫とみなされた。このような事情があって,道教は国家宗教にまで祭りあげられたのである。他方,仏教の興隆にあたっては,(4)玄奘や(5)義浄といった僧侶がインドに旅だち,『大菩薩蔵経』や『顕揚聖教論』といった大量の経典を持ち帰ったことが,大きな貢献として特筆されるべきであろう。
 このようにして仏教と道教は,中国人の生活に深く根をおろしてゆき,現在にいたるもなお,多くの人々の崇拝の対象となっているのである。

設問
(1) 下線部(1)について,彼が信者とともに結成した結社の名前は何か。
(2) 下線部(2)について,これを含め,前近代の王朝でとられた廃仏政策を総称して何と呼ぶか。
(3) 下線部(3)について,この姓は何か。
(4) 下線部(4)について,彼がのこした旅行記の名前は何か。
(5) 下線部(5)について,彼がのこした四巻からなる旅行記の名前は何か。

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3.欧米の宗教

[1] 下記の文の空欄1〜10にもっとも適した語を記入し,また( ア )〜( コ )については下記の語群ア〜コのおのおののなかからもっとも適した語を選択して文を完成させよ。[法政・改題]

 キリスト教徒のなかでカトリック教会の信徒がもっとも多い。そしてこれを大陸別にみるならば,もっとも多数の信徒を擁する地域は南アメリカである。これは,この大陸を長期にわたって支配したスペインとポルトガルがカトリック教国だったからである。スペインは16世紀初頭,現地住民のキリスト教化を条件として入植者に土地と住民を委ねる ( ア ) という政策をとっていた。またこれらの国の宣教師は宗教改革ののち,戦闘的に布教活動をおこなった。
 次に多いのがヨーロッパ大陸で,ここにはキリスト教徒の3分の1がいるが,カトリックはそのうちの約半数を占めている。カトリック教会の信徒の分布は西欧と南欧に確固たる地盤を有している。東欧にもカトリックの信徒は少なくない。[ 1 ]は10世紀に王国を形成したころからカトリックを奉ずるようになった。またバルト3国のうち ( イ ) は14世紀にドイツ騎士団の圧力と東からのモンゴル人の侵入に対抗するためにカトリックに改宗して[ 1 ]との連合国家を形成した。これがヤゲウォ朝である。[ 1 ]が1980年代初頭に始まった東欧社会主義圏の動揺の口火を切ったこともこの国の人びとの熱烈なカトリック信仰に無関係ではない。
 [ 2 ]にもカトリック教徒が多い。これは,この国がながらくハプスブルク家の帝国の一部をなしていたからである。これと同様の理由で旧ユーゴスラヴィアの一部である[ 3 ]とスロヴェニアもカトリック圏に含めることができる。この地域は9世紀にカール大帝の支配下に入ってカトリックに改宗し,のちにハプスブルク家の支配下に入った。旧ユーゴスラヴィアの他の部分は後にみる東方正教会の領域にあたっており,さらに一部は16世紀からはオスマン帝国の支配の下におかれており,そのためにこの国には三つの宗教が混在した。このことは,この国の1990年代の混迷と分裂の大きな要因になっている。
 カトリックは意外にも北アメリカに多数の信徒を擁している。ここには人口約9千万のカトリック教国メキシコがあるが,カナダの東部がもともと[ 4 ]からの入植者によって開拓された土地であること,プロテスタントの多かったアメリカ合衆国が,19世紀なかばから[ 5 ]人,19世紀末から[ 6 ]人のようなカトリック系ヨーロッパ人移民を多く受け入れたからでもある。
 プロテスタントの信徒が多いのは北アメリカとヨーロッパである。いわゆる新大陸の開拓はカルヴァン派系のプロテスタントに負うところが大きく,この人々が成立以来のアメリカ合衆国の主要な担い手であった。
 ヨーロッパについてみると,プロテスタントは中部ヨーロッパから北欧にかけて優勢である。このなかでドイツと北欧は宗教改革を指導したドイツ人ルターの影響を強く受け, ( ウ ) はフランス出身の改革派神学者カルヴァンを指導者として迎えたことでその影響を強く受けた。なお,イギリスでは英国国教会が大きな力をもつが,これは ( エ )がローマ教会と絶縁して設立されたものである。これも表のなかではプロテスタントのうちに含まれている。
 東方正教会の起源は古い。ローマ時代にキリスト教世界の中心となった5つの教会のなかで次第にローマと ( オ ) の教会が有力になった。西ローマ帝国の滅亡後,ローマ教会がフランク人と結びつくのと平行して後者はビザンツ帝国との結びつきを強め,対立を深めた両者はやがて1054年に分裂する。 ( オ ) 教会は9世紀ごろからバルカン半島方面への布教を活発化させ, [ 7 ] ,旧ユーゴスラヴィアのなかの[ 8 ]などで大きな教会組織を建設し,さらに10世紀末になると ( カ ) 大公がビザンツ皇帝の妹と結婚して東方正教会の信仰を国教とするにいたった。こうして15世紀にビザンツ帝国がイスラム勢力によって崩壊し,バルカン半島方面にまでその勢力が伸長すると,東方正教会の中心はロシアに移ったのである。こうして,今日ではこの宗派は1820年代にオスマン帝国の支配下から脱した ( キ ) の他は圧倒的にスラヴ系住民の世界に基盤をもっているのである。
 なお,この表のなかではコプト教会は東方正教会のうちに含められている。これはキリストのうちに神性のみを認める,いわゆる「キリスト単性論」の立場に立つもので,人性と神性の双方を認める正統派によって451年に ( ク ) 公会議で異端とされたものである。この宗派は古代の5大教会のうちの一つであった ( ケ ) の教会を中心としてシリアやアフリカに広まり,現在ではエジプトに人口の約10分の1の信徒がいるほか, [ 9 ]に多くの信徒が存在する。なお, ( 8 ) 公会議に先立つ ( コ ) の公会議で異端とされた[ 10 ]派は今日でも存在している。これは唐代の中国で景教として知られたものである。

語群
ア a.アシェンダ b.エンコミエンダ c.ラティフンディア
イ a.エストニア b.ラトヴィア c.リトアニア
ウ a.オランダ b.スイス c.スコットランド
エ a.エリザベス1世 b.ヘンリー8世 c.メアリー1世
オ a.アレキサンドリア b.アンティオキア c.イェルサレム d.コンスタンティノープル
カ a.キエフ b.ノヴゴロド c.モスクワ
キ a.アルバニア b.ギリシア c.ボスニア d.ルーマニア
ク a.エフェソス b.カルケドン c.ニケーア
ケ a.アレキサンドリア b.アンティオキア c.イェルサレム d.コンスタンティノープル
コ a.エフェソス b.カルケドン c.ニケーア


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