6.未学習地域史

1.未学習地域史

[1] 次の文1〜7を読み,下記の設問A〜Dに答えよ。[立教・改題]

1.1640年代のアイルランドのカトリック勢力による反乱は,イギリスの徹底的な鎮圧によっていったん幕を閉じた。しかしアイルランド独立の動きはフランス革命の影響の中で活発化した。これに対してイギリス政府は1800年に合同法を可決し,翌年アイルランドを併合した。これによりアイルランド議会は廃止され,イギリスの議会が直接アイルランドを支配することになった。アイルランドの政治家( イ )はダブリンで「カトリック協会」を結成してカトリック差別撤廃を掲げて運動を進め,〔 あ 〕年のカトリック教徒解放法の成立に尽力し,その後議会に入った。併合後アイルランド製造業の中で大きな発展をとげたものに,ベルファストを中心とする亜麻工業がある。
2.併合後アイルランドの人口は増加しつづけた。1801年には約520万人であったが,1841年には約820万人となった。ところがジャガイモの飢饉やアメリカなどへの移民により1851年には約650万人へと大きく減少した。そしてその後も人口減少は止まらず,最盛期の半分近くまで人口は落ち込んだ。減少傾向から反転したのはようやく1960年代になってからであった。
3.イギリス首相〔 い 〕はアイルランド国民党との連携のもとで,1880・90年代に2度にわたってアイルランド自治法案を議会に提出したが,議会の反対で通過しなかった。ようやく通過したのは1914年,〔 う 〕党アスキス内閣のもとであった。ところが第一次世界大戦の中でその実施が延期されている間に,分離独立を目指す(1)武装蜂起が1916年4月にダブリンでおきた。この蜂起に対するイギリス軍の鎮圧措置は厳しく,それがアイルランドでの世論の流れを変えた。以後,アイルランドでは1905年に結成され,共和主義的分離独立を唱える( ロ )党の勢力が強まった。1918年に行われた第〔 え 〕回選挙法改正にもとづく同年の総選挙で,アイルランドでは( ロ )党が圧勝した。
4.( ロ )党はイギリス議会からの脱退とアイルランド国民議会の創設を実行し,1919年にイギリスからの独立を宣言した。しかし当時のイギリス首相〔 お 〕はこれを認めず,武装闘争と軍事鎮圧がくりかえされた。1922年にアイルランド自由国が成立するが,これは北アイルランドと南アイルランドを事実上分離したうえで,南のアイルランド自由国をイギリス連邦自治領とするものであった。そして1931年に制定された( ハ )によってイギリス連邦体制が法的に確認された。
5.アイルランド自由国は,イギリスの反対の中で1923年に国際連盟に加盟した。(2)1932年に開かれたイギリス連邦経済会議において,イギリスと自治領諸国の間で,また自治領諸国間で低い関税を認める特恵関税体制が作られたが,アイルランドはイギリスとの通商協定を結んでいない。この年からアイルランドは,自作農創設資金年賦金支払いをめぐってイギリスと経済戦争状態となった。イギリスはアイルランド産肉牛や農産物に対して高い関税をかけ,アイルランドはそれに報復したのである。アイルランド首相デ=ヴァレラは1937年に新憲法を制定し,国名をアイルランド語で( ニ )と改めた。
6.アイルランドは数多くの作家・思想家を生んでいる。『ユリシーズ』を書いたジェイムズ=ジョイス,フェビアン協会に参加した劇作家〔 か 〕や,日本で生活し日本文化に深い理解を示したラフカディオ=ハーン(小泉八雲)がそうである。(3)彼の日本での生活期間はイギリス帝国にとって重要な出来事が起きた時期でもあった
7.アイルランドは1949年にイギリス連邦から脱退し共和国となった。アイルランド共和国はイギリスとともに〔 き 〕年にECに加盟する。そしてECは1992年に調印された( ホ )条約によって,単一通貨導入に道を開いた。現在アイルランド共和国ではヨーロッパ単一通貨ユーロが流通しているが,イギリスはユーロに参加していない。

A.文中の空所(イ)〜(ホ)それぞれにあてはまる適当な語句または人名をしるせ。

B.文中の空所〔あ〕〜〔き〕にあてはまる適当な語句または数字を,それぞれ対応する次のa〜dから1つずつ選び,その符号をマークせよ。
〔あ〕a.1815 b.1824 c.1829 d.1832
〔い〕a.ウェリントン b.グラッドストン c.ディズレーリ d.パーマストン
〔う〕a.自由 b.統一 c.保守 d.労働
〔え〕a.2 b.3 c.4 d.5
〔お〕a.ジョゼフ=チェンバレン b.ネヴィル=チェンバレン c.マクドナルド d.ロイド=ジョージ
〔か〕a.トーマス=マン b.バーナード=ショー c.ブレヒト d.ロマン=ロラン
〔き〕a.1958 b.1967 c.1973 d.1986

C.文中の下線部(1)〜(4)にそれぞれ対応する次の問1〜4に答えよ。
1.この武装蜂起は何と呼ばれるか,その名をしるせ。
2.この会議が開かれた都市の名をしるせ。
3.ハーンは1890年に来日し,1904年に東京で亡くなっている。次のa〜fのうち,彼の日本での生活の期間に起きた出来事を2つ選び,その符号をマークせよ。順序は問わない。
a.インド帝国成立 b.英領マライ連邦(マレー連合州)成立 c.オーストラリア連邦成立 d.カナダ連邦成立 e.第1回イギリス植民地会議開催 f.南アフリカ連邦成立

[2] 次の文を読み,( ア )〜( ノ )に入る最も適切な語句を語群より選び,その番号を解答欄に記入しなさい。[同志社・改題]

 「太平洋」の名は,スペイン王室の命令で西回りの大航海を敢行したポルトガル人航海者マガリャンイス[マゼラン]の命名によるが,かれは1521年に( ア )に到達した後に先住民との戦いで死亡した。太平洋の東側のアメリカ大陸では,ヨーロッパ人の到来以前に,マヤの文明が中央アメリカの( イ )半島を中心に形成され,また12世紀にはアステカ族が( ウ )高原に進出し,15世紀以来強力な国家を建設していた。他方,南アメリカの( エ )地域では,15世紀後半に北は現在の( オ )から南は( カ )におよぶ広大なインカ帝国が成立していた。スペイン王室は,軍隊を送り込み,これらインディオの諸王国を征服し,現在の( キ )南部のポトシ銀山などの鉱山開発をおこなった。
 太平洋の西側を見ると,スペインが,フェリペ2世時代に( ア )を領有し,その主港をアジア貿易の拠点とした。南太平洋では17世紀なかごろにオランダ人探検家( ク )が,マオリ人の住む( ケ )やアボリジニーの住む( コ )を調査した。その後18世紀後半にイギリス人( サ )の探検の結果,( ケ )と( コ )はイギリス領となった。19世紀末にイギリスは,メラネシアにおいて,オランダが西部を占領する( シ )島の東部を,ドイツと分割して領有するなど,フランスなどとともに南太平洋の諸島の領有につとめた。
 一方,北方では,ロシアが毛皮などを求めて東進し,17世紀前半に太平洋に達していた。ピョートル1世は18世紀はじめから( ス )らに命じて,( セ )半島やアラスカを探検させた。その後ロシアは,19世紀のなかばに清との間に北京条約を結んで,( ソ )を獲得し,港をひらいて太平洋進出の拠点とした。
 他方,西部開拓をすすめるアメリカ合衆国は,1846年( タ )を併合し,さらに( ウ )とたたかって48年に( チ )を獲得し,その領土は太平洋に達した。その後アメリカは,米西戦争の勝利の結果,( ア )や( ツ )島をスペインから獲得し,さらに米西戦争中に( テ )を併合した。また20世紀に入ると,コロンビア共和国から( ト )を独立させ,カリブ海と太平洋をつなぐ交通の要所に重要な権益を得た。
 日本の明治政府は,1875年にロシアとの間に領土に関する条約をむすび,( ナ )をロシア領,( ニ )を日本領と定めた。また同じ頃,( ヌ )への出兵や,( ネ )の領有もおこなった。日露戦争後のポーツマス条約により,日本は,北緯50度以南の( ナ )の領有権などを得た。第一次世界大戦がはじまると,日本は,太平洋上のドイツ領南洋諸島を占領し,また大戦末期には,( ノ )に出兵し,ソヴィエトヘの干渉戦争に加わった。

語群
1.ブラジル 2.ベネズエラ 3.チリ 4.パラグアイ 5.メキシコ 6.エクアドル 7.ボリビア 8.アンデス 9.ユカタン 10.パナマ 11.ボルネオ 12.ニューカレドニア 13.ニューギニア 14.グアム 15.フィジー 16.オーストラリア 17.スマトラ 18.ニュージーランド 19.フィリピン 20.ハワイ 21.スコット 22.ムラヴィヨフ 23.ベーリング 24.アムンゼン 25.クック 26.タスマン 27.満州 28.沿海州 29.韓国 30.琉球 31.台湾 32.全千島 33.樺太(サハリン) 34.シベリア 35.カムチャツカ 36.テキサス 37.ルイジアナ 38.カリフォルニア 39.フロリダ 40.オレゴン

[3] 次の文中の[  ]に最も適当な語を語群から選び,また下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。[関西学院・改題]

 太平洋は広い。大西洋の1.7倍,インド洋の2.4倍で,地球表面の約3分の1を占める。文化的にみると,ミクロネシア,ポリネシア,メラネシアと大別される。
 ミクロネシアとは,1831年のドムニー=ドリンズィによるパリ地理学会に対する提案に基づくが,「小さな島々」の意味で,一番大きなグアム島でも541平方キロ(淡路島は592.9平方キロ)しかない。1521年に[ 1 ]の船隊が太平洋を横断してマリアナ諸島に到達し,グアムはフィリピンとメキシコの間の中継地となり,(イ)マリアナ諸島はスペインの版図に入る。
 ポリネシアとは「多数の島々」の意味で,ハワイ,(ロ)サモア,(ハ)仏領ポリネシア,イースター島,それに1900年にイギリス保護領となり,現在は太平洋唯一の王国である[ 2 ]もこれに含まれる。キャプテン=クックは,金星の観測をするため太平洋に入った1777年から,[ 3 ]で非業の死を遂げる1779年まで,太平洋海域を縦横に駆けめぐり,各島々で似通った言語と風俗を持つ民族の存在に気が付いた。後にポリネシアと定義づけられたとう島しょ嶼だった。ただ今日では,(ニ)ニュージーランドやクック諸島などに住むポリネシア人だけには,土着の住民を意味する[ 4 ]の名称が使われている。
 地理的にはインドネシアとポリネシアの間にあるメラネシアは,「黒い島々」という意味で,黒いというのは住民の皮膚の色を指し,メラネシアには,日本の面積の2倍以上もあるニューギニア島をはじめ,面積の広い島々が多い。この地域には,16世紀ポルトガル統治時代の言語の影響が現代におよんでいる。それにニューギニア島の西半分が,現在,インドネシアの支配下にあり,(ホ)ニューカレドニアが自治権を保持しながらも依然として仏領の一部であることから,メラネシアは反植民地主義の色彩が強い。また一方で,(ヘ)フィジーに南太平洋フォーラム(SPF)がおかれるなど,国連の関連機関の本部はメラネシアにある。
 これらの太平洋の島々は,19世紀末にはほとんどヨーロッパ諸国に領有されていた。それが米西戦争,第一次世界大戦,第二次世界大戦をへて,9つの独立国,4つの自由連合国のほか,アメリカの自治領,フランス海外領,アメリカ領,チリ領,インドネシア領,イギリス属領,ニュージーランド属領,国連信託統治領へと様変わりすることになった。
(太平洋学会編『太平洋諸島入門』参照)

[語群]
1 a.タスマン b.マゼラン c.カブラル d.アメリゴ=ヴェスプッチ e.ヴァスコ=ダ=ガマ
2 a.トンガ b.フィリピン c.タスマニア d.バヌアツ e.北ボルネオ
3 a.モルッカ諸島 b.オーストラリア c.クック諸島 d.ハワイ e.サモア
4 a.マオリ b.ムラート c.メスティーソ d.アボリジニー e.クリオーリョ

[問い]
(イ) マリアナ諸島は1914年日本海軍が無血占領することになるが,米西戦争で疲弊したスペインからグアムを除くこの諸島を買収した国はどれか。
a.アメリカ b.ドイツ c.フランス d.日本 e.イギリス
(ロ) サモア争奪戦に参加したのは,19世紀の覇権国と新興の帝国主義国家であった。サモア争奪戦に参加した国家の組み合せとして正しいものはどれか。
a.アメリカ・オランダ・ドイツ  b.イギリス・ドイツ・フランス
c.アメリカ・ドイツ・イギリス  d.イギリス・ロシア・アメリカ
e.アメリカ・イギリス・オランダ
(ハ) 仏領ポリネシアの中心の島タヒチで暮らし「文明社会」を批判した人物はだれか。
a.セザンヌ b.ゴッホ c.クールベ d.ルノワール e.ゴーガン
(ニ) ニュージーランドに関する記述で誤りを含むものはどれか。
a.17世紀にタスマンがここに到達した。
b.18世紀にイギリスの植民地となった。
c.20世紀初頭にイギリスの自治領となった。
d.1980年代に反核政策を採用した。
(ホ) 1988年のフランス大統領選挙の帰趨に関して,ニューカレドニアの民族主義は重要な役割を果した。この時の選挙で当選した人物はだれか。
a.ミッテラン b.ジスカール=デスタン c.ポンピドゥー d.シラク e.ド=ゴール
(ヘ) 現在フィジーでは,かつてサトウキビのプランテーション労働者としてインドからやってきたフィジー国籍のインド人と元来のフィジー人が対立する場面も見られるが,そのフィジーのかつての宗主国はどれか。
a.フランス b.ドイツ c.オランダ d.スペイン e.イギリス

[4] 次の文章を読んで,[ A ]〜[ F ]に最も適切な語句を記入し,下線部[1]〜[4]についてあとの問いに答えよ。[立命館・改題]

 アフガニスタンは,ヒンドゥクシュ山脈を中心に,西はイラン,北はトゥルクメニスタン・ウズベキスタン・[1]タジキスタン,東南はパキスタンに接する。中央アジア・西アジア・インドを結ぶ交通の要衝にあたり,しばしば諸勢力の征服するところとなった。アケメネス朝ペルシアの支配ののち,アレクサンドロス大王の遠征を契機にヘレニズム文化の影響を受け,[ A ]王国の支配を経て,クシャン朝の治下にガンダーラ美術が発達した。仏教遺跡で名高いアフガニスタン中央部のバーミヤンは,ペシャワールとバルフの中間に位置する。岩壁に大仏が彫り出されており,[2]7世紀に陸路インドに赴いた玄奘も,その旅行記においてこの大仏に言及している。アフガニスタンは,8世紀からイスラム勢力の支配下に入った。962年,サーマーン朝のホラサーン知事であったアルプ=テギンは背反の嫌疑を受けてアフガニスタンの[ B ]に拠り,事実上独立した。その奴隷であったセブク=テギンは主人の死後推戴されて[ B ]朝の実質的な建国者となった。かれは肥沃なパンジャーブ地方の征服を図り,インド侵入を開始した。かれの長子であるマフムードは,アフガニスタン全域に加えて,イラン・トランスオクシアナの大部分をも制圧し,パンジャーブ地方をも支配下に収め,[3]ラージプート諸侯に何度も大勝し,グジャラート地方に進軍した。マフムードの治世は王朝の最盛期で,その宮廷は詩人フィルドウシー,学者ビールーニーなどを輩出した。マフムードの死後,[ B ]朝は,[4]セルジューク朝の圧迫でイランを喪失した。1163年,ヘラート東南のゴール地方出身のギャース=ウッディーン=ムハンマドが[ B ]を攻略し,ゴール朝を建国した。その弟のムハンマド=ゴーリーは,掠奪と破壊に終始したインド侵入のあり方を反省し,インドヘのイスラム教の浸透を図り,ラージプート諸侯を破って,北インドをほぼ平定した。のち,ホラサーン経営に没頭し,部下の[ C ]にインド経営を委ねた。[ C ]は,はじめニシャプールの富裕な商人の奴隷であったが,その才能を認められて学校教育を授けられた。のちムハンマド=ゴーリーの奴隷となって寵愛され,インド遠征で武勲を立てた。[ C ]は,ムハンマド=ゴーリーが暗殺されたのち独立して[ D ]に根拠地を定め,インドにおける本格的なイスラム王朝を開始した。
 13世紀にはモンゴル帝国の影響下に入るが,とりわけのティムール朝下では,シャー=ルフが西部のヘラートに遷都して,いまも同地にみごとな建造物を遺している。
 16世紀にはカーブルから出た[ E ]がインドにムガル朝を起こすが,その後はむしろ同朝はインド自体に展開し,アフガニスタンはイランのカージャール朝下に入って,1747年にドゥッラーニー朝がアフガニスタン王国を建国するまで,独自の国をなすことはなかった。しかし19世紀に入るとイギリスが進出し,3度にわたるイギリスとのアフガン戦争では第1回はイギリスが完敗,第2回ではいったん保護国とされるが,1919年の第3次戦争ではアフガニスタンは独立を回復し,イギリス,ソ連に対して中立政策をとった。
 その後王政がとられたが,ソ連の支援をうけてクーデタが起こり,1978年には共産主義体制が成立した。これに対して[ F ]教徒が反発の姿勢を明確にしたが,共産主義政権の崩壊を懸念したソ連は軍事介入し,戦争となって,多数のアフガニスタン難民が周辺国に逃れる事態となった。1985年,ソ連は[ G ]政権成立によって和平路線に転じ,ソ連軍は1989年2月までに撤退した。しかし,アフガニスタンの国内事情は複雑で,内戦がつづき,和平への道は,なお遠いようにみえる。

[1] タジク人はイラン系民族だが,その祖先とされ,東西交易に活躍し,唐代の中国にも多く来訪したのは何人か。
[2]
(a) 玄奘に先立ち,陸路インドに赴き,412年に帰国した中国の仏僧の旅行記の名を記せ。
(b) 玄奘がインドを訪れたころ,北インドを統一していた王朝の名を記せ。
[3] ラージプート族とともに5世紀に中央アジアから北インドに侵入し,グプタ朝と交戦した民族の名を記せ。
[4]
(a) マリク=シャーに仕え,セルジューク朝の最盛期を現出したイラン人宰相の名を記せ。
(b) セルジューク朝治下のメルヴで天文台長をつとめ,四行詩(ルバーイー)詩人として著名な人物の名を記せ。


[5] 次の文章を読んで,[ A ]〜[ F ]にもっとも適切な語句を記入し,下線部〔1〕〜〔5〕についてあとの問いに答えよ。[立命館・改題]

 台湾がアジアにおける国際関係の中に明確に登場するのは17世紀以降である。1624年には[ A ]人がこの地に貿易の拠点を築いた。彼らは1661年に明の遺臣である[ B ]により駆逐され,〔1〕[ B ]は台湾を根拠地にして清に抵抗した。[ B ]の死後,[ B ]の一族は1683年に清朝に降伏し,台湾は清朝の政治支配に組み入れられた。これに伴い対岸の福建省や広東省からの漢人種の移民が増大し,農地の開墾が進展した。
 1894年に勃発した日清戦争に勝利した日本は,〔2〕1895年の下関条約により台湾を清国から割譲させた。このあと直ちに台湾総督府が設置され,日本による植民地支配が開始された。日本は台湾内の反乱を鎮圧する一方で,交通網の充実,土地制度改革などを断行した。そして米と砂糖の生産を中心に台湾農業の振興をはかった。さらに1930年代以降には,台湾の工業化にも力が注がれた。台湾住民に対する教育の普及,社会生活の改善など様々な施策が進行した。
 1943年12月に発表された[ C ]宣言により,第二次世界大戦集結後に〔3〕台湾は中華民国に返還されることが明らかにされた。1945年の日本敗戦後,台湾には台湾省行政長官公署が設置され,中国大陸から台湾に移ってきた軍人と官吏たちによる台湾支配が開始された。しかし行政長官公署の台湾統治は順調に展開せず,軍隊の腐敗,官吏の汚職,物価の騰貴,失業の増大など,台湾住民の中に大きな不満を発生させ,やがて反政府・反外省人(外省人は1945年以降に中国大陸から台湾に来た中国人)を叫ぶ〔4〕民衆の暴動が発生し台湾全島に波及した。この暴動は急ぎ中国大陸から台湾に派遣された国民党軍により,徹底的に鎮圧され多くの犠牲者が出た。
 1949年12月,中国大陸での共産党との内戦に破れた国民党は,〔5〕国民政府の首都を台北に移した。これより国民政府による本格的な台湾支配が開始される。すでに1949年の5月には台湾全島に戒厳令が敷かれており,1987年に解除されるまで長期にわたり言論,出版,集会,結社の自由が抑圧された。しかし国民党は一方で1950年代初期に大規模な土地改革を断行し,また[ D ]からの経済援助を背景に経済建設を進展させた。これには日本統治時代からの港湾施設や鉄道がのこり,質の高い労働力が存在した事も幸いした。1971年になり,中華民国国民政府は国連の[ E ]における常任理事国の代表権を中華人民共和国にうばわれ国連を脱退した。しかし台湾の経済発展は順調に進展した。
 1980年代に入り経済の急成長による大量の中産階級の出現が政治の安定化をもたらし,国民党はそれまでの一党独裁体制を放棄しはじめた。この動きはショウ経国により開始された。ショウ経国は李登輝らの台湾出身者を登用し,李登輝はショウ経国総統のもとで副総統に就任する。ショウ経国は1986年には野党としての[ F ]を承認し,1987年には戒厳令を解除した。1988年のショウ経国の死後には憲法の規定で李登輝が総統に就任し政治改革を断行した。さらに1994年の憲法改正のあと1996年には住民の直接選挙により李登輝が総統に選出された。2000年の総統選挙では[ F ]の陳水扁が総統に選出された。台湾における複数政党制度と法治主義の推進は確固とした流れとなっている。

〔1〕[ B ]は功績により南明の唐王から皇室の姓を与えられたが,何という姓か。
〔2〕この条約によって遼東半島の割譲が決定したが,ヨーロッパ諸国の反対にあい,日本は清国に返還し,代わりに3000万両を得た。この事件を何というか。
〔3〕ローズヴェルトやチャーチルとともに,[ C ]宣言を発表した中華民国代表はだれか。
〔4〕この暴動は勃発した日時を冠した事件の名でよばれる。何事件とよばれるか。
〔5〕この直前に国民政府は,首都機能を南京からある都市に移した。何という都市か。


UP 次の問題へ

inserted by FC2 system